11 血と汗と涙と
かつてないほどの試練が眼前に立ちはだかる。物語の中の出来事ではない。キーボードを打つ現実の私に降りかかっていた。
事態は一変する。私は、ラスボスであるマキの味方側に付くことを決めた。彼女の相手は、あまりにも強大で凶悪なヴィランだ。私の人生を狂わせた、あのパワハラ上司と同様に。
勝てる相手ではないのはわかっている。それでも、逃げてはいけない、立ち向かわなければならない。関わってしまった以上、責任を伴うのが人生であるからだ。
マキが頭上を見上げる。超常現象の数々が上空で巻き起こっている。私は死に物狂いで情景描写を書き続けていた。
すでに想像力の限界を突破している。もう無理だ。何度もそう思った。
もちろん、描写のヒントを得るべく、ノートパソコンでウェブサイトを検索しまくっているのは言うまでもない。
脳が上気し、溶け始めている。ここまで根を詰めるのは、いつ以来だろう。
正社員時代も、社会に貢献するため実直に務めてきた。残業は200時間超えは当たり前。動き続けるのは得意だった。寝て起きれば、体力は回復する。働くことは嫌いではなかった。
あのときこうしていれば、こうはならなかった。あいつさえいなければ、こうはならなかった。時間が解決する。本当にそうか。憎しみがそう簡単に消えると思うのか。
見据える眼差しの奥にその炎を宿しながら、後悔は尽きないな、と、ふっと笑ってみせる。
が、それどころではない。感傷に浸っている暇はない。現実から物語の世界へ戻れ。彼女を救うべく、いますぐ参戦せよ。本能がそう訴える。
右手を覆う装具を、左手で取り外す。医師の勧めで、腱鞘炎用に購入していた。それを投げ捨てた。誰もが言うだろう。痛みはないのか。当たり前だ。痛いに決まっている。
手術直前だろうが関係ない。相手が誰であろうと関係ない。いまはすべてを捨て、戦うときだ。
キーボードを打つ。この物語を執筆するまでに至る道のりを回顧して打つ。マキが撃つ。私も撃つ。手にした機関銃で撃つ。マキと共に、立ち塞がる怪物の内部を目掛けて掃射を行う。
現実という驚異を前に、痛感する。自分の無力さを思い知らされる。だが、立ち上がるしかない。魂が燃え尽きるほどの叫び声で引き金を引く。
「うおおおおおおおおおおおおああああああああああああ!」
脳内のバトルシーンを投影したノートパソコンの画面が、掃射の激しい閃光で埋め尽くされ、真っ白になる。私の絶叫が室内に響き渡っていた。
後悔しないように。年長者の誰もがそう諭す。私の親も同じ言葉を口にした。後悔だけはしないように。
達観した今、私は答える。それは無理だ。世の中は、後悔という名の原動力で回っている。
そのとき、ドン! と、部屋の壁が向こう側から叩かれた。隣人による怒りの打撃だろうか。もう一度、ドン! と叩かれた。
私は慄然として思った。なにも悪いことはしていない。ただ小説を執筆しているだけだ。
玄関も勢いよく叩かれ、びびりながらドアを開ける。ぼさぼさの頭髪と顎髭をたくわえた、最近引っ越してきた巨漢の隣人が、殺気の籠もった目で私を見下ろしていた。
「うるせぇんだよ。ぶっ殺すぞ!」と、森のような山のような男が覇気を込めて怒鳴る。
お前こそ、うるせぇんだよ、と怒鳴り返したいところだが、いまは両世界を鎮めるために、「すみません」と私は静かに謝った。
試合に負けて、勝負で勝つ。そんなふうに割り切れたら、どんなに人生は楽なのだろう。いかなる心構えで挑もうとも、残念ながら、現実は厳しい。
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