第2章:猛吹雪の追跡と、地下の疾走


『閉館の時間は、午後四時三十分です。ご来館の皆様は――』


無機質な女性のアナウンスと、どこか物悲しい『蛍の光』のメロディが館内に流れ始めた。

それは、魔法が解ける合図だ。

私は名残惜しさを飲み込みながら、ベンチから腰を上げた。

この静寂のシェルターから、ノイズと嘘に満ちた現実世界へと帰らなければならない。

重たい足取りで展示室を出ようとした、その時だった。


エントランスの方へ目を向けると、あの「赤」が見えた。

例の彼だ。

彼は、入ってきた時と同じ、メトロノームのように正確なリズムで、出口へと向かっている。


(あ……)


体が勝手に動いていた。

思考よりも先に、本能が反応した。

もう少しだけ、あの「機能的な赤」を見ていたい。

彼がどんなふうに家に帰るのか。

あるいは、博物館を出たら普通の人間のようにスマホをいじったり、コンビニで立ち読みをしたりするのだろうか。

そんな些細な、けれど私にとっては重大な好奇心が、私の足を早めた。


私は天気予報なんて見ていなかった。

そもそも、博物館という堅牢な箱の中にいると、外の世界がどうなっているかなんて、どうでもよくなってしまうのだ。

窓のない展示室に何時間も籠り、数万年前の空気の中に浸っていたせいで、今の札幌がどんな機嫌なのか、想像すらしなかった。


だから、私はあまりにも無防備だった。

自動ドアが開いた瞬間、世界が暴力的な白さに塗りつぶされていることにも気づかずに。


「――っ!?」


一歩踏み出した瞬間、呼吸が止まった。

猛烈な冷気が、肺の奥まで突き刺さる。

いや、冷たいのではない。

「痛い」のだ。

視界は真っ白だった。

空と地面の境界線すら曖昧な、ホワイトアウト寸前の猛吹雪。

横殴りの雪の礫(つぶて)が、容赦なく私の頬を叩き、まつ毛に氷の粒となってこびりつく。

瞬きをするたびに、瞼が凍りついて重くなる。

耳の感覚は一瞬で削ぎ落とされ、ちぎれて無くなってしまったかのような錯覚に陥る。


「うそ……こんなに、降ってたの……?」


思わず顔を手で覆い、身を縮める。

普通の神経をしていたら、ここで回れ右をしてロビーに戻り、天候が回復するのを待つか、親に電話して車で迎えに来てもらうところだ。

ここはもう、人間が生きていける環境じゃない。


けれど、私の視界の端に、あの「赤」が映り込んだ。


彼は、自動ドアを出ても立ち止まらなかった。

バス停に並ぶ人々が、寒さに震えながら団子状になっているのを一瞥もしない。

慣れた手つきで真っ赤なジャケットのフードを被り、ドローコードをギュッと引いて顔の露出を最小限にする。

そして、そのまま躊躇なく、雪が膝下まで積もった歩道へと踏み出した。


(えっ、歩くの? この地獄の中を?)


私はマフラーを鼻まで引き上げ、何かに引かれるように彼の背中を追った。

この白い闇の中で、あの赤を見失ったら、私は二度と戻ってこられないような気がしたからだ。

あれは灯台の光だ。

遭難しかけた船がすがる、唯一の希望。


しかし、追いつけない。

彼との距離は、縮まるどころか、見る見るうちに開いていく。


「はっ、はっ……待っ……」


私の足は、新雪に取られて空回りしていた。

お洒落重視の革のブーツでは、踏み込むたびに雪に沈み、滑り、バランスを崩してしまう。

一歩進むのに精一杯で、顔を上げる余裕すらない。


対して、彼はどうだ。

前方を行くあの赤い背中は、まるで除雪された後のアスファルトの上を歩いているかのように、速度が全く落ちない。


キュッ、ザッ。キュッ、ザッ。


彼が履いている、あの赤い安全靴。

深く溝が刻まれたアウトソールが、雪面を確実に捉え、グリップしているのだ。

滑らない。

沈まない。

無駄な力が一切入っていない。

雪という自然の障壁を、彼は「適切な装備」と「脚力」という物理法則だけで、ねじ伏せて進んでいく。


その姿は、あまりにも圧倒的だった。

人間というよりは、雪上を進むために設計された特殊車両のようだった。

あるいは、極地仕様の探査ロボット。


吹き荒れる暴風雪の中、彼の「赤」だけが、世界で唯一の鮮やかな色彩として浮かび上がっている。

けれどその灯台は、遭難しかけている私になんて気づきもしない。

ただ淡々と、自分の目的地に向かって、正確な軌道を描いて遠ざかっていく。


(すごい……)


悔しいとか、冷たいとかいう感情よりも先に、感嘆が漏れた。

彼は強い。

感情的な強さじゃない。

物理的に、機能的に、生存能力が高いのだ。


やがて、白い帳(とばり)がさらに濃くなり、あの鮮烈な赤色がふっと視界から消えた。

私は雪まみれになりながら、バス停の看板にしがみつくしかなかった。

彼を見失った瞬間、世界はただの寒くて恐ろしい、無機質な白に戻ってしまった。 心の中にぽっかりと、冷たい穴が開いたような喪失感だけが残された。


それから数日間、私の世界は彩度を失ったモノクローム映画のようだった。

学校の教室も、家のリビングも、すべてが灰色で退屈で、ただの「背景」に過ぎなかった。

あの強烈な「赤」という劇薬を知ってしまったせいで、日常というぬるま湯が、ひどく物足りないのだ。

どこを見ても、彼がいない。あの機能美がない。


そんな飢餓感を抱えたままの、数日後の平日夕方。

私は学校帰りの気怠さを引きずりながら、地下鉄さっぽろ駅のコンコースを歩いていた。


「ねえ、今日のテストさぁー」


「マジうざかったんだけど!」


周囲には、高校生たちの甲高い笑い声や、サラリーマンの疲れた足音、観光客のキャリーケースが転がる騒音が充満している。

外の寒さとは対照的に、地下特有の暖房と人の熱気が混ざった生温かい空気が、肌にまとわりつく。

人々は皆、スマホを見ながらフラフラと歩き、あてどなく漂うクラゲのようだ。

あるいは、血流の悪い血管の中を流れる、澱んだ赤血球たち。

私はイヤホンをして、外界のノイズを少しでも遮断しようと俯き加減に歩いていた。


その時だ。

色彩の乏しい、鈍重な群衆の流れの中に、あの色が飛び込んできた。


(――あ)


「赤」だ。

あの博物館の、あの雪の日の彼だ。


人混みの向こう、改札へと向かう流れの中に、見間違えるはずのない真っ赤なジャケットがあった。

私の心臓が、ドクンと大きく跳ねる。

全身の血流が一気に加速するのを感じた。

また会えた。 博物館だけの幻じゃなかった。


けれど、今日の彼は少し違った。

その手には、大きな黒い鞄が握られていたのだ。

艶消しの、見るからに頑丈そうなハードケースに近いビジネスバッグ。

旅行?

出張?

一瞬そう思ったけれど、すぐに直感が否定した。

あの鞄の沈み方、彼の手首にかかる負荷、腕の筋肉の張り具合。

あれは着替えや書類、お弁当箱なんかその程度の重さじゃない。

もっと中身の詰まった、密度の高い金属塊のような重み。


私の妄想が、一瞬で加速する。


(……もしかして、中身は国家機密の書類?)


(いや、分解されたスナイパーライフルかもしれない)


(それとも、起動したらこの街一つを吹き飛ばせるような、小型のエネルギーコア?)


馬鹿げている。

自分でもそう思う。

でも、彼のあの「日常から浮いた」存在感を見ていると、そんなSFじみた中身の方がしっくりくるのだ。

彼はきっと、一般人が触れてはいけない「世界の裏側のタスク」を処理しているに違いない。


私がそんな妄想を膨らませている間にも、彼は移動していた。

そして私は、またしても目を見張ることになる。


ここは、帰宅ラッシュの地下鉄コンコースだ。

誰もが不規則に歩き、予測不能な動きで進路を塞ぐ、最大のストレスゾーン。

私なら、人にぶつからないように歩くだけで神経をすり減らす場所。


しかし、彼は違った。

速度が、異常なのだ。


彼は競歩の選手のような美しい姿勢で、背筋を伸ばし、恐ろしいほどの早歩きで群衆の中を突っ切っていく。

人が右に動こうとすれば、彼はその予備動作を感知したかのように、減速することなく左の隙間へと滑り込む。

まるで彼にだけ、人混みの隙間を縫う「最適解のルート」が、床に光って表示されているかのようだ。


誰も押しのけず、誰にもぶつからず。

水が岩を避けて流れるように、彼は障害物を処理し、クリアしていく。

鈍重な人間たちをごぼう抜きにする、神速の徒歩移動。


「……速すぎでしょ」


呆気にとられた私の呟きは、雑踏にかき消された。

周りの「クラゲ」たちは、自分の横を赤い風が通り抜けたことにすら気づいていない。


彼は改札へ向かう。

ポケットからスマートフォンを取り出す動作すら、無駄がなかった。

立ち止まることも、足踏みすることもなく、歩く速度のままリーダーにかざす。

「ピッ」 電子音が鳴ると同時に、彼はもうゲートの向こう側にいた。


一瞬の淀みもなく、彼は階段を駆け下りていく。

地下鉄のホームへ。

さらにその奥、深い深い地下へ。

彼はどこへ行くのだろう。

私の知らない秘密基地へ帰還するのだろうか。

それとも、地下深くのトンネルで発生した緊急事態に対処するため、人類の存亡をかけて現場へ急行しているのだろうか。


残された私は、人混みの中で立ち尽くす。

周囲の人間が、ひどく解像度の低い、背景の一部に見えた。

彼だけが、この混沌とした地下空間で、唯一鮮明な輪郭と意味を持っていた。


「……また、行っちゃった」


私は鞄のストラップをぎゅっと握りしめた。

名前も知らない。

声も聞いたことがない。

ただ、その機能的な背中だけが、私の網膜に焼き付いて離れない。


この退屈でノイズだらけの世界に、彼という「バグ」のような存在がいる。

その事実を知ってしまった私は、もう以前のような退屈な日常には戻れない予感がしていた。

私の胸の奥で、静かな、けれど熱いエンジン音のような鼓動が鳴り響いていた。

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