Ⅱ.地球〈アース〉の痛み
一瞬、止まった風が、次の瞬間、別の方向へと消える。
空間全体を包んでいた闇が、風の消えた方向へ集まっていく。
先ほどまでリズを照らしていた月の光も、今は、ここには届かない。
風は消えたのに、ざわめく木々。
揺れる花。
異様なほどに、どくどくと脈打つ心臓。
何が起きたのか――
リズには、わかってしまう。
地球〈アース〉から生み出された、
リズには。
「アース……!」
叫ぶのとほぼ同時に、リズの足は、木の枝を蹴っていた。
冷たい空気が、身体を包む。
気持ちだけが焦る。
心だけが、張りつめていく。
どうして気づかなかったのか。
どうして、誰も気づかなかったのか。
小さな唇を、きつく噛みしめる。
痛みにさえ気づかないほどの、後悔。
「アースは、人をだますのがうますぎるんだわ……」
悔し紛れに、投げ捨てるように呟く。
受け取る相手はいないのに。
存在感が、少しずつ騒がしくなる。
夜の気配。
月の光。
風の流れ。
雪の冷気。
雨の潤い。
その場を動けない花や木々。
海、川。
使いの妖精たちの、小さな光。
地球上の、すべての意識が、
ひとつの場所へ集まっていた。
そして、その中心にいるのが――アースだった。
ウィンディアとスノーウィに支えられ、
横たわるアースのすぐそばへ、リズは降り立つ。
「リズ……」
彼女に気づいたウィンディアが、驚きの表情を見せる。
それにつられるように、スノーウィも。
「アースは?」
震えそうになるのを、必死でこらえて尋ねる。
ふたりは顔を見合わせ、それから、わからないとでも言うように、
静かに首を横に振った。
「石は、もう死〈くろ〉に近い……」
姿こそ見えないが、闇〈ダーク〉の声が、そう告げる。
それを聞き、ウィンディアとスノーウィは、アースを地に寝かせ、左腕の生命の石を確認する。
それを目にした者は、皆、一様に息を呑んだ。
「アース……」
「アースが死ぬ」
「アースは、もう死〈くろ〉だ」
「アースが死ねば、我々も死ぬ」
さまざまな声が、
あちらこちらで囁かれる。
それは刹那、地球上を駆け巡った。
リズは、
軽く拳を握りしめる。
「……静かにして」
リズの声が響く。
ざわめきは、すぐに消え、意識は、彼女へと集中する。
リズはアースを見て、そのそばにいるウィンディアとスノーウィを見る。
「アースから、少し離れて」
声が、わずかに強張る。
ふたりは頷き、入れ替わるように、リズがアースのそばへ近づいた。
「アースの愛で子」
「リズ……最後の妖精」
「生命の妖精、リズ」
「ラフェリアの遺した、リズ」
先ほどよりも、ひそやかな声が囁く。
リズは、聞こえないふりをして、アースに触れた。
「……熱い」
唇を、きつく噛みしめる。
色の悪い、黒ずみかけた肌とは裏腹に、アースの身体は、異様なほど熱かった。
呼吸さえ止まってしまったかのように、アースは、静かに横たわっている。
「アース……」
呼びかけても、返事はない。
反応すら、ない。
普段は髪留め代わりになっている、
生命の石の欠片をひとつをブルーの髪から外す。
それを目の高さに掲げ、細めた目で見つめてから、リズは、ひとつ、呪文を唱えた。
それは、太古の言葉。
生命の妖精だけが知る、不思議な言葉。
そして今は、リズしか知らない、癒し。
それは、生命の妖精だけが使える魔法。
ほんの少しだけ、穢れを引き受ける小さな魔法。
淡く光を放ち始める石。
優しいブルー。
それは、リズの色。
青い輝きは、次第に石の内側へと収まっていき、やがて、石全体が、穏やかな光を帯びる。
もう一度、リズは癒しの呪文を紡ぐ。
静かな空間に、こだまのように響く。
細く、高く、それでも、はっきりとした、リズの優しい声。
声が闇に呑まれ、途切れた、そのとき。
リズは、ゆっくりと目を開いた。
その瞳は、息を呑むほどに、青い。
いつもの淡いブルーとは違う、深い深い、海のような、地球〈アース〉のような青。
癒しを封じ込めた、生命の石の欠片を、リズは、自分の口に含む。
そして、それを口移しで、アースの口へと渡した。
石が消えた瞬間、周囲は、闇に包まれる。
月〈ルナ〉があるため、完全な暗闇ではない。
ほんの少し、闇が深くなっただけだ。
最後の言葉を、リズは、静かに紡ぐ。
――その刹那。
アースの穢れが、ほんの少しだけ、リズへと移る。
激しいめまいと、視界の暗転。
それでも、リズは、何事もないふりをした。
周囲の意識は、すべてアースへ向いている。
リズの異変に、気づいた者はいない。
わずかな安堵とともに、リズの意識も、再びアースへと向けられる。
正直に言えば、不安はあった。
生命の妖精としての能力を、リズが使うのは、これが初めてだった。
やがて――
アースの瞳が、ゆっくりと開く。
少しだけ明るさを取り戻した、地球色の瞳。
鮮やかさを宿した、髪。
周囲から、安堵のため息が零れ、時間は再び緩やかに流れ始める。
闇は、夜を包み。
月光が、それを照らす。
月光の届かない場所へ、雨は、静かに恵みをもたらす。
使いの妖精たちは、それぞれの主のもとへ還り、アースのこと、そしてリズのことを、報告するだろう。
この場に残ったのは、リズと、ウィンディア、スノーウィ。
そして――アースだけだった。
ウィンディアとスノーウィに支えられ、アースはゆっくりと立ち上がる。
「ああ、ごめん。みんなにも心配させてしまったね」
頭を押さえてアースは情けなさそうに、ウィンディアとスノーウィを見る。
「気にするな。何ともなくて良かった……リズに感謝しろよ」
笑顔を乗せようとして失敗したスノーウィの表情は、僅かに引きつっていた。
「ああ、リズに礼を言ったほうがいいな。俺達にはどうしようもなかったから」
珍しく大きな声を出し、ウィンディアがスノーウィの不自然さを取り繕おうとしたが、それがかえって不自然さを招いていた。
おそらく――アースも気づいただろう。
それでもアースは気づかないふりをして2人に笑んで返す。
それから、リズを見る。
優しく微笑んだアースは、ゆっくりとリズの右手、生命の石へと視線を落とした。
瞬間的にアースの表情が曇る。
「リズ……」
低い、アースの声。
ビクッとしてリズは右手を引っ込め、背中に隠した。
「気にしないで……ほんの気休めにしかならないんだから。私の能力(ちから)では」
それでもアースの表情は晴れ晴れとはしない。
リズは僅かに笑んで見せた。
「アースは悪くないわ。……人間たちよ、全ての悪は」
そうじゃない、と、アースは言いたそうだったが、彼が口を開く前にスノーウィが口を開いた。
「ああ、確かに、人間たちの所業は酷くなる一方だ」
「地球(アース)の状態が悪くなっていることは、十分にわかっているはずなのに。あれだけの科学力を持っていて……」
続きを引き継いだウィンディア。
2人の視線が絡まり合い、吹雪の鋭さを持つ。
「アース、そろそろ決断してもいいんじゃないか?」
鋭い眼差しでアースを見つめ、厳しい表情は嵐のような怒りを含んでいる。
3人を包んでいる風が冷たく強く変わっていく。
ウィンディアの心の変化そのままだ。
いつもは穏やかなウィンディアの言う、決断。
それは――
「世界を、一掃する……か」
それをはっきりと言葉にしたのはスノーウィだった。
彼も考えていることだったのだろう。
一瞬にも満たない間、憂いたスノーウィは銀の瞳をすぐにアースへ向けた。
アースは少しだけ、困った笑みを見せた。
そして、その笑みの答えをウィンディアもスノーウィもリズも知っていた。
ごめん――
小さく呟くアース。
静かに空気を震わせる。
アースは夜の終を見つめた。
そこにあるのは、これまでのこの地球(ほし)の果てなく永い道のりだった。
それをみんな知っている。
知らないのは、まだ幼いリズだけだった。
「もう少しだけ、待って欲しいんだ。人間の持つ、夢や希望……そして、人が、人を生命を愛する心、何かを愛する心。それが、その想いが地球(アース)に直接伝わってくるんだ、それが、一番好きなんだ」
アースは2人を振り返り、そしてリズを見る。
人間を一番憎んでいるのはリズなのだ。
「俺のわがままだというのはわかってる」
でも――
と、アースは続ける。
「もう少しだけ待って欲しい」
ウィンディアとスノーウィは複雑な表情を見せた。
リズは2人を見る。
ラフェリアの愛したウィンディア。
穏やかで優しく、いつもリズを助けてくれる大好きな風・ウィンディア。
そしてノエルの愛したスノーウィ。
冷静かと思えば、愉快な一面もあり、いつもリズの世話を焼いてくれる大好きなスノーウィ。
その2人の持つ想いも複雑なものなのだろう。
アースと共に永い永い時間を生きてきた2人。
アースの想いも知っている。
アースは全ての源であるのだから、アースの想いも2人は知っている。
それでも2人には別の想いもあるのだ。
ラフェリアのこと。
ノエルのこと。
それは決して忘れられるものでも、触れずにいられるものでもない。
「アース……」
複雑なウィンディアの声。
アースはまた困惑したように微笑んだ。
そして、今度はリズを見る。
「ごめん、リズ。リズをひとりぼっちにしてしまったのも、俺のせいだ。人間をあまり憎まないで欲しい」
リズはアースのその複雑な表情をもう見たくなかった。
リズだってアースが大好きなのだ。
アースの望みを叶えてあげたい。
けれど、まだ幼いリズにとってたくさんの仲間が消えていったことは、哀しくて辛すぎることなのだ。
リズはアースの言葉を聞かなかったふりをした。
そして、3人に背を向けたまま、宙へ飛び出す。
「さよなら、アース」
少し遅れて、
「リズ、ありがとう」
というアースの声を風が伝えたが、リズは振り返らなかった。
闇がリズの身体を包む。
心地よい闇。
優しい夜。
リズの心を癒そうとみんなが心配してくれる。
包んでくれる。
それでも今宵もリズは悪夢を見る。
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