第2話:静かな誤差

灰鎮局かいちんきょくの建物は、外から見ると拍子抜けするほど普通だった。


分厚い壁も、重武装の兵士もない。

灰対策用のフィルターが常時稼働していることを除けば、役所と変わらない外観だ。


ルインは、濡れた靴底をマットで払ってから中へ入った。

灰は落ちない。

落とそうとする行為だけが、癖として残る。


「帰投、報告」


受付に声をかけると、端末が淡く光った。

名前と所属が表示され、処理音が鳴る。


「確認しました。第三区画、歪成型わいせいがた対応ですね」


事務的な声。

同情も、評価もない。


「死者は?」


「ゼロ」


「なら問題ありません」


ルインたちは報告用通路を進む。

背後で、ヴァルドの足音が一拍遅れて響く。

いつもより、少しだけ重い。


セラは無言で歩いていた。

彼女の視線は常に一定の高さに保たれている。


報告室は狭い。

壁に埋め込まれたモニターと、三脚の簡易記録装置。

椅子は三つ。

だが座る者はいない。


「状況を」


画面越しの担当官が言った。


ルインは簡潔に説明する。


発生地点。

灰濃度。

歪成型わいせいがた五体。

群体行動。

人的被害なし。


感情を挟む余地はない。

それが灰鎮師かいちんしの報告だ。


「処理時間は?」


「七分四十二秒」


「標準的ですね」


標準。

便利な言葉だ。


「セラ。観測ログを提出してください」


「了解」


セラが一歩前へ出る。

端末に接続され、データが流れる。


数値。

波形。

予測線。


灰は、ここでは“現象”に変換される。


「……微小な誤差が記録されています」


担当官が眉をひそめた。


「誤差?」


「はい。解析範囲内です」


セラが即答する。


「再現性は?」


「未確認。再現試験は未実施」


「なら問題ないでしょう」


そう言って、担当官は次の項目へ進んだ。

誤差は、切り捨てられる。


ルインは何も言わなかった。

言う理由が、まだない。


報告が終わり、三人は廊下へ戻る。


壁際のベンチに、別の灰鎮師かいちんしが座っていた。

装備はくたびれ、靴底には乾いた血の跡。

目が合う。


「……歪成わいせい?」


「Ⅱ」


ルインが答えると、男は短く息を吐いた。


「判断がいらないのは処理だけで済むから助かるな」


ルインは一度だけ、その言葉を聞き流す。


「行くぞ」


局を出ると、灰は相変わらず降っていた。

屋内より、外の方が呼吸が楽に感じることがある。

理由は分からない。


「ヴァルド」


ルインは歩きながら声をかけた。


「さっきの」


ヴァルドは、立ち止まらない。


「……問題ない」


短い答え。


「噛まれただろ」


「問題ない」


繰り返す声が、少し硬い。


ルインはそれ以上踏み込まなかった。

踏み込むのは、仕事じゃない。


セラが二人の後ろを歩きながら、ぽつりと言う。


「本日の戦闘データ、平均より僅かに偏差があります」


「さっきの誤差か」


「はい」


「原因は?」


セラは一拍、間を置いた。


「特定できません」


それは、彼女にとって珍しい返答だった。

通常、原因は“未解析”か“外的要因”に分類される。


「特定できない?」


「はい。該当項目が存在しません」


ルインは足を止めた。

灰が肩に積もる。


「……記録ミスか?」


「可能性はあります」


「修正できるか」


「できます」


「なら修正しろ」


セラは頷いた。

命令として処理する。


だが、彼女は付け加える。


「ただし、修正後も同様の誤差が発生する可能性があります」


「可能性、ね」


ルインは歩き出す。


街は静かだった。

避難区域は解除され、

遠くで人の声が戻り始めている。


今日も、誰かが助かった。

今日も、誰かが変わった。


それでも世界は回る。


ヴァルドの背中を見ながら、ルインは考える。

あの一瞬の躊躇。

“助けて”という音。


そして、セラの言う誤差。


——まだ、繋がらない。


だが、灰はいつも

「少しずつ」

広がる。


それを知っているのは、

現場に立つ者だけだ。


ルインは銃の重みを確かめながら、

次の依頼を待った。


灰は、今日も降っている。


それが、当たり前であるかのように。

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