第1話:異変


灰は、今日も静かに降っていた。


降り方が穏やかな日は、厄介だ。

風がないぶん、灰は地面に溜まり、路地の隙間に沈み、家々の軒下に薄い膜を作る。

そして“異変”は、そういう日の方が起きやすい。


「区域、封鎖済み。避難は完了。……残留反応、複数」


淡々とした声が、フードの内側から響いた。

セラ。感情かんじょう非搭載型ひとうさいがた人造体じんぞうたい、通称ミュート。最新型だ。

深いフードの奥で、彼女の機械耳が微かに青白く息づいている。


ルインは返事をしない。返事は必要ない。

彼は銃を構えたまま、まだ撃たなかった。


前に立つのはヴァルドだ。

煤色の空気を切り裂くように、大楯おおだてがゆっくりと上がる。

楯の縁には、灰が薄く固着している。

握る手の節も、灰の影響か、硬い。


「……歪成型わいせいがたと推定」


セラが続けた。


「数、五。動き……散開。こちらを探している」


「探している、か」


ルインは小さく息を吐き、足元の灰を踏みしめた。

灰は鳴らない。

けれど、靴底の下で湿った砂のように沈む感触がある。


ここは住宅区画だった。

窓は閉め切られ、玄関先には避難の札が残っている。

洗濯物を干したままのベランダ。

食べかけのまま放置された皿。

“生活”は、逃げる時に置き去りにされる。


「ヴァルド。引きつけろ。」


短く指示を出す。

ヴァルドは頷かない。

ただ一歩、前へ出る。


「灰濃度、微増。左路地、反応接近」


その瞬間、音がした。

硬い爪がコンクリートを引っ掻く音。

濡れた布を裂くような呼吸。


影が、二つ。三つ。

灰のカーテンの向こうから、ゆっくりと——いや、ぎこちなく現れた。


人の形をしていた。

肩幅、腕の長さ、脚の関節。

でも、どこかが“多い”。


一体目は、右腕が肥大していた。

骨が外側へ押し出され、皮膚が引き裂かれそうなほど盛り上がり、指先が鉤爪のように尖っている。

二体目は、首が妙に伸び、顎が歪んで開いたまま閉じない。

口の奥で、灰が粉のように舞っていた。


三体目——それは、顔が残っていた。

目だけが、妙に人間のまま。


「……灰歪徒かいわいと


ルインが呟くより早く、ヴァルドが前に出た。


灰歪徒かいわいとが跳んだ。

勢いだけで突っ込む。

狙いは、目の前の“壁”——ヴァルド。


ドン、と空気が詰まるような衝撃。

大楯おおだてが受け止める。

金属と骨と肉がぶつかる音が、灰の静けさを裂いた。


ヴァルドの足が、半歩沈む。

だが、退かない。


灰歪徒かいわいとが楯に群がる。

掴む。叩く。噛みつく。

楯の表面に、灰と血が擦り付けられていく。


「右、大きく回り込み」


セラが告げる。


「二体、背後へ。……濃度、上昇」


ルインは銃口を滑らせた。

狙うのは、急所ではない。

“止める場所”だ。


一発。

乾いた音がして、回り込もうとした灰歪徒かいわいとの膝が砕けた。

体が崩れる。

倒れたまま腕だけが這うように伸びる。


二発目。

もう一体の肩を撃ち抜く。

関節が外れ、腕がぶら下がった。


それでも、止まらない。

止まらないというより——“痛み”が、存在しない。


「ヴァルド、押し返せ」


ヴァルドは楯を前へ押し出した。

灰歪徒かいわいとがまとめて後ろへ弾かれる。


その一瞬の隙、ヴァルドの拳が顔面に飛んでいく。

一発。

灰を潰す音。

拳が肉に入る感触が、空気に残る。


「一体、沈静化」


セラが言った。

淡々と。

まるで機械のログのように。


ルインは次の弾を込める。

撃つ。

撃つ順番は、感情ではなく、状況で決める。


だが——


四体目が、倒れ際に、喉を震わせた。


「……た……す……け……」


声になっていない。

灰にまみれた息が、言葉の形を真似ただけだ。


それでも、耳だけは、拾ってしまう。


ヴァルドの動きが、一瞬止まった。


楯が下がる。

ほんの数センチ。


その“数センチ”に、灰歪徒かいわいとが噛みついた。


ガリッ、と骨を削る音。

ヴァルドの腕から血が出た。

赤いはずのそれは、灰に触れてすぐ黒く濁る。


「——ヴァルド!」


ルインの声が鋭くなる。


ヴァルドは、眉一つ動かさない。

だが目だけが、ほんの少し揺れた。


“助けて”

その音が、彼の中の何かを撫でた。


次の瞬間、ルインは前に出ていた。

後衛が前に出るのは悪手だ。

分かっている。

それでも、今は“判断”が勝った。


「下がれ。俺がやる」


銃口を近距離へ。

迷いなく引き金を引く。


一発で、灰歪徒かいわいとの頭部が裂ける。

二発目で、痙攣が止まる。


ヴァルドの楯が、もう一度上がる。

遅れた分だけ、動きが荒い。


「……濃度、上がる」


セラの声が少しだけ速い。

感情ではない。

単なる処理速度の変化。


「このままだと、局所的に“寄る”」


寄る。

灰が、集まる。

灰廻りはいまわりの前兆。


ルインは歯を食いしばった。

まだランクⅡだ。

ここで寄らせたら、街が汚れる。

そして誰かがまた“変わる”。


「終わらせる」


短く言う。


撃つ。

撃つ。

ヴァルドが押さえ、ルインが落とし、セラが角度を投げる。


「右、残り一体。足、損傷。ですが、跳躍、可能」


「了解」


ルインは銃口を下げたまま、タイミングを測る。


灰歪徒かいわいとは跳んだ。

最後の悪あがき。

ヴァルドの楯へ——ではない。

後ろの、ルインへ。


狙いが変わった。

“壁”ではなく、“判断”を潰しに来た。


ルインは半歩だけ後ろへ下がり、撃った。


一発。

胸を貫く。


二発目。

頭。


灰歪徒は空中で止まり、

重たい肉の塊として、灰の上へ落ちた。


静けさが戻る。


灰が降っている。

何もなかったみたいに。


「反応、消失」


セラが告げる。


「沈静化を確認」


ヴァルドは楯を下ろし、血のついた腕を見た。

表情は変わらない。

だが、その視線は、死体ではなく、もっと遠いところを見ている。


「……さっきの」


ルインが言いかける。


ヴァルドは何も言わなかった。

言葉が、出ない。


セラが一歩近づき、地面の灰を見下ろす。

彼女の視線は“観測”だ。


「……数値に、微小な誤差」


「誤差?」


「はい。説明できる範囲ですが……」


“ですが”の先を、彼女は言わない。

言う必要がないと判断したのか。

それとも、言えないのか。


ルインは銃を肩に戻した。


「帰るぞ。報告する」


「了解」


セラは即答した。

ヴァルドは、遅れて一歩動く。


住宅の窓の向こうに、置き去りの生活が見えた。

誰かのコップ。

誰かの写真立て。

誰かの、昨日。


灰鎮師かいちんしは、それを拾わない。


拾うのは、現象だけだ。


三人は灰の中を歩き、

次の“仕事”へ向かう。


その背中に、灰が降り積もる。


——まだ、これは序章に過ぎない。

誰も、その先の“壊れ方”を知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る