第二話 河瀬春輝

視点 : 河瀬春輝


【9月10日(火)】

 夏が終わろうとしていた。けれど一向に去る気配のない猛暑。駅舎の壁に蝉が張り付き、劈く鳴き声がいやにうるさい。夏は昔から嫌いだ。ああ……いつになったら秋が来るんだ。そんなくだらないことを考えながら、額に滲んだ汗を拭う。

「はるくん、やっほ〜!」

「咲良か」

 柳川咲良、彼女は同じ高校の同級生。肩まで伸ばした綺麗な黒髪に、細いが力強い眼光。見た目が良いうえに、明るくて楽しい奴。クラスではやたらとモテているらしいが、そんなのはどうだっていい。彼氏はいないらしいが、きっとそろそろ出来る頃だろう。まるで家族のように馴れ馴れしく、遠慮もしない。最高の友人ではあるが、恋人にはしたくないタイプ。何故なら俺はもっと大人しくて、控えめな人の方が好みだからだ。

「ねえねえ、土曜のお祭り行こうよ」

「無理」

「はあ、なんで?」

「部活」

 吹奏楽部のもっとも大事な大会は、夏に始まる。地区大会、支部大会と勝ち進み、最終的に十月半ばの全国大会で賞を決する。なかでも我が部は全国屈指の強豪だということもあって、当然のように全国大会への出場を決めていた。そんな我が部には、土日だろうと休みなんて一日たりともない。来る日も来る日も楽器と譜面、そして顧問と先輩の怒声に向き合い続ける日々だった。こいつは帰宅部だから分からないのかもしれないが、今は俺たちにとって勝負の時期なのだ。

「いっつもいっつも部活部活って、ピーピー楽器吹くのがそんなに楽しいかね?」

 危うく手が出そうになったが、寸前で何とか堪えた。俺を腹立たせるのが目的なのだから、乗ってしまっては彼女の思う壺だ。咳払いをしてから、俺はあくまで冷静に答える。

「楽しいよ」

「ふーん……あっそ」

 可愛げのない奴。出会った頃はもっと気の利く優しい子だったのに、どうしてこうなったのかね。今もあのままでいてくれたのなら、少しは好きになっていたのかもしれないのに。まあ、それもこれもちゃんと言い返さない俺が悪いのだろうが。

 

 いつものしょうもない言い合いを交わしていると、ホームに電車が滑り込んでくる。二両編成の田舎らしい車体。ドアが開くと同時に駅舎の蝉はどこかへ飛んで行き、聞こえてくるのは駅員のアナウンスだけになった。車内に乗り込むと、二人掛けの座席がいくつも並んでいる。もちろん俺は、窓際の席を確保した。するといつものように、隣にあいつが座り込んでくる。

「涼しい〜」

「お前、汗臭えんだけど」

「いーじゃん、女子の汗だよ? ご褒美ご褒美」

「……」

 カバンから取り出した下敷きで、自分の顔を通路側からパタパタと扇いでいる。せめて逆からにしてくれ。何がご褒美だよ。ひとつも嬉しくない。そこまでの悪臭ではないから許してやるが、このデリカシーのなさがどうも気に入らない。仮にも男相手なのだから、少しくらい気を使ってくれてもいいもんだろ。まあ、つまりは俺が男として見られていないというわけだ。こんな奴でもきっと意中の相手には女らしく、少しはお淑やかに振る舞うに違いない。

 動き出した電車は三軒ほどの駅を経由して、高校の最寄りへと向かう。そして、学校に着いてしまえば朝練が始まる。はあ、憂鬱だ。吹奏楽は本当に好きだった。当然、今でも好き……なつもりだ。中学で吹奏楽部に入って、自分がやりたかったのはこれなんだと、はっきりと自覚した。だからこそ、この高校に進学して来たのだ。けれど今となっては、こいつが羨ましいと思ってしまうこともある。それもこれも、強豪校の練習というものがこれほどまでに辛いものだとは思っていなかったからだ。

「はあ……」

「どしたの、大丈夫?」

 俺がため息を吐くと、横から怪訝な顔を向けられる。扇いでいたはずの右手は、いつの間にか止められていた。彼女なりに心配してくれているのだろう。これだから嫌いになれないんだよな、こいつ。

「……ああ」

 一応、大丈夫だという意思表示だけはしておいた。はあ、憂鬱だ。土曜日……俺も、祭りに行きたいなあ……。

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