静寂の標本室と、深紅のエンジニア
トムさんとナナ
第1章:警告色の侵入者
北都大学総合博物館の三階には、死んだ時間が分厚く堆積している。
土曜日の午後二時。
窓から差し込む西日は、空気中を漂う無数の埃をキラキラと照らし出していた。
世間一般では、家族連れや恋人たちが遅めのランチを楽しんだり、映画館のポップコーンの列に並んだりしている時間帯だ。
けれど、この場所だけは世界の喧騒から切り離されている。
ここにあるのは、一万年前に絶滅したマンモスの巨大な骨格標本や、ガラスケースに閉じ込められたヒグマの剥製、そして飴色に変色したアンモナイトの化石たちだ。
彼らはもう、呼吸をしない。
叫ばないし、怒らない。
防腐剤と古紙が混ざったような独特の匂いの中で、ただそこに「事実」として在るだけの存在。
私は、展示室の隅にある木製のベンチに深く腰掛け、文庫本のページをめくる手を止めた。
深冬(みふゆ)という名前の通り、私は冷たく静まり返ったこの場所が好きだった。
ここには、嘘がない。
化石は「自分は強かった」なんて虚勢を張らないし、剥製は「愛してくれ」と泣き叫んだりしない。
ふと、家のことを思い出す。
玄関のドアを開けるとき、蝶番が軋まないように、ミリ単位で慎重にノブを回す瞬間の緊張感。
リビングから聞こえる、父が缶ビールを開ける「プシュッ」という音。
それが聞こえた瞬間に、胃の腑が冷たく固まる感覚。
父の機嫌という、天気予報よりも予測不能で理不尽な嵐に怯え、気配を殺して自室へ逃げ込む日々。
「おい、深冬!」 怒鳴り声が飛んでくる前に、私はいつも透明人間になろうと必死だった。
それに比べて、ここはなんて優しいのだろう。
ここは私のシェルターだ。
入場無料の、静寂の聖域。
ここにあるのは過去の遺物だけで、私を傷つける「現在の感情」はどこにもない。
私がその安らぎに浸り、肺の中の空気をすべて博物館の古い、けれど清潔な匂いに入れ替えようと深呼吸をした、その時だった。
カツ、カツ、カツ、カツ。
硬質で、それでいて奇妙にリズムの整った足音が、静寂の膜を鋭利なナイフのように切り裂いた。
私は反射的に顔を上げる。
視界に飛び込んできたのは、暴力的なまでの「赤」だった。
「……うわ」
近くにいた女子大生の二人組が、小声で囁き合うのが聞こえる。
無理もない。
その男は、時間が止まったこの博物館という場において、あまりにも異質だった。
反射材のついた、目の覚めるような真っ赤な防寒ジャケット。
足元は、これまた鮮烈な赤色の安全靴。
全身が彩度の高い原色で構成されている。
まるで、雪山で遭難してもヘリコプターから一発で見つけてもらえるように、あるいは濃霧の中でもその存在を主張するように。
彼が動くたびに、静止していた博物館の空気が無理やり撹拌され、熱を帯びていくのを感じる。
それは、死んだ標本たちの世界に、初めて生々しい「生」が侵入してきた瞬間だった。
私の心拍数が、わずかに上がる。
赤は、危険な色だ。
父が酒に酔って顔を赤くし、理不尽な感情を爆発させる時の色。
信号機の「止まれ」。
血の色。
私の防衛本能が、けたたましく警報を鳴らす。
「関わってはいけない」
「目を合わせてはいけない」
けれど。
文庫本を握りしめたまま、その男を目で追っていた私は、ある違和感に気づいて瞬きをした。
(……違う。あれは、怒りの色じゃない)
男は、三十代前半くらいだろうか。
背筋は定規が入っているかのように垂直に伸びていて、その歩き方には一切の迷いがない。
彼は私の座るベンチの前を通り過ぎていく。
その横顔には、苛立ちも、高揚も、あるいは博物館を楽しむような穏やかささえもなかった。
あるのは、無機質なほどの「真顔」だけ。
父の赤は、感情が暴走した結果の、血管が切れそうな濁った赤だ。
でも、彼の赤は違う。
あれは――機能としての赤だ。
現場で身を守るための、高視認性(ハイビジビリティ)ジャケット。
落下物からつま先を守るための、強化樹脂入り安全靴。
誰かに自分を良く見せようとするファッションですらない。
ただ「生き残る」ためだけに選ばれた、純粋な生存戦略としての色彩。
「……ふふ」
私の口から、乾いた息が漏れた。
周りの人たちは彼を「派手な変な人」として見ている。
でも私には、彼がとても理路整然とした、美しい生き物に見えた。
彼が纏っているのは、感情というノイズを排除した「論理の鎧」だ。
そう気づいた瞬間、私の中の警報はスッと鳴り止んだ。
彼は手ぶらだった。
展示室の中央、巨大なマンモスの骨格標本の前で、彼はピタリと足を止める。
普通の人間なら、ここで「わあ、大きいな」と見上げたり、スマホを取り出して写真を撮ったりするところだ。
しかし、彼はマンモスを見なかった。
彼が見上げているのは、マンモスの頭上――さらにその上にある、天井の空調ダクトだ。
彼は眉一つ動かさず、剥き出しになったダクトの継ぎ目や、スポットライトの配線レールを目で追っている。
そして、小さく一度だけ頷いた。
まるで「よし、異常なし」と、建物の鼓動を確認するかのように。
(……何、あの人)
一万年前の神秘よりも、現在のインフラを気にしている。
博物館に来て、展示物ではなく、空調設備を見ている人間なんて初めて見た。
彼はそのまま、恐ろしく無駄のない動きで踵を返すと、次の展示エリアへと、またあの正確なリズムで歩き去っていく。 RTA(リアルタイムアタック)でもしているかのような、最短ルートを突っ切る高速移動。
まるで彼自身が、人間というよりは一つの「機能」であるかのように。
嵐のように現れて、赤色だけを残して去っていった背中。
彼の足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなっても、私の網膜にはあの鮮烈な「赤」が焼き付いていた。
再び訪れた静寂。
けれど、それはさっきまでの「心地よい静けさ」とは少し違っていた。
どこか物足りないような、急に世界の色が褪せてしまったような感覚。
強烈な「生」のエネルギーが通り過ぎた後の余韻が、空気中にさざ波のように残っている。
この世界には、私の知らない理屈で動いている人間がいる。
感情や言葉ではなく、機能と論理で構成された、名前も知らない赤い人。
「……変な人」
私は今日初めて、心からの言葉をポツリとこぼした。
それは自分でも驚くほど、親愛の情を含んだ響きをしていた。
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