後編

 アルスカが仕事に慣れたころ、事件が起こった。

 ある日、上官がアルスカを廊下に呼び出した。

 そして窓の外を指さして言う。


「お前に会いたいって人が来てるぞ。あそこに立ってる奴だ。知り合いか?」


 アルスカはその指の先を見て、顔をしかめた。しかし、すぐに平静を装った。


「……まぁ、知らないこともないですが」

「会ってきたらどうだ? お前、ちょっと根を詰め過ぎだ」


 アルスカは嫌々ながら外に出て、その男に声を掛けた。


「なんでここに?」

 質問に、男は応えなかった。代わりに頭を下げる。

「アルスカ、俺が悪かった」


 そこに立っていたのは、もう二度と会うことがないと信じていたケランであった。

 アルスカは首を振った。この悪夢が早く終わってほしいと思った。


「怒ってない。もう忘れた。帰ってくれ」

「話を聞いてくれ」

「聞きたくない。それが用件なら、もう帰ってくれ。私は怒ってないし、もう気にしてない。二度とここに来ないでくれ」

 ケランはなおも食い下がる。

「許してくれ。気の迷いだ」


 アルスカは急に腹立たしい気持ちになった。

「もういいだろう!?」

 つられて、ケランも声を荒らげる。

「こんな終わりでいいのか!? ちゃんと話そう! 俺たちは14年も一緒にいたんだぞ!?」

「14年もだまされてたんだ! あなたがそんな人間だなんて気が付かなかった!」

「だましてない!!」


 2人は大声で怒鳴り合った。


 もっと前、それこそ、アルスカの心が冷めてしまうより前にこうして喧嘩をしたならば、もしかしたら違う未来があったかもしれない。

 アルスカが泣いて、ケランがその涙をぬぐってくれたなら、またはじめからやり直すという選択肢をとったかもしれない。

 しかし、現実はそうならなかった。


 アルスカはひとりでケランの裏切りを抱え込み、心が擦り切れてしまったのだ。裏切りを裏切りとして責め立てることができない関係しか築いてこなかったのは、アルスカにも責任がある。


 だからこそ、傷つけ合わずに終わる道を選んだのだ。

 2人は一通り大声を出したあと、肩で息をした。少しだけ頭が冷えた。


 アルスカはいつの間にか流れていた涙を袖でぬぐった。

「あの男はどうしたんだ?」

「別れた。遊びだったんだ」

「信じられない」

 2人はどこまでも平行線だ。


 ケランは弱った声で尋ねた。

「どうするつもりなんだ? この国はお前も知ってる通り、東方の民には厳しいところだ。こんなところで生活できるのか?」

 アルスカは強く言い切った。

「どこの国でも、私は異邦人だ」


 故郷が焼け落ちてから、どこへ行ってもアルスカは異邦人だ。そして異邦人だからと見くびられるのにも、慣れてしまった。そんなことよりも、今はケランに侮られる方が耐えがたい。


「でも……」

 なおも言い募ろうとするケランに、アルスカは言い捨てた。

「もう放っておいてくれ。私たちは終わった」


 ケランは肩を落として帰っていった。

 アルスカはなぜここがばれたのかと首を捻ったが、よく考えてみると、ここしかないことを思い出した。


 東方はいまだに戦火がくすぶり、とてもではないが帰れない。そしてガラで私の知り合いは皆ケランの知り合いでもある。ケランはその知り合いに連絡をとり、アルスカがガラにいないことに気が付いたのだ。

 そうなると、次にアルスカが行く国といえば、メルカしかない。


 アルスカはため息をついた。それから頬を一度叩くと、彼は仕事に戻った。



 以来、ケランはアルスカに近づくことはなくなった。しかし、彼の姿を見ない日はない。ケランはいつもフェクスの家の前にじっと立って、アルスカの出勤と帰宅を見ていた。


 アルスカはケランを不気味に思った。それは、フェクスも同意見であった。

 2人は相談して、憲兵に窮状を訴えた。


「なんとかしてください」


 しかし、異邦人であるアルスカを救おうとする憲兵はいなかった。アルスカは歯がみした。

 貧しい東方出身のアルスカと、裕福なガラの出身であるケランでは、アルスカの分が悪い。もしアルスカがか弱い女性であったなら、または彼がメルカ人であったならば、また違った対応をされたのは間違いない。


 しかし、その不平等を叫んだところでどうしようもない。差別というのは差別される側ではなく、差別する側の問題なのだ。アルスカにどうにかできる性質のものではない。


「……しばらく、仕事は日が落ちる前に切り上げろ。俺も迎えに行くから」


 憲兵に訴えに行った帰り道で、フェクスはそう言った。彼はアルスカの身を案じていた。


 しかし、アルスカは首を振った。

「そんなに早く仕事は終わることができない。いま、補佐官の中で私が一番翻訳が遅いんだ」

「命とどっちが大事だ」


 アルスカは黙った。彼はどうするべきかわからなかった。安全を優先するならばこのままフェクスに送り迎えを頼むべきだ。しかし、いつまでも友人に迷惑をかけるわけにもいかない。

 また、別れ方どうであったにせよ、14年も共に暮らしたケランが自分に対してそこまで無茶はしないだろうという驕りもあった。


「大丈夫だよ」

 アルスカはそう答えた。

 ――それは、間違いであった。


 翌日、アルスカはまだ日が高いうちにひとりで帰路についた。

 アルスカは疲労で何度も間違いをおこし、みかねた上官に帰宅して休むよう命じられたのだった。


 往来に出ると、真ん中に立ちふさがる人影があった。その人物の顔は逆光で見えない。それでも、アルスカは14年のつきあいでその人影がケランであるとわかった。


「あ……」


 怒鳴りつけて追い払おうとしたが、声が出なかった。その人影は異様な雰囲気を発し、ゆらゆらと上体を揺らしている。

 アルスカは無意識のうちに一歩後退した。

 ケランは笑い出す。ケタケタとした無機質な声だ。アルスカの背中に汗が噴き出した。


「わかってくれないなら、いっそ……」


 嫌な予感がした。それは身の危険を伝える第六感のようなものなのだ。ようやくアルスカは叫んだ。


「こっちに来るな!」


 このとき、アルスカはケランの右手に銀色の輝きを見た。

 それがナイフであると気が付くより早く、アルスカはケランに背を向けて走り出していた。逃げなければならないと思った。脳内では警鐘が鳴り響いている。しかし、恐怖が足の動きを阻害する。


 ――追いつかれる。


 すべてが緩慢に見えた。世界はゆるやかに動き、ナイフを構えたケランの足音が大きく耳に響く。


 アルスカは目をつむった。


 そして次に目を開けた時、彼の目の前には返り血を浴びて呆然と立ち尽くすケランと、その足元に倒れ込むフェクスがいた。

 フェクスは心配になってアルスカを迎えに来たところだった。そして、ナイフを持つケランを見て、飛び出したのだった。

 アルスカは絶叫した。


*****


 フェクスは街の病院に運ばれた。彼は腹部をナイフで刺され、大量に出血していた。

 医者が手を尽くした甲斐あって、彼は一命は取り留めたものの、昏睡状態が続いた。

 アルスカは何もかもを放り出して、フェクスの傍を離れなかった。


 アルスカは後悔していた。すべてはケランの不義から始まったことではあるが、アルスカは向き合うことから逃げた。これはアルスカの不義だ。ケランを壊してしまったのはほかでもない、アルスカなのだ。アルスカとケランはお互いに不義に不義を重ね、積もった澱がフェクスを襲った。

 どれほど謝罪をしても足りない。アルスカはフェクスの体を見つめて頭を掻きむしった。


 アルスカは懸命に介抱した。ひと匙、水のような粥をすくってフェクスの唇に当てる。根気のいる重病人の看病を、彼は弱音ひとつ吐かずにやりつづけた。


 そうして10日ほど経ったとき、フェクスの意識がはっきりとした。アルスカはそれを見逃さず、フェクスに向かって呼びかけた。


「フェクス」


 彼の声に応えるように、フェクスのまぶたがゆっくりと開いた。それを見て、アルスカの口からはまっさきに責める言葉が出た。


「無茶を……なんで……」

 フェクスは力なく笑う。

「守って、悪いか。……好きなんだ、お前のことが」


 アルスカは泣きたくなった。恋や愛を捨ててやって来たこの国で、愛を囁かれるとは思わなかった。


「気の迷いだな」

「そうだな。14年間会わなくても消えないくらい、強烈な気の迷いだ」

 フェクスは片眉を跳ね上げて、おどけて見せた。

「ケランと別れたって聞いて、俺は喜んだんだ。最低だろ?」

「そんなことは……」

「で? どうなんだ? 俺は命を懸けたんだが、お前の気は迷いそうか?」

 アルスカは首を振った。

「そんな言い方は卑怯だ……」

「ああ、俺は卑怯だ。お前が異邦人で、立場が弱いのをいいことに、家に居候させて、あげくに罪悪感で縛ろうとしてる。……嫌ってくれていい」

 アルスカは馬鹿な男を叱った。

「もっとやり方があっただろう。死ぬところだったんだぞ」

「これしか口説き方を知らない。正攻法で口説いて、学生の頃にケラン相手に惨敗した。覚えてるか? 俺、お前に結構言い寄ってたんだぞ?」


 2人は黙った。アルスカの気持ちを整理するには時間がかかる。フェクスもそれを理解している。彼は目を閉じた。待つのには慣れている。



 あのあと、逃げ出したケランは見知らぬ街で憲兵に捕縛された。ガラの地では金持ちの彼も、ここではただの異邦人だ。彼はメルカ人を害した罪で厳しい罰を受けることになる。


 獄中から、ケランは何通もの手紙をアルスカに送った。しかし、アルスカはそれらを読まずに捨てた。もう二度と会うことのない人間に心を乱されたくないのだ。それでも、手紙を捨てた屑入れの中から嫌な気配がする気がして、アルスカを悩ませた。


 しかし、フェクスが回復して家に戻ると、その悩みは吹き飛んだ。フェクスは医者の忠告を無視して歩き回り、アルスカは彼を見張るので大忙しになった。そして次第に屑入れに投げ捨てた紙切れのことなど、すっかり忘れてしまった。


 日常を取り戻したある日、アルスカが料理をしていると、後ろからフェクスが抱きついてきた。そして耳元で言う。


「お前に任せてたら、いつになるか分からない」

 アルスカは驚いた。

「……な!」

「だって、嫌なら、出てくだろ。軍には寮もある。でも、いてくれる。それが答えだ」


 満足げなフェクスに、アルスカは反論の言葉を持たない。彼は口をぱくぱくと開いたり閉じたりしたあと、耳まで赤くなって、俯いた。


「……自分でも、どうかしてると思う」

「俺もだ。この国では同性愛者は破門だ」

「……」

「そうなっても、いいと思ってる」


 そこまで言うと、フェクスはアルスカの顎を掴んで、強引に唇を重ねた。

 長い長い接吻のあと、アルスカはポツリと言った。


「苦労するよ」


 アルスカはこの国で同性の恋人を持つということがどういうことかをよく知っている。同性愛者は教会から破門され、また迫害を受ける。フェクスはこれから、この関係を世間から隠して、さらに異邦人であるアルスカを守らなければならない。


 アルスカの言葉を十分に理解したうえで、フェクスは言った。


「それを、変えたかった」

「……」


 アルスカは黙った。フェクスの言葉にはかつての青年時代の熱が戻っていた。アルスカが次の言葉を見つけるより前に、フェクスが続けた。


「いや、いまからでも変えればいい。俺、もう一度行政官から始めようと思う」


 アルスカは目を閉じた。そうなればどんなにいいだろうと思った。アルスカが愛したこの国が、アルスカを受け入れ、愛してくれるなら、それは夢のような話だ。


 2人はゆっくりと接吻をした。それから、互いの顔を見て照れたように笑った。青年のように夢物語を語り、愛を囁きあうには皺が多くなりすぎた。


 それでも2人は夢想した。この国の未来と、2人の未来に光があることを。



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不義の澱 深山恐竜 @pon0606

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