モイライの箱庭

魚崎 依知子

平成二十八年一月

第1話

 ――あなたの親なのに、責任を感じてらっしゃらないんですか。

 焼香を断られ、なんの償いにもならない謝罪を終えた私達を待ち構えていたのは、不躾なマスコミからの質問だった。纏わりついて取材したくても、事件を起こした本人は既に死亡。この先は争うこともなく書類送検で終わりだ。この状況が残念な彼らはすぐ、一方的な権利の下で私達を獲物に選んだのだろう。

 眠れましたか。ご遺族とお話はされましたか。ほかのご家族と連絡は取られましたか。今、どんなお気持ちですか。

 あれから数日、警察より早く生活に侵入してきた彼らは、相変わらずの調子で私達を嬲った。言葉が丁寧でありさえすれば、好きなだけ穿っても許されると信じている連中だ。近所をうろつき他人の迷惑になっても、インターフォンの幻聴が聴こえるようになっても、彼らの自由は責任を持たない。だから無視するようにと弁護士からも、警察からまで相手にしないでいいと言われていたのに、思わず足を止めてしまった。

 振り向いた先にいたのは、レコーダーを突き出した私より少し若いくらいの男だった。浅黒い下膨れの顔に義憤のような表情を張りつけてはいたが、喪服どころか、草臥れたモッズコートの下にはネクタイもなかった。髪を整えた形跡も髭を剃った様子もなく、足元は汚れたゴム長。それが記者だと言われたら、そうなのだろう。葬式にそんな格好で平然とやってきて、人々が悲しむ様子をカメラだのレコーダーだのに収める、そういう生き物なのだ。だから、あんなことが言えたのだろう。

 気づけば、口を開いていた。こみ上げてきたものを抑えきれず、吐き出してしまった。

 ――こうなる前に、私が殺しておくべきでした。

 咄嗟に肩を抱き寄せた夫の手が、連中の波から逃れたあとも震えていた。薄く積もった雪を潰しながら、洟を啜る音を聞いた。過ぎてしまえば、あの記者の言葉よりよほど堪えるものだった。


 とても、眠れそうにない。

 諦めて目を開き、常夜灯が照らす冷えた部屋を眺める。胸裏では暇なくあらゆるものが煩く責め立てているのに、外の世界は静かなものだ。隣に気配はなく、耳を澄ましても階下に音はない。夫はまだ帰っていないのだろう。

 一時を過ぎた時計を確かめ、ガウンを引っ掛けキッチンへ下りる。少しぼんやりする視界は、中途半端な安定剤のせいか続く睡眠不足のせいか、ストレスのせいか。

 私ごときがストレスか。それなら、あの人達はどうなるのだ。我が子を突然喪った苦しみは、こんなものではない地獄だ。

「お母さん」

 不意の声に視界が揺れる。手元から一粒、零れ落ちた薬が軽い音を立てた。いつの間にか、すぐ傍で千顕ちあきが見下ろしていた。

「どうしたの、まだ起きてたの?」

 動揺と湧いた後ろめたさをごまかすように、指先で薬を隠す。自ずと足も一歩退いた。

「いや、音がしたから」

 千顕は大人しい声で答え、視線を落とす。なだらかな額に続く鼻筋は、少し高くなっただろうか。膨らんでいた頬も幾分かすっきりとして、私とも夫とも違う輪郭を現し始めていた。

「お父さんに『飲みすぎるな』って言われただろ」

 伸びた手は見逃すことなく私の弱さを暴く。味気ないカウンターの上で、粒は青白く照った。

「ごめんね、眠れなくて」

「だったら音楽でも聴いてたらいいじゃん。お父さん、まだ帰ってないんでしょ」

 冷えた肌に熱が流れ込む。まだためらいなく私の手を掴めるほど子供なのに、一年ほど揺らいでいた声域は低い方で落ち着いてしまった。

「うん、そうする」

 選択の余地なく、若い指先はつまんだ薬をシンクで流した。これくらい、と思ってしまうのは、これくらいではないものを知っているからだろう。

「ごめんね。水飲んだら、すぐ上がるから」

 こんな台詞が信用できないことも分かっている。だから、薬袋を奪った千顕を大げさだとは思わない。私だって、いつ転がり落ちるか。思い浮かべた途端、肌が粟立つ。さっきまで肌に馴染んでいたサテンが急にごわついて、繰り返しさすった。

「大丈夫だから、もう寝て」

 促してようやく千顕は頷き、踵を返す。パーカーにジャージパンツの緩い格好でも、伸びやかな四肢が分かる。骨が細く、関節の目立たないひょろ長い骨格はこちらの血筋だろう。長い首や撫で肩、細い腰は、まるであの後ろ姿をなぞるようだ。

 お母さん、と再び呼ぶ声に視線を上げる。零れた髪の隙間から見る千顕は、大人びた顔つきをしていた。

「俺、どっか転校してもいいよ。中三なら大変だったけど、まだ一年あるし」

 遮る髪を慌てて掻き上げても、その表情は変わらない。ついこの前まで小遣い増額かゲーム購入かの二択を迫っていたような、この先履きたいシューズでランキングを作っていたような、そういう息子だった。

 小さく呼ぶと、避けるように背を向けてドアをくぐる。ごめん、ごめん。少しずつ遠ざかる音が消えるまで呟いた詫びは、十八回だった。

 右上から下ろした視線は、暗いリビングを映す。あの日からカーテンを開けていない。窓の鍵は二重ロックにして、電話線は抜いた。平然と生活していると思われそうで、照明は最小限、換気扇は回せない。昨夜は外壁に赤ペンキをぶちまけられたが、被害届は出さずにいる。

 夫は、仕事を辞めるつもりだろう。十年暮らしたこの家も早晩、手放すことになる。私に法的な賠償責任がないのは分かっているが、受け取ってもらえるのなら一生掛かっても支払いたいと伝えてもらった。だってそれくらいしか、できることがないのだ。仕事を辞め家を売り財産を失っても、それでも私達には子供がいる。あの人達が喪った一番大切なものを、父が奪ったものを持っている。

 胃を突き上げる吐き気に体を折り、シンクへ口を開く。乾いた濁音と共に吐き出した胆汁は、ぽたりと落ちて留まった。碌に食べず薬ばかり飲んでいればこうなるのは当たり前だが、混じる血に少しだけ胸が空いた。自分が苦しんでいると分かるからだろうか。でも、こんなもので足りるわけがない。荒い息を収め、汗ばんだ肌を拭う。暗いもので埋め尽くされた胸を押さえ、シンクを洗い流した。

 寝室へ戻り、繭に還るようにベッドに潜る。どこも寒くないよう、なるべく小さくなって、冷え切った指先を祈るように組んだ。目を閉じ、ただじっと息をひそめて、自分の存在が薄らいでいくことを願う。

 いつかこんな日が来ると、どこかで分かっていた。それでも、一人で勝手に野垂れ死んでくれる綺麗な最期を夢見ていた。忘れられたことはない。薄い膜一枚隔てた背後にいつもいて、私が一歩前へ出ようとする時、手を伸ばそうとする時、膜の向こうから暗い手を伸ばして首を締める。振り向けば引きずり込まれそうで、後ろ手で振り払いながら目の前にある平穏だけを見つめていた。

 遠く離れた場所で、誰も私を知らない人達の中で幸せに暮らす。

 それが祖父の切なる願いだった。祖父はそのために、徹底して私を父から遠ざけ続けた。受け入れた私も父をいないものとして育ち、一度しか会うことなく大人になった。父を知る人と結婚したのは予定外だったが、全てを知った上で受け入れてくれたことには感謝しかない。持つつもりのなかった子供ができた時の、悩みに悩んで産むことを決めた時の苦しさすら今では幸せな記憶だ。

 でも、全て間違っていた。

 私のするべきことは、自分の幸せを追い求めることではなかった。こうなる前に、殺しておくべきだった。殺せなかった祖父の代わりに、私が殺しておくべきだった。更生だとか権利だとか、そんな生温いもので守ってはいけなかった。許してはいけなかった。どうなろうと、あれは、絶っておかなければならない命だった。

 悔恨と憤りが濁流のように体中を駆け巡る。やり場のない感情に息は荒れ、組んだ手は塊のまま震えた。噛み締めた奥歯が鈍い音を立てる。また、吐き気がした。

 再び抜け出し、今度はトイレへ向かう。息をひそめて窺ったドアの向こうは静かだったから、息子は眠れたのだろう。でも週明けからは、どうなるか分からない。本人ではないから、孫なのだから関係ないと言える人間だけで作られている優しい世界ではない。陰口や嫌がらせ、いじめもありうるだろうが、より恐れているのは教師がそれを致し方なしと見て見ぬ振りをする可能性だ。助長し、加担する教師がいないとも限らない。

 千顕には、高校へ入ったら包み隠さず話す予定だった。その上で縁を切りたいのならできる限りのことはするし、望むなら物理的な距離も置くと伝えるつもりだった。最悪の可能性を知りつつ産むことを選んだのは私達のエゴだ。だから子供の反応がどんなものでも受け入れようと、十五年前に夫と覚悟を決めた。でも最悪の可能性に先を越された今となっては、何を伝えたところで薄っぺらな言い訳だ。

 間違いだったのだ。

 便器を抱え、嘔吐の真似事を繰り返す。胃を突き上げても漏れるのはもう鈍い音だけだ。どこかが裂けて血でも噴き出せばいいのに、唾液さえ落ちない。汗の浮く肌は熱く、頭もじっとりと湿っているのに震えが止まらない。小刻みに便座を突く爪は、年末に整えてもらった短めのラウンドシェイプだ。正月の着物に合うように、シャンパンベージュの控えめなグラデーションにしてもらった。次は長さを出して、いつもどおりスクエアオフのフレンチネイルへ戻す予定だった。でも、もう次はないだろう。人殺しの娘には過ぎた贅沢だ。この先はネイルサロンも美容院もエステも行かず、服も靴もバッグも全て売り払って倹しく暮らす。でも、そんなのも結局はパフォーマンスに過ぎないのかもしれない。許されるわけはないのに、陰から上目遣いで卑しく乞い願っている。

 汗の冷えた体をさすり、無意味なレバーを回す。トイレを出てすぐ、階下で鍵の開く音がした。灯りを点けると吹き抜けの底で、ああ、と声がする。

「まだ起きてたのか」

 夫は私を見上げながら黒いコートを脱ぎ、クロークへ収めたあと洗面所へ向かった。重くも軽くもないスリッパの音を聞きながら、階段の一番上に腰を下ろす。冷えた空気に洟を啜り、ガウンの前を深く合わせ直した。

 夫は程なく階段下へ姿を現す。喪服の胸にネクタイはなく、シャツの襟は少し開いていた。

「伯母さんから連絡は」

「ううん。多分、あっちもそれどころじゃないんだと思う」

 父らしき男の遺体は引き取らず、伯母に従い地元へ運んでもらう手続きをした。通夜は数日遅らせる。被害者の皆様と同日に送るのはおこがましいからと、伯母は掻き消えそうな声で言った。今頃は火の守をしながら、私と同じように眠れない夜を過ごしているだろう。今年の冬も雪深いのだろうか、そんなことを尋ねる余裕すらなかった。

 上まで辿り着いた夫は、そうか、と答えて隣に腰を下ろした。

「退職で処理してきた。あとは篠原しのはらに丸投げだ」

 肉厚な手をゆったりと組みながら、予想通りの報告をする。低く穏やかな声に剣はないが、疲れてはいた。

「篠原さん、なんて」

「俺が死ぬまでに戻って来い、保証人が必要な時は俺の名前を使えって」

 変わらない態度は、ただそれだけでありがたい。私達の結婚も当たり前のように祝ってくれた。夫側で損得抜きに賛成してくれた、唯一の人だった。

 零れそうになる詫びを飲み込んで、促す手に従い腰を上げる。俺には謝るなと夫は言った。全て分かって覚悟の上で結婚したのだからと、離婚にも同意しなかった。

 夫は黙ったまま、抱き寄せた私の肩を慰めるようにさする。いつもの、馴染んだ重みだ。厳つくずんぐりとした体型で、首も手足も、指まで野太い。それ程高くない身長は、今年中にも千顕に抜かされるだろう。四角ばった顔で目を引くのは太い眉と鼻筋、ほかは大して印象に残らない。おそらく世間で言うイケメンではないし、私も出会った時は「アナグマみたいな人」だと、それだけだった。

 結婚して十五年、常に砦のようだった。夫婦二人だけの時はもちろん、千顕が産まれてからは一層守りが固くなった。PTAや町内会の役は全て引き受けてくれたし、義実家とは中元歳暮の関係で済んでいる。私が必要以上に衆目に晒されないよう、深く関わらないで済むように、一歩も二歩も前を行って道を均してくれた。手を上げたことも、声を荒げたこともない。目下の悩みは夕飯の献立と減らない三キロの、満ち足りた暮らしだった。

 でも、間違いだったのだ。

 再び繭へ戻り、布団の隙間から喪服を脱ぐ夫を眺める。崩れたオールバックに、赤い目で焼香を拒絶する今日の父親達が重なった。彼らは、一番大切なものを突然奪われたのだ。同じように私が死んだとしても、到底釣り合わないだろう。父にとって私は、いつどこで蒔いた種かすら思い出せないような子供だ。祖父に与えられるまで名前も戸籍も、誕生日すら持っていなかった。

「明日は、弁護士のとこに寄ってから見舞いに行こう」

 ベッド際に腰を落とし、夫は私と目線を合わせる。頷くと、布団の上から頭を撫でた。風呂へ行くと告げて離れた手には、まだ指輪が嵌っていた。

 夫はやがて視界から消え、再び一人になる。あとは目を閉じても開いても同じだ。ランプの灯りにすら、今は地獄が透けて見える。


 私は間違っていた。全てを間違えていた。



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※本日は、あと二話更新しています。

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