不義の澱
深山恐竜
前編
14年も愛を囁き合って寝食を共にしたとしても、縁が切れるときは一瞬だということをアルスカは知った。
彼は最愛の人だと思っていた人に最後の手紙を残そうとペンをとったが、この感情を伝えるべく言葉を尽くしたならば便箋が100枚あっても足りないことに気がついた。
結局、彼はただ別れの言葉だけを書いた。
アルスカはガラ国で恋人と14年暮らした。彼の恋人――ケランは男である。それでも、男女の夫婦と何ら変わらずに愛し合っていた。恐らく、半年前までは。
半年ほど前から、ケランの帰りが遅くなることが増えた。不審に思う気持ちを抑えきれず、アルスカは恋人を尾行した。そして彼は見てしまった。
ケランは仕事場から出ると、その足で見知らぬ男と合流した。2人は手をつなぎ、頬を寄せ合った。愕然とするアルスカの目の前で、2人は宿に消えていった。
2人は16年前に隣国メルカの大学で知り合った。アルスカは東方からの、そしてケランはガラ国からの留学生であった。
2人は同じ留学生であったが、その性質はずいぶん異なっていた。
アルスカは言語を学ぶ奨学留学生であった。奨学留学生とは成績優秀な留学生をさし、学費の支払いを免除され、さらに生活費も支給される。彼は貧しい東方の出身で、立身出世を目指してがむしゃらに机にかじりついていた。
一方、ケランは裕福なガラ国の金貸しの家の次男で、留学にかかる費用はすべて彼の親が支払っていた。彼は経済学を学んでいたが、勉学はそこそこにして、親の監視がない異国の地で酒を飲み、賭博場に出入りをしていた。
対照的な2人だったが、あるとき講義で隣に座って知り合った。
同性愛は、メルカでは宗教的禁忌とされている。しかし、2人の出身地である東方とガラ国では認められていた。
留学生の寮には男しかいない。寮内で同性愛はそれほど珍しくもなかった。
彼らは惹かれ合い、ついに愛し合った。
言語を学ぶにはまず恋人作りから、という先人の言葉は正しい。アルスカは大学で4年かけてメルカの言葉を話せるようになったが、ケランの母語であるガラ語を理解するのには半年で十分であった。
アルスカは3か国語を身に着けたことで、自分が夢である外交官になれると信じた。
しかし、それは彼の恋ゆえに叶わなかった。
卒業と同時に、ケランはアルスカをガラに誘った。
ケランの家は金貸しをしていて、ケランも国に戻ればその仕事をする。収入は一般的な商人や農民よりはるかに高水準だ。彼はそのうち自分の店を持つつもりだと言った。
「これから東方もメルカも豊かになって、ガラと取り引きが増える。アルスカは俺の店で通訳として働けばいいじゃないか」
この言葉にアルスカは頷いた。外交官の夢を捨てても、ケランと共にいたかった。若い彼らはそのまま手と手をとってガラへ向かった。
――燃え上がる恋の炎が鎮火した後のことなど考えもしなかった。
ケランの裏切りを知ってから、アルスカは苦しんだ。
その苦しみは筆舌に尽くしがたい。魂が抉られ、炎に炙られるようだ。
彼は自暴自棄になった。酒を飲み、家に寄り付かず、ときには道端で寝ることもあった。
異国の風は冷たさを増した。
しかし、それも今日で終わりである。
アルスカは荷物をまとめて家を出た。
心は晴れやかで、新しい生活への期待に溢れている。長く暮らした家に愛着がないわけではなかったが、彼は故郷が焼け落ちて以来、根無し草だ。どこでも生きていけるという自信があった。
彼は一度も振り返らなかった。
**
アルスカは隣国メルカの鄙びた宿で友人を待った。その友人とは長らく会っていなかったが、ひと月ほど前に葉書を出していた。友情を信じるならば再会できるはずである。
酒を飲みたかったが、メルカは戒律により春の3カ月は禁酒期間だ。酒場であってもこの時期は水と牛乳しか供さない。教会を中心に発展を遂げたこの国では戒律は絶対だった。
赤毛と碧眼、鷲鼻がメルカ人の顔立ちであり、黒髪黒目で低い鼻をしているアルスカは明らかな異邦人である。
それでもこの国の決まりに従うべく、彼は酒を諦めた。
手持無沙汰になったアルスカは煙草をふかした。煙草はこの時期のメルカで楽しめる唯一の娯楽である。
しかし、煙草はどんどん灰になり、2日後には残り1本となった。
アルスカは深いため息を漏らした。彼は酒と煙草以外で退屈を誤魔化す手段をすっかり忘れてしまっていた。
窓の外を眺める。
街は古びて、人々も心なしか草臥れているように見えた。
往来にはアルスカと同じ東方の民の姿もある。彼らは皆ボロを身にまとっている。
かつてアルスカがこの国の大学に通っていた当時、メルカ人は東方の民に友好的だった。
しかし、東方が焼け落ち、民が難民として押し寄せると、風当たりは一気に強くなった。難民は治安を悪化させ、さらに戦争を呼んだ。メルカの人々の心は荒んだ。
いま、東方の民は嫌われものだ。アルスカは宿を見つけるのさえ苦労した。
かつて夢の国だったメルカがいまでは――。
アルスカはしばしその現実を飲み込めなかった。
アルスカがぼんやりと考え事をしていると、部屋にノックの音が響いた。
薄汚れたドアを開けると、メルカ人――かつての大学の友人であるフェクスが立っていた。
アルスカはその顔を見て、苦笑いをした。
その昔、フェクスは学友の間で美少年と名高かった。しかし十数年の月日で丸い頬が削げ、指が節くれ立って、目じりには皺ができていた。赤毛の髪には白いものが混ざり、碧眼までもがくすんでしまったように感じさせる。
それでもフェクスがくしゃっと笑うと、青年時代の記憶が鮮やかに蘇り、懐かしさで胸がいっぱいになった。
「長旅だったでしょう。疲れていませんか」
フェクスは丁寧な言葉を使った。それでアルスカも思わず他人行儀に返した。
「もう十分休みました」
「いつ着いたのですか?」
「3日ほど前です」
「早かったんですね。葉書には日付までは書いてなかったので……念のため寄ってよかったです」
しばらく当たり障りのない会話をした後、フェクスは気楽に笑ってアルスカの背を叩いた。
「歳をとったな、お互い」
それを合図として、彼らは昔に戻ったように笑いあった。
「相変わらずお前のメルカ語は完璧だな。この国に来るのは久しぶりじゃないのか」
「14年ぶりだ」
「それはすごい。ふつう、言語ってのは使わないと忘れるらしいが、お前は前よりうまくなってる」
「ありがとう。少し前まで通訳の仕事をしていて、話す機会があったおかげかな」
「それはいい商売だ。こんなご時世だ。さぞ儲かっただろう」
遠慮のない物言いをする友人に、アルスカは苦笑した。
「まぁ、毎日のパンに困らないくらいさ」
「もったいないな。お前がメルカ国の生まれならもっと稼げるのに」
歳をとると円滑な人間関係構築のためのいくつかの技術を自然と身に着けられると思っていたが、そうでもない場合もあるようだ。アルスカは青年時代となんら変わらない奔放な男に安堵を覚えた。
変わってしまった街で、変わらない友人が眩しかった。
フェクスは若いころ大学で政治を学んでいた。当時彼は野心家の片鱗を見せていたが、その失言の多さから敵が多く、学生時代に大きな実績を残せなかった。
しかし、彼はアルスカたち留学生にも平等に接していた。アルスカは彼が政治家に向いていると思っていた。
フェクスのような男が失言癖を治して政治家になってくれれば、きっといい未来があると思ったくらいだ。
アルスカは尋ねた。
「フェクスはここで何の仕事を?」
「軍の仕事を手伝って食いつないでる」
その言葉に羞恥が含まれていることにアルスカは気が付いた。
大学時代、彼は壮大な夢を語ったものであった。それがただ日銭を稼ぐだけのくたびれた壮年になってしまったのだ。
アルスカも自身の堕落をよく知っているだけに、フェクスの羞恥が痛いほどわかった。かつて、アルスカも東方とメルカの懸け橋になると目を輝かせたが、ついに外交の仕事には就けなかった。
しかし、アルスカはその羞恥に気づかないふりをした。彼は円滑な人間関係の構築を学んでいたのだ。
「へぇ、いい仕事じゃないか」
フェクスは肩をすくめた。
「いいもんか。ごろつきのお守りだ。ところで、なんでこんな街に?」
「実は、仕事を探しているんだ」
「なんでまた」
「家を飛び出してきたんだ。いま、少しの金と、数着の服しか持ってない」
「はあ?」
アルスカは事の次第を語った。
「ケランと別れた。それで、あっちの国を出たんだ。メルカに住むのは私の夢だったから」
フェクスは目を見開いた。
「なんで別れたんだ? あんなに仲良かったのに」
「ケランに浮気された」
「それくらい……」
フェクスの失言を遮って、アルスカは言い切った。
「許せない。気持ちがないなら、一緒にいる理由がない。死ぬ気で働けばひとりで生きていくのには困らないさ」
「でも……」
まだ納得しないフェクスに、アルスカは哀れっぽい声を出して懇願した。
「頼むよ。私みたいな異邦人がこの国で仕事を得るためには、あなたの協力が必要不可欠なんだ」
*****
翌朝、アルスカはスープの匂いで目を覚ました。彼は簡単に身支度をすると、1階へ下りた。
そこで見た光景に、アルスカは心底驚いた。
「料理ができるとは、意外だ」
炊事場ではフェクスが軽快に野菜を切っていた。
「凝ったものは作れないぞ」
「手伝おう」
アルスカは腕まくりをした。
その日、食卓に並んだのは、パンとチーズ、野菜スープとベーコンエッグだった。不精な男2人の朝食には似つかわしくないほど豪勢だ。
「昨日はよく寝れたか?」
尋ねられて、アルスカは頷いた。
「ありがとう。悪いね、泊めてもらって」
「いい。どうせ部屋は余ってる。好きなだけいればいいさ」
アルスカは家から持ち出した金で家を借りるつもりだったのだが、フェクスによると、この街は異邦人に対して家を貸さないようになったのだという。そこで、フェクスの家の2階の空き部屋を借りることになったのだ。
アルスカは頭を下げた。
「ここまでしてくれるだなんて、なんと礼を言えばいいか……」
フェクスからは、予想外の言葉が返ってきた。
「礼はいい。……昔、お前が好きだった。……学生ってのは男所帯だから、一時の気の迷いだったかもしれんがな」
それを聞いて、アルスカは沈黙した。その言葉はアルスカにとって痛烈だ。彼はその一時の気の迷いで14年もガラ国で生活したのだ。そして絶望も味わった。
「……気の迷いで済んでよかったな」
彼はこう返すので精一杯であった。
朝食のあと、フェクスはアルスカを連れて家を出た。アルスカは東方の言葉と、メルカの言葉、そしてガラの言葉を話すことができる。フェクスの考えでは、アルスカにできる仕事はたくさんあるはずであった。
ここ5年ほど、メルカは南方の国と戦争をしている。相手の国は東方を焼き、さらに領土拡大を目指して進軍を続けていた。メルカはいま兵士が足りない。そこで、東方の難民を兵士に徴兵しようという動きが広がっている。軍では、難民を教育するための通訳を常に募集している。
また、北のガラとメルカは交易が盛んだ。商会に行けば、通訳は食うに困らないはずである。
フェクスはいくつかの案を考えたあと、まずは彼の現在の職場である軍に顔を出すことを決めた。
*
軍所有の建物を出て、アルスカつぶやいた。
「よかった」
「すぐ決まったな」
隣を歩くフェクスも嬉しそうである。アルスカが無事に職を得たのだ。
「たぶん、死ぬほど忙しいぞ」
「それくらいの方がいい」
フェクスの言葉に、アルスカは真剣に返した。いま彼は没頭できる何かを求めているのだ。
アルスカの新しい職は翻訳事務官補佐である。
各言語で送られてくる書類を翻訳する事務官を補佐する仕事だ。
アルスカは今日からでも勉強をはじめるつもりでこう言った。
「軍の専門用語が載ってる辞書はないだろうか」
「そんなのあるわけないだろ。実践あるのみだ」
「簡単に言うよ……」
彼らはそのまま市場へ向かって、いくつかの野菜と果物を買い求めた。
途中、アルスカが気が付いて尋ねた。
「ところで、あなたの仕事は? 今日は休み?」
「ああ、今日はいい。どうせ日雇いだ。働きたい日に行く」
アルスカは思った以上にフェクスの経済状況が悪いのを察した。
「……すまない。できるだけ早く一人で暮らせるようにするよ」
「気にしなくていい。部屋は余ってる。異邦人に家を貸す奴を見つけるのは大変だぞ。それより、いくらか家賃を入れてくれれば、そっちの方が助かる」
言われて、アルスカは頷いた。
「わかった。いくらだ? 手持ちで足りるなら、今日にでも払おう」
「今月は友情割引だ」
アルスカは眉を下げた。
「ありがとう」
「いいってことよ」
それから、アルスカは忙殺の日々を送った。
軍の翻訳は、これまで商人の翻訳しかしてこなかったアルスカには難易度が高かった。
職場では聞いたことのない専門用語が飛び交い、アルスカは耳を澄ませてそれらを聞き取ってメモに書き留めた。
彼は遅くまで職場に残って割り当てられた仕事をこなし、家に戻ってからは書き留めた単語の意味を調べた。
大変な日々だった。しかし、楽しくもあった。
アルスカは久しぶりに味わう学びの喜びに夢中になった。
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