第2話 ロメロ萌芽の時代:2030年代~2040年代
約28年前、人工延命技術によって作り出された人間の身体をゲノムレベルで不老長寿化する遺伝子治療薬が開発されていた。
開発中の製薬会社の声明の表現を用いれば、『リセット・インジェクション』と呼ぶほうが正確だろう。或いは、その後の世界中を席巻する惨禍を考えれば、『
この試作段階の遺伝子製剤はテロメアを含むいくつかの自己複製の際に短縮や損傷が生じ、老化へとつながる傾向のあるDNA領域を補強する効果を持つものだった。だが、開発途中の『ロメロの起源』には致命的な欠陥があり、その欠陥の修正が出来次第、遺伝子治療薬として一般流通されると製薬会社は発表していた。
だが、この研究の欠陥の修正を待たずして匿名のハッキング集団により同遺伝子治療薬の製剤設計データが漏洩、あらゆる国が複製と欠陥の特定を始めた。
その過程で、ある製薬会社が設計データを元にゲノム医療用3Dプリンターで複製した同薬を用い、人間への治験を行った。
治験の結果、このワクチンには致命的な欠陥、それは、脳の認知能力と行動機能への大きな障害と体内で幾つかの幸福感に関するホルモンの供給が止まり、それを他の人間から経口摂取にて求める摂食衝動だった。
試薬を投与された治験者が隣の病床の偽薬治験者に肉が剥がれるほどに強い力で噛みつく様を、咬傷により長寿因子が伝播し、更に偽薬治験者が治療者を襲う様を観測して、治験責任者は記録にこんな備考を残した。
『この状態で一般に流通すれば、ジョージ・A・ロメロの映画のような事態になるだろう』
と。
同治験データは内部から『非人道的な方法による新薬開発の実情』としてリークされ、オンライン上に拡散された。そしてこの印象的な備考欄から、DNA領域の短縮や損傷による老化現象を
同薬は当然のことながら、老化を経て穏やかに死へ至るという生命倫理を冒涜するものとして、大手宗教団体などから強く批判された。
また、『ジョージAロメロの映画のような事態』というのがどのような状態を指すのか、『リセット・インジェクション』の開発を進めていた製薬会社の株主総会では質問の的となった。
だが同社は「自社ではまだヒトへの治験の段階には至っておらず、いかなる問題が生じるかは把握していない」と回答し、また同日の株主総会にて同プロジェクトの問題解消困難を理由に計画凍結が会社側から動議が提出され、株主たちはこれを受け入れた。
その一方で、リーク元であるヒトへの治験を強行した会社は株価暴落により破産を迎え、ヒトへの治験結果は闇に葬られる形になった。
いや、その頃には既に手遅れだったのだ。
リセット・インジェクションのデータを元に、いくつかの製薬会社がアンチエイジング製剤としてリセット・インジェクションの目指したであろう遺伝子治療薬を作り上げた。
『ジュリエトール』や『エピジェノール』といったもので、その効能には似た傾向を持つ。まず高熱に強い吐き気、下痢などの体調不良を起こした後、48時間以内に体は一度仮死状態に陥り、そこから全身の幹細胞に作用し、DNA領域が18歳から20代前半程度まで若返った状態で再び目を覚ます。そこから体は徐々に再生された遺伝子に則ったものに各細胞のサイクルに合わせて新陳代謝される。
ただ、致命的な欠落として仮死状態中に前頭葉の殆どがアンチエイジングしたままその機能を失い、また辺縁系にも異常をきたしドーパミンの異常分泌、セロトニンの低下を起こす。
『リセット・インジェクション』計画が認識していたこれらの異常は仮死状態からの蘇生後速やかに前頭葉を開頭手術し、脳神経系の接続を再生させることで改善可能と判断されており、またドーパミンとセロトニンの異常もそれに適した精神科医薬品の処方によって対応可能とされていた。
だが『ロメロの映画のような事態』とは、それだけを示唆したものではなかった。
『リセット・インジェクション』の慢性的副作用として
ジュリエトール、エピジェノールの販売元はこのグレリンの異常も対応した受容体拮抗薬の安定的な内服によって制御できるものとしていた。
問題はここからだった。
この脳内分泌物異常の症状を発生させる異常タンパク質は体液という体液に含まれ、噛まれたり、『ロメロ』の感染者の遺体の血液などを傷口に浴びるなどした場合、或いは性交などで粘膜接触をした場合もまた、同製剤を医者の処方および事後ケアなしに受けたのと同様の副作用が生じるのである。
つまり、どういうことか。
要するに、脳の異常により自制心が効かなくなり、高ストレス状態の人の匂いに食欲が抑えられなくなるのだ。その上、噛まれたり、セックスしたり、傷口を舐められたりすると伝染る。
これは、ジュリエトールの一般販売開始から半月ほどで明確になり、即座にエピジェノ―ルと共に両薬は全世界で販売停止となった。
その大量の不良在庫は闇市場で『若返りワクチン』として取引され、それぞれの副作用を複合的に抑制する経口薬とともに世界中で密かに使用された。
その結果、途上国やジュリエトール、エピジェノールを正規の方法で接種できなかった富豪などが、金の力に物を言わせて、正規の医療指導も受けないままに接種と脳外科手術を受けた。若返ったそうした人々は若い女や男を買い漁り、蘇った性欲を思う様発散した。
そしてその被害者となった役者志望の若者やモデルの卵、スポーツ選手、或いは娼婦や男娼達を経由し、更に潜在的な被害者は拡大を続けた。
最終的に5年ほどの歳月を経て、各国は極限的な手段として『ロメロ』感染者の隔離制限および感染のリアルタイム把握を目的とした、感染者、非感染者を問わず、全国民へのボディチップ埋設法案を立案した。独裁国家の多く、あるいは両院過半数を獲得している政党と行政の長が同一政党の国でこれらは実行された。
その時には既に、世界人口の1%以上が『ロメロ』に感染していた。
ロメロの副作用抑制薬を販売している製薬会社、およびそのジェネリック薬品を取り扱う製薬会社の株価は高止まりし、一方で老いる権利としてジュリエトール、エピジェノールの処置を受けずにいた人々は、ボディチップの義務化を行政による監視社会の強化および『ロメロ』感染者への過剰な既得権益の保護にあたるとしてボディチップ法の阻止に動いていた。
そのようにして、権力と選挙資金、政党への献金といった形の駆け引きの中でボディチップ埋設法案がいくつかの国々で論争が長引いていた。
そんな状況が1年、2年と続く間に、ダムは決壊した。
最悪の事態が生じたのだ。
人身売買を通じて入国した、ボディチップ非採用圏の国々のセックスワーカーを媒介者として、『ロメロ』が主要先進国各国でエピデミックを引き起こし始めた。
その流れはほどなくボディチップ採用国間でのパンデミックにつながり、『ロメロ』の感染者と非感染者を物理的に切り離す、すなわちロックダウンを各国が取り始めた。
副作用抑制薬の各国の備蓄在庫は底をつき、各国のジェネリック製剤製造元も原材料調達に苦労するようになり、街は次第に意識朦朧とした感染者達が徘徊するようになった。
気がついたときには世界中に非感染者の自警団が組織され、その自警団も内部に隠れ感染者が発生するという形で次々と崩壊していった。
『ロメロ』に感染していない人々は集い、立てこもり、武装し、国すらも信用しなくなった。
そうして、国家や国籍はただの自己定義、法律は義務ではなく美徳、そして、各立てこもり集団ごとの内部規律こそが新たな法律として機能する地元住民自治組織『共同体』だけが秩序を持つ世界となった。
リセット・インジェクションの発表からここまでが、だいたい10年足らずの間の出来事である。
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