第3話 再現性という名の地獄

その日は、仕事が終わっても、まっすぐ家に帰る気になれなかった。


 電車の中で、主人公は何度も指先を見ていた。

 昨夜、確かに切ったはずの場所。

 だが、そこには何の痕跡もない。


 ――偶然だ。


 そう言い聞かせるには、時間が経ちすぎていた。


 もし本当に、ゲームと現実が繋がっているのだとしたら。

 そんな前提で考えること自体が、危険だ。


 だから彼は、別の前提を用意した。


 勘違いしているだけ。

 条件が揃えば、同じ結果は出ない。


 再現できなければ、それで終わりだ。


 帰宅後、彼はまず、部屋の中を整えた。

 カーテンを開け、照明をつけ、PC周辺に余計な物がないか確認する。


 これは、実験だ。

 オカルトじゃない。


 机の上に、スマートフォンを置く。

 録画を開始。


 映像として残せば、冷静になれる。

 あとから見返せば、錯覚も分かる。


 次に、ゲームを起動した。


 非公式パッチは、何事もなかったかのように動いている。

 例のUIも、そこにあった。


《同期率:0.01%》


 数字は変わっていない。


「……低すぎるだろ」


 もし本当に何かが起きているなら、

 こんな中途半端な数値で済むはずがない。


 彼は、ナノメディカルキットのことは一旦忘れることにした。

 あれは、体感が強すぎる。


 代わりに選んだのは、もっとどうでもいいものだった。


 エネルギーセル(小型)。


 ゲーム内では、序盤の便利アイテム。

 照明や小型装置を動かす程度のものだ。


「これなら……何も起きない」


 彼は、あらかじめ用意していた卓上ライトを指差した。

 コンセントは、抜いてある。


 現実的なトリックを排除するためだ。


 ゲーム画面で、エネルギーセルを選択する。


 前回と同じように、見慣れないウィンドウが現れた。


《Reality Sync : Standby》

《対象指定待機中》


 彼は、唾を飲み込んだ。


「……違うだろ」


 対象指定、という言葉が、すでにおかしい。


 マウスを動かすと、

 またしても、画面の外へ引っ張られるような感覚がある。


 カーソルが、卓上ライトをなぞった。


 いや、なぞった気がした。


《対象認識》

《実行可能》


 彼は、深呼吸を三回した。


 録画中。

 照明オン。

 トリックなし。


 それでも、まだ信じていない。


「……実行」


 クリック。


 一瞬、部屋の空気が変わった。


 何かが、ぎゅっと圧縮されたような、

 耳鳴りにも似た違和感。


 次の瞬間――


 卓上ライトが、点いた。


「…………は?」


 声が、間抜けに漏れる。


 彼は、すぐにライトのスイッチを確認した。

 オンになっている。


 コンセントは、やはり抜けたままだ。


 スマートフォンの録画画面を見る。

 確かに、何も触っていない。


「いや、待て……」


 電池式?

 違う。

 そもそも、これは充電式ですらない。


 彼はライトを持ち上げ、裏返し、振った。

 中から何かが出てくることもない。


 点灯は、安定している。


 彼の視線は、自然とゲーム画面に戻った。


 そこには、新しいログが表示されていた。


《同期処理完了》

《外部電力供給:継続中》

《エネルギー消費:低》


「……外部?」


 背中に、冷たいものが走る。


 ゲームが、現実を“外部”と呼んでいる。

 まるで、世界が二つあるのが前提のように。


 彼は、ライトのスイッチをオフにした。


 消える。

 もう一度オンにする。


 点く。


 再現した。


 完全に。


 その瞬間、ようやく理解した。


 これは奇跡じゃない。

 事故でもない。


 システムだ。


 誰かが作り、

 誰かが想定した動作。


 だからこそ、恐ろしい。


 彼は椅子に座り込み、両手で顔を覆った。


「……嘘だろ」


 笑えない。

 叫べない。


 ただ、現実が一段階、ズレた感覚だけが残る。


 録画を止める指が、震えた。


 もしこれを、誰かに見せたら。

 もし、ネットに上げたら。


 その先の未来が、容易に想像できてしまう。


 彼は、スマートフォンを伏せた。


 そして、最後にもう一度だけ、ゲーム画面を見る。


《同期率:0.02%》


 数字が、確かに増えていた。


 ――実験は、成功してしまった。



その夜、掲示板に新しい書き込みが増えている。

「同期率、上がったやついる?」

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