第2話 傷が治るまでの合理的な説明

目が覚めた瞬間、主人公はまず自分の指を見た。


 昨夜、紙で切ったような小さな傷。

 眠る直前まで、確かに赤く滲んでいたはずのそれが――


「……ない?」


 指先を裏返し、角度を変え、光にかざす。

 皮膚は滑らかで、痛みも違和感も残っていない。


 人は、理解できない現象を前にすると、すぐには驚かない。

 まず最初にやるのは、否定だ。


「最初から、そんなに深くなかっただけか」


 そう呟き、ベッドから起き上がる。

 洗面所の鏡でもう一度確認するが、やはり痕跡はない。


 あり得ない、というほどではない。

 小さな傷なら、一晩で治ることもある。


 ――偶然だ。


 そう結論づけて、彼は朝の支度を始めた。


 だが、心のどこかで引っかかるものがあった。

 治り方が、あまりにも綺麗すぎる。


 仕事を終え、帰宅するまでの間も、その違和感は消えなかった。

 気になって、スマートフォンで「小さな切り傷 治る 時間」と検索までしている。


 どれも納得できる説明ばかりだ。

 だが、それでも――


 帰宅後、彼はPCの前に座り、例のゲームを起動した。


「検証するだけだ」


 誰にともなく言い訳をする。


 ゲーム内で、彼は倉庫を開いた。

 序盤用の医療アイテムがいくつか並んでいる。


 その中の一つ。

 ナノメディカルキット(簡易型)。


 説明文には、いつも通りの性能が書かれているだけだった。

 回復、止血、感染防止。

 ゲームとしては、ありふれたアイテムだ。


 だが、昨夜インストールした非公式パッチのことが、どうしても頭を離れない。


 彼は深呼吸をした。


「……あり得ないだろ」


 そして、机の引き出しを開けた。


 中にあったのは、カッターナイフ。

 文房具として、何の変哲もない。


 ここでやめる選択肢は、確かにあった。

 だが彼は、やめなかった。


 ほんの一瞬、刃を指先に当てる。

 力はほとんど入れていない。


 チクリ、とした感触。

 小さな血の粒が浮かんだ。


「……よし」


 深い傷ではない。

 現実的に、検証として許容できるライン。


 彼はゲーム画面に視線を戻し、

 ナノメディカルキットを選択した。


 いつもなら、ここで“使用”すればキャラクターが回復するだけだ。


 だが今回は、違った。


 画面に、見覚えのないウィンドウが重なる。


《Reality Sync : Standby》

《対象未指定》


「……対象?」


 心臓が、少しだけ早く打った。


 マウスを動かすと、カーソルが画面の外――

 自分の指先をなぞるような感覚がした。


「……は?」


 気のせいだ。

 そう思おうとした瞬間。


《対象認識》

《同期率:0.01%》

《実行しますか?》


 彼は、しばらく動けなかった。


 指先が、微かに温かい。


 錯覚だ。

 モニターの光のせいだ。


 理屈はいくらでも考えつく。

 だから――


 彼はクリックした。


 その瞬間、何かが“動いた”。


 音はない。

 光も派手な演出もない。


 ただ、指先の感触が変わった。


 じんわりと、内部から押し広げられるような、

 奇妙に心地よい感覚。


「……っ」


 思わず息を呑む。


 数秒後。

 血は止まり、皮膚が塞がっていた。


 いや、塞がる、という表現すら正しくない。

 最初から傷などなかったかのように、そこには何もない。


 彼は、しばらく指を見つめ続けた。


 震えはない。

 叫びもしない。


 代わりに、乾いた笑いが漏れた。


「……偶然だろ」


 声が、少し掠れている。


「そうだ、たまたまだ」


 同時に二つの出来事が起きただけ。

 傷が浅かった。

 治りが早かった。


 ゲームは関係ない。


 そうでなければ、世界が壊れてしまう。


 彼は、もう一度ゲーム画面を見る。


 そこには、淡々としたログが表示されていた。


《同期処理完了》

《エネルギー消費:微量》

《次回実行可能》


 ――説明できない。


 それだけが、事実だった。


 彼は椅子にもたれ、天井を見上げた。


「……今日は、もうやめだ」


 ゲームを終了し、PCの電源を落とす。


 否定し続けなければならない。

 これは、現実じゃない。


 だが、指先はもう痛くならなかった。


 そして彼は気づいていない。

 その部屋の電力使用量が、

 ほんの一瞬だけ、異常な数値を示していたことに。



翌朝、電力会社から届いた「使用量確認のお願い」が、

彼のスマートフォンに表示される。

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