第3話 漂着

 それから17年が経て、各共同体を支える若者の多くがボディチップを生まれつき植え付けられていない少年少女という時代に入っていた。

 

 ――少女は、ゴミや流木の打ち上げられた砂浜を這うように進みながら、ときおりむせるようにばしゃばしゃと海水を吐いた。


 砂が乾いているあたりまで来るとべとりと伏して、しばらく湿った咳に、痰でも吐くように水を吐いていた。


 本来ならば溺死していても不思議ではない水量であった。

 というより、一時的にだが実際に彼女は溺死の状態にあった。


 少女は約半月前、漂着した海岸の約600キロ南西の沖合いでクラゲだらけの暖流海域上に捨てられたのだ。


 生前――『ロメロ』が一度仮死状態を迎え、また前頭葉機能を喪失することなどを含めて、一般認識として感染者は『生ける死体リビングデッド』として認識される傾向があるため、敢えてこう書く――少女は、資材散策中にロメロ感染者に遭遇し、右前腕の肉が骨まで剥き出しになるほどに噛まれた。


 彼女はその晩にも高熱を発し、その発熱で脳炎を起こして死に至りそうなほどだった。


 これを見かねた少女の父親は、楽にしてやろうという意思から、明け方の海に帆掛け船の漁船を出した。

 そして暖流の海流上の、見渡す限りクラゲだらけの海域まで来ると、その海の中に自分の娘をまだ息があるうちにも関わらず遺棄した。


 少女の育った共同体ではロメロに感染した者は、本来ならば仮死状態のうちに頭を杭で撃ち抜かれて、海に沈められる。

 その作法ではないやり方で弔いたかった父は、敢えてこうしたのだ。


 日が登ると、たちまち海上は風が強まった。


 傷口を申し訳程度の布で覆った、冬用の下着を兼ねた薄い生地のワンピース一枚を纏った娘を抱きかかえ、父は何を思ったのか。

 最後の言葉として何を告げられたのかも熱に浮かされた少女は覚えては居まい。


 リセット・インジェクションは感染症として世代交代を繰り返し、彼女の育った地域では仮死状態が初期のジュリエトールよりも半日以上早まる傾向を見せていた。

 明け方には既に、仮死状態の前段階としての呼吸と脈拍の低下の域に入っていた。


 父は、形見として彼女が身につけていた貝とシーグラスを漁網の糸で綴った首飾りをむしり取って、彼女を海へ投じた。


 海面近くを無数に漂うクラゲの毒で死ぬのが早いか、溺れて死ぬのが早いか。

 結果は半々といったところだった。


 無意識に救難姿勢である仰向けに海に浮かんだ少女の手足をクラゲの毒の触手が絡まり、まるでその毒棘の痛みに声を漏らすように口から肺に残った息を泡吹くとして漏らしながら、彼女は徐々にクラゲの合間の暗い海に沈んでいった。


 そうして、全身をクラゲの触手に包まれた。


 ――近海の大型魚などは、この儀式によって糧を得ているものは少なくないだろう。クラゲにしてもそうだ。魚たちの食べ残しの波間を漂う手足や、この少女の父親のように頭を杭で撃たれる様を見たくなくて漁船に乗せられて水葬に付されたものを触手に絡めて表皮を食べるというものも少なくない。


 クラゲの毒は神経毒であり、フグや貝類のようにロメロから取り込んだ毒性を体内に蓄積するということはない。

 だがロメロに感染した人肉を多く食べてきたこの海域のクラゲたちの毒には、一定の変異が生じる傾向にあった。


 それは、いわゆる同種のクラゲの毒とは異なり、刺された後1日ほど置いてから発熱し、毒棘の刺されたあたりが回復すると白斑症になるのだ。日焼けをしても白いままだし、頭皮を刺されればそのあたりの髪の毛はそれから白髪しか生えなくなる。


 もしもおかにまだ、まともな海洋研究施設が残っていれば、この現象に少なからず興味を持ったことだろう。

 そして、それは人間から『ロメロ』へと変異する少女の身にこれから起きる現象とも何らかのつながりを得られたかもしれない。


 少女は海中を、仮死状態のまま約2週間、クラゲの群れの合間を漂い、海流に乗って流され続けた。


 そして、『ロメロ』としての覚醒を遂げ、クラゲの触手の棘の激痛とともに目を覚まし、海面へ這うように水を掻いて上がった。


 肺にはもう自力で浮き上がれるだけの空気はなく、手足はまるで日焼けなど知らないように白く、髪の生え際はほとんど元の毛の色が長い髪の色からしか見て取れないほどに真っ白になっていた。


 その状態で海上に頭を出すと、咳き込むようにじゃぽじゃぽと大量の水を吐いた。波間に、上手く泳げばどうにか辿り着けそうな陸の緑を見つけ、どうにか陸へ向かう流れに乗り、半ば溺れるようにして砂浜までたどり着いた。


 そうして砂浜の半ばまで這い上がったところで、ぐったりとして動けなくなった。


 意識の朦朧感はない。空腹感はあるが、何かを食いたいという気分よりも呼吸を楽にしたいという気持ちの方が強い。


 なにしろ意識が戻ってからここまでたどり着くまでが海水の地獄とでも言うべき苦しさだった。

 それがいくら水を吐いても、咳をしても、痰のようにむせても、まだ呼吸をする度にのどがガラガラと飲み干した氷水をすする太い藁ストローのように鳴るのだ。

 そして大きく息をすると、胸の内側でパチパチと気泡が弾けるのが自分で判るのである。


 幼い頃から海辺で育った身として、これが溺れて肺に水を吸ったときの症状の一つだというのは聞き知っていた。

 ……そういう記憶も鮮明だった。

 実に意外だった。


 ロメロに食い破られたはずの右腕も、肉が削げた陰影はわかるが、既に透けるような白い皮が張っている。指で触れると、食われて失われた腕の肉の部分はうっすらとぶよぶよとしたものが皮下にあり、それが再生しつつある自分の身体の血管や神経、筋肉といったものだということはなんとなくわかった。


 少女は咳き込みながら浜を這い、緑地の苔の生い茂ったあたりまで上がった。もう少しいけば杉の林が見える。杉の葉はそのままで茶葉にできる。少女は生前、毎日のように飲んでいた。きっと杉の葉も生でも食えるはずだと思って、そこまで行こうとしたのだ。


 だが、途中で力尽きた。

 横向きに倒れ、唾の多い咳を吐き、まるで喘息か肺炎のように呼吸が荒く咳が止まらない。


(このままでは、奴らロメロに襲われて食われるかもしれない)


 なんとなくそう思った。

 だが、よくよく考えれば奇妙なことだった。


 本当ならば今頃食う側として、這いずりながらでも生き残った人間を探して回っているはずなのである。

 それが、なぜだか意識もしっかりしているし、肺の中の水が抜けきらないことと空腹以上に不満はなにもない。


 『生前』と比べて他に違いがあるとすれば、元気だった頃は小麦色に日焼けしていた肌が、まるで人が変わったように白くなっていることくらいだろうか。そのしろさもまばらで、まるで白の水玉模様を全身にまぶしたような具合だった。


 それとも、ここが既にあの世だから、自分の身体も白く変わったのだろうか。

 いや、違う。

 あの世だったら肺の水ごときでこれほどに苦しい思いをするものか。

 これはまぎれもない現実だ。

 そして、このまま咳が止まらなければ、本当に人か人の成れの果てに見つかってしまう。


 人に見つかれば殺されるだろう。

 変わり果てた成れの果てであるロメロに見つかれば、食われるだろう。

 どちらにしても気持ちのいいものではない。


 少女はため息をついて、林の深い下草の中でぜいぜいと息をするよりなかった。


 気がつけば、日が暮れそうになっていた。


 夜になれば人は共同体の拠点にこもって出てこなくなる。

 どこもそうするものだと聞かされて育った。


(私みたいに、頭がまともなロメロがほかにもいたらいいのにな。そうなら、ロメロだけの共同体を作って、街に資材を取りに行って、一緒に漁網編んで、定置網漁でもして魚をとって食べるのに。けどロメロだったら人間の肉のほうが美味しく感じるのかな。それともシカとか鳥の肉のほうがいいのかな)


 そんな事を思いながら、草むらの上で体を小さくして眠った。


 翌朝は、自分の咳で目が覚めた。まだ体を少しでも動かすと咳が出る。全身がだるい。


 試しに立ち上がってみたが、3歩で転んで動きたくなくなった。

 それに3歩で転んで正解だとも思った。

 立ち上がって見た松林の中に、ロメロと思しき風雨と塵に汚れた姿の人影があったのだ。


 ロメロは前頭葉が機能していないから自分で考えて動かない。生前の習慣で体を動かし、一定の範囲で獲物としての人間を見つけるまでのろのろと動き続ける。

 いま見つかれば、或いは自分が獲物だと思われてしまうかもしれない。


 そうなったらそうなったで構わない。どうせこちらもロメロである。噛まれたら腹が膨れるまで噛みつき返すまでだ。今のロメロの体だったら、それも不可能ではない。


 少女は手をついて立ち上がり、咳き込みながら針葉樹林の低い梢を掴んで葉をむしり取り、咥えた。


 香りはいいが、味は酷い。葉もちくちくと舌に刺さる。


 吐き出したいのをこらえて無理矢理咀嚼し、咀嚼し……いくら噛んでも飲み込める気がしなくて吐き出した。

 そのついでにむせて咳と痰のように少量の水を吐いた。相変わらず口の中が塩辛くなる海水だった。


 そういえば、まだ真水も飲んでいない。

 にもかかわらず、体は渇きのような感覚は感じていなかった。

 まるで本当に何も食わずに何ヶ月でもうろつき続ける『ロメロの化け物』になってしまったかのようだった。


 少女はまだ、自分の特別さに気付いていなかった。そのようにして、浜に上がって3日目の夜を迎えた。


 しょっぱい咳はまだ出るが、体はかろうじて動けそうな具合にまで回復を見せていた。空には夜道が見通せるだけの太い月がある。

 その中で、どうにか緑地帯の林を抜け出て、街へと降り立った。

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