第3章:結界の向こう側

世界は、どうしてこうも騒がしいのだろう。


平日の午後一時過ぎ。

私は早退届を出し、逃げるように学校を後にした。

熱があるわけでも、お腹が痛いわけでもない。

ただ、教室の空気に酔ってしまったのだ。


三時間目の現代文。教室の窓は閉め切られ、三十人分の呼気と、それぞれのドロドロとした思惑が充満していた。

クラスメイトたちの「空気を読む」ための探り合い。

ヒエラルキー上位のグループが発する、嘲笑を含んだヒソヒソ話。

教師の機嫌を伺いながら、正解だけを差し出そうとする優等生の視線。

それらが突然、粘度の高い有毒ガスのように感じられ、私の気管を塞いだ。

呼吸をするたびに、肺が鉛のように重くなり、自分の輪郭が「みんな」という得体の知れない怪物に溶かされていくような恐怖。


「……帰りたくないな」


地下鉄の改札を抜けながら、ポツリと呟く。

家に帰っても、そこには父の不機嫌という地雷原が待っているだけだ。

学校にも、家にも、私の安らげる場所なんてない。

私は水槽から放り出された魚のように、酸素を求めてあてもなくコンコースを彷徨っていた。


その時だった。

澱んだ視界の隅に、あの鮮烈な色彩が飛び込んできた。


(あ……)


赤だ。

あの人の赤だ。


彼は人混みの中を、いつものように一定のリズムで歩いていた。

その背中を見つけた瞬間、私の肺に新鮮な酸素が送り込まれたような気がした。

教室での窒息感が嘘のように消え去り、私は磁石に引かれる鉄屑のように、彼を追いかけていた。

彼を見ている時だけは、私は「私」でいられる気がした。


彼は迷いなく進んでいく。

改札を出て、出口へ向かうのかと思いきや、不意に進路を変えた。

彼が向かった先は、コンコースの奥まった場所にある、無機質な鉄の扉の前だった。


『関係者以外立入禁止』 『駅事務室』


彼は立ち止まることなく、扉をノックし、中へと入っていく。

数秒後、再び扉が開いた。

出てきた彼は、ドアの隙間に向かって帽子を取り、深々と頭を下げていた。


「ありがとうございます。作業に入ります」


その声は低く、けれどハッキリと聞こえた。

いつもの高速移動や無機質な表情からは想像もつかないほど、丁寧で、実直な礼儀正しさ。

駅員らしき男性が軽く手を挙げ、彼は再び「仕事の顔」に戻ってこちらへ歩き出す。

その手には、借り受けた「鍵」が握られていた。


彼は私の隠れている柱の横を通り過ぎ、すぐ近くにあるATMコーナーへと向かう。

銀行の支店ではなく、駅構内に設置された独立型のATMだ。


(……お金を下ろすの?)


そう思った次の瞬間、私の予想は裏切られた。

彼はATMの正面には回らなかった。

筐体の側面にある、壁と同化したような目立たない「化粧扉」の鍵穴に、借りてきた鍵を差し込んだのだ。


カチャリ、という重たい金属音。

扉が開き、薄暗い空間が口を開ける。

彼は迷うことなく、その狭い闇の中――機械の裏側へと体を滑り込ませた。

バタン。

扉が閉まり、彼は消えた。


「え……」


私は呆然と立ち尽くした。

彼は、あっち側の人間なんだ。

私たちが普段使っている世界の、さらに裏側。

「壁の中」に入れる人間。

その事実に、言いようのない断絶感と、奇妙な高揚感を覚えた。


しばらく待っても、彼は出てこない。

私は恐る恐る、ATMの方へ足を運んだ。

彼がいなくなった後の機械はどうなっているんだろう。

そんな子供じみた好奇心だった。


私がATMの前に立ち、足元のマットを踏んだ瞬間だった。


『いらっしゃいませ』


機械的な女性のアナウンスが響き渡る。

ビクッと肩が跳ねた。

と、同時に。


ガチャッ。


今しがた彼が消えたはずの横の扉が、不意に開いた。


「――っ!?」


そこから、ひょっこりと顔を出したのは、彼だった。

壁の中から、人間が現れたのだ。

彼は、私がマットを踏んだことでセンサーが反応し、客が来たのだと思って確認に出てきたのだろう。


私と、目が合った。


初めて、至近距離で見る彼の瞳。

それは深く静かで、やはり感情のノイズがない、澄んだ黒色だった。

彼は私のことを、不審者としてではなく「ATMを使おうとして待っている客」だと認識したようだった。

彼は作業の手を止めず、しかし非常に丁寧な、落ち着いた声で私に尋ねた。


「ご利用になりますか? すぐ終わりますので」


「ぇ……あ、ひゃ、はいっ……いや! ち、違いますっ!」


私は弾かれたように叫んでしまった。

憧れの「赤い人」に話しかけられた衝撃。

そして何より、彼が今まさに「機械の神経」と対話している最中だったのに、それを土足で邪魔してしまったという罪悪感。

頭の中が真っ白になった。


私は顔から火が出る思いで、後ずさりする。


「ご、ごめんなさいっ! 間違えましたっ!」


私は逃げるように、近くの柱の陰へと隠れた。

心臓が早鐘を打っている。

バクバクとうるさい。

何やってるの私、馬鹿じゃないの。

あんな挙動不審な態度とって。


(あそこで、働いてたんだ……)


壁の中で。

誰も見ていない場所で。

彼はまだ、あの薄暗い空間にいる。

私が邪魔をしてしまったせいで、作業が遅れているかもしれない。

申し訳なさと、恥ずかしさで、柱に額を押し付ける。


恐る恐る、柱の陰から様子を伺う。

横の扉は閉まっていた。

彼はまだ裏側にいるようだ。

しばらくすると、再びガチャリと音がして、扉が開いた。


彼が出てきた。

そして私は、またしても息を呑むことになる。


私の網膜に焼き付いていた、あの「赤いジャケット」がない。

今の彼は、清潔な真っ白なワイシャツ姿だった。

しかも、袖を肘まで捲り上げている。

露わになった前腕には、うっすらと浮き出た血管と、引き締まった筋肉の筋が見える。

首元からは社員証を下げ、手には白いウエス(布)だけを持っていた。


(うそ……かっこい……)


思考がショートする。

あの雪山仕様の重装備から一転して、無駄のない、研ぎ澄まされたオフィス仕様の姿。

そのギャップがあまりにも強烈すぎて、私は瞬きすら忘れた。


彼はATMの正面に回った。

持っていた鍵で、今度は前面のパネルを少しだけ開ける。

彼はお金には一切興味を示さない。

紙幣が入っている金庫部分には目もくれず、ただ一点、紙幣が出入りするシャッター部分(ダンパー)だけを見つめている。


彼は指先で、ダンパーを軽く押し、戻り具合を確認する。

パカッ、スッ。パカッ、スッ。

スムーズに動くか。

抵抗はないか。

異音はしないか。

その眼差しは、真剣そのものだった。


まるで、言葉を話さない患者の関節の動きを確かめる、熟練の整形外科医のように。

あるいは、楽器の弦の張りを調整する調律師のように。

ワイシャツの背中は、汗一つなく涼しげで、ただひたすらに「機能」を守るためだけに動いている。


余計なものを見ない。

触らない。

そこにあるのは、職人としての潔癖なまでの誠実さだけ。


「よし」


小さく呟き、彼はパネルを閉じる。

カチャリ。

確実にロックされたことを確認し、彼は再びATMの横の扉――裏側の世界へと戻っていった。

ガチャリ、と鍵がかかる音がして、彼は完全に見えなくなった。


数分後。

身支度を整えた彼――再びあの赤いジャケットを着た彼が、横の扉から出てきた。

彼はATMに一瞥もくれず、駅事務室へ鍵を返しに向かう。

その背中は、またいつもの「他人を寄せ付けない赤い要塞」に戻っていた。


彼が完全に去った後、私は吸い寄せられるように、ATMの前に立った。


『いらっしゃいませ』


『お取引できます』


画面は明るく輝き、何事もなかったかのように私を迎えている。

まるで最初から何も壊れていなかったかのように、平然と稼働している。


でも、私は知っている。

彼が治したんだ。

誰も見ていない壁の中で。

誰にも感謝されない狭い空間で。

滞りそうになる街の血流を、その技術と誠実さだけで守り抜いて、風のように去っていった。


「……お医者さん、だったんだ」


口の中で、その言葉を転がしてみる。

彼は旅人でも、スパイでもなかった。

この巨大な都市の健康を守る、物言わぬ執刀医(フィールドエンジニア)。

あの赤いジャケットは、過酷な環境から身を守るための鎧で、さっきの白いシャツは、精密機器に向き合うための正装だったのだ。


ATMの画面に触れると、ほんのりと温かい気がした。

それは機械の放熱かもしれないけれど、私には彼が残していった「誠実さ」の余韻のように感じられた。


胸が熱くなった。

テレビに出てくるような、派手なスーツを着て敵を倒すヒーローなんて嘘くさい。

汚れた作業着を着て、時にはワイシャツの袖をまくり、黙々と社会の関節を油で潤滑させる彼の方が、何百倍も尊くて、格好いい。


私の心の中に、新しい定義が刻まれた。

深紅のエンジニア。

……ううん、白衣のエンジニア。


彼は、私のヒーローだ。

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2025年12月31日 02:00
2026年1月1日 14:00
2026年1月2日 15:00

静寂の標本室と、深紅のエンジニア トムさんとナナ @TomAndNana

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