白華流離奇譚〈三〉王冠の重さ
風花《かざはな》
41.城塞の影
エウロペ帝国──その名を口にするだけで、人々は無意識に声を落とす。幾度の王朝交代にも屈せず、ただ領土の拡大だけを目的に肥大し続けてきた冷徹な大国だった。
砂漠の王国・ローランの北境と接しながらも、これまでは砂漠の厳しい環境により、長年侵略のきっかけを掴めずにいた。
近年では、その目は海の彼方に向けられており、つい最近も西の果てに『新大陸』を『発見』したとの報で、国民は沸いていた。
途中立ち寄った村では、焚き火の傍に集まった老人たちが「また徴兵が始まるらしい」と囁き合っていた。
首都・ヴェラントゥスへ向かう行商人や旅人たちは皆、同じ道を辿る。
船で海を越えるか、砂漠の王国の北端にある名もなき国境町で馬を替え、西へ西へとひたすら進むのだ。
そして今──西風を切るように、二つの馬影が大陸を西へと進んでいた。
速歩と休憩を繰り返せば、日中に十八里は移動できる。二人もまた、何度も水を与えながら馬を進ませ続けていた。
もはや何度目になるかわからない休憩のとき、片方の人影が口を開いた。
「……さすがに遠いな。大丈夫か?
気遣う言葉に、紫闇と呼ばれたもう片方の人影は、ややあがった息を整えながら答える。
外套の頭巾を脱いで長い黒髪を掻きあげると、褐色の肌が陽に煌めき、長い黒髪が風に流れた。派手な化粧も、旅の疲れを感じさせないほど紫闇にはよく似合っていた。
「アタシはまだ大丈夫だよ。しっかし、船のほうがマシだったかねぇ……どう思う?
だが、白雅と呼ばれた人影は小さく肩を竦めただけだった。頭の天辺から足の爪先まで、全身を外套で覆っており、その容姿は判然としない。
「言っても仕方がない。海路は人目が多すぎる。砂漠でもないのに全身を外套で隠して歩けば、すぐ密告される。そうなれば……どうなるかは言わずともわかるだろ?」
紫闇は水を口にしながら、苦々しげに息を吐いた。
「……まぁね。あの国では『魔女』は火炙りにされちまう。大昔の悪しき風習がまだ残ってんだ。だから、あんまり行きたくなかったのに……」
そこへ、風もないのに空気をわずかに震わせるような、音なき声が響いた。
『……すまぬ。だが、確かに同胞に呼ばれておるのだ。力を貸してほしいと』
白雅と紫闇のもう一人の同行者、竜神の
白雅と紫闇、そして竜神・璙王は──否応なく、このエウロペ帝国へと導かれていた。
*
途中、小さな町や村を経由しながら、ふた月以上かかって辿り着いた首都・ヴェラントゥスは、鈍い鉛色の空の下に広がる巨大な城塞都市だ。
外壁は漆黒の花崗岩で築かれ、長い年月の風雨に晒されてもなお、鉄の意志を宿すかのようにひびひとつ入っていない。城門の上には重々しい帝国紋章が掲げられ、鋳造された鉄の王冠と剣が、訪れる者を威圧するように冷たく光っていた。
城門をくぐると、まっすぐ伸びる大通りが皇城へ通じている。舗装された石畳には、軍靴の音が絶えない。槍と盾を携えた衛兵が一定間隔で立ち、鋭い目つきで往来を監視している。市民たちは兵の視線を避けるように歩き、声を潜めて話す姿が目立つ。
市場は人で賑わってはいたが、どこか活気に欠けていた。
戦地に向かう息子を見送ったばかりの母親は、買い物袋を抱えたまま落ち着かず往復し、徴税吏を遠目に見つけた商人は、そっと帳簿を隠した。軍需品を運ぶ職人たちの足取りは慌ただしく、そのどれもが軍国の影を背負っていた。
屋台の合間を抜ける風は乾燥して冷たく、戦火の匂いを運んでくるようだった。
大通りの先にそびえる皇城は白い大理石と黒曜石を組み合わせた重厚な造りで、巨大な尖塔が空を切り裂くように立っている。
「……圧が凄いねぇ」
紫闇が呟き、白雅も思わず足を止める。城壁沿いには弓兵の影が見え、城内深くには秘密裏の牢があると噂されている。市民たちでさえ、そこを指して話すことはなかった。
広場には戦勝記念の石碑や戦没者の名が刻まれた壁があり、帝国の栄光と狂気を象徴している。
その足元では、遊ぶ子供たちの笑い声がほんの一瞬だけ空気を柔らげる。しかし、それもまた戦争の影がすぐに飲み込んでしまう。
ヴェラントゥスは豊かな都でありながら、どこか閉塞感と恐怖が満ちていた。
その空気を吸うだけで、誰もが帝国という巨大な獣の腹の中にいるのだと思い知らされる──そんな場所だった。
「必要なものを買ったら、すぐに出発しよう」
白雅の言葉に、紫闇も頷きを返す。
「そうだね。アタシもこんなところに長居したくないし」
そう決めて二人が市場に向かうと、市場は予想外に多くの人で溢れていた。
「アタシが買ってくるから、アンタはそのあたりで隠れていて。すぐ戻るから」
「……わかった」
白雅を置いて、紫闇は一人で市場の雑踏へと姿を消した。市場の一角では商人と買い物客との間で丁々発止のやりとりが行われている。
会話を聞くともなしに聞いていると、次第に二人の声が荒くなり、周囲の客たちも落ち着かない様子で距離を取り始めていた。
(マズいな……)
そう思った瞬間だった。
「なんだって!? もういっぺん言ってみやがれ!」
「あぁ、何度でも言ってやらぁ! この腐れ外道が!」
互いにどつきどつかれ、商人と客のやりとりは大喧嘩へともつれ込んだ。周囲に大勢人がいる中で、この喧嘩は致命的にマズかった。
白雅の鼻を突く香辛料の匂いが、怒号とともに一気にざらついたものへと変わる。押し合いへし合いする群衆の肩が白雅の外套を掠め、足元では誰かが落とした果実が潰れ、甘い香りがむせるように広がった。
商人と客の乱闘に巻き込まれて、突き飛ばされた女性。転んで泣いている子供。倒れる店の柱と天幕。雪崩れ落ちる商品。叫び声と物音と砂埃が渦を巻き、視界が一瞬で混乱に塗り替えられた。
「白雅! 大丈夫かい!?」
そこへ買い出しに行っていた紫闇が戻ってきた。
「紫闇、そっちこそ無事でよかった!」
大騒動の中、半ば叫ぶようにして会話する。
「うわぁ!」
突然、男性の悲鳴がして、弾かれたように白雅が視線を向けると、今にも落下しようとする荷物の先に、倒れて動けなくなっている初老の男性がいるではないか。
白雅はとっさに腰に差していたふた振りの剣を鞘ごと抜いて、大きく踏み込むと、そのまま落下物を横ざまに薙ぎ払った。
「大丈夫か!?」
その初老の男性は、驚いたように白雅を見上げた。
「あ……あぁ、足を挫いちまっただけだ」
「ちょっと見せて」
白雅は石畳に膝をつき、落ち着いた手つきで捻った足首を確かめた。
彼の捻った足首は軽く腫れてはいたが、明らかな骨折はなさそうだった。紫闇がすぐに作ってくれた湿布をして、その上から添え木を当てて包帯で固定する。
「よし、とりあえずはこれでいい。あとでちゃんと医術師に診てもらってくれよ」
「お……おう、ありがとな」
初老の男性は戸惑いながらも礼を口にした。市場にはようやく静寂が戻りつつあった。
「他に怪我をした人はいないか?」
張りあげた白雅の声に、おそるおそるいくつかの手が挙がる。白雅は順番に診て回り、紫闇は白雅の指示通りに薬草を調合した。
その場で粗方の応急処置が済んだときだった。少し離れたところから悲鳴があがった。
「お願い、うちの子を助けて! さっき転んでからぐったりしているの!」
白雅は慌てて駆け寄ると、母親と思しき女性に指示を出した。
「転んだ拍子に頭を打ったのかもしれない。動かさないで静かに寝かせて」
呼吸と脈は落ち着いている。指でまぶたを押し上げ、瞳孔を確認した。瞳孔の大きさに左右差はなく、対光反射は正常だった。子供の頭を慎重に触ると側頭部にたんこぶができていた。
「おそらく軽い脳震盪を起こしただけだと思う。心配ないよ。たんこぶができているから、冷やしてやって」
「あぁ、神様……ありがとうございます!」
そのとき、ちょうど子供が目を開けた。いつもの癖で様子に異変がないか顔を覗き込もうとして──目が合った。
外套の影から覗く白雅の瞳は、血のように紅く、どこか戦火を想起させた。
子供の顔が恐怖に歪む。白雅は、胸がヒヤリと冷たくなるのを感じた。しまった、と思ったときには、もう手遅れだった。
「魔女だ!」
子供が大声で叫んだ。その瞬間、人々の間に恐怖と動揺がさざ波のように広がった。
「魔女だって!?」
「まさか、そんな……」
母親は子供を抱きかかえて一目散に逃げ出し、白雅に助けられた他の人々も、混乱した様子で後退った。
白雅の周囲から人がいなくなり、人々は白雅を化け物でも見るような目つきで遠巻きに見つめている。
噂は瞬く間に広がった。
「白雅、逃げるよ!」
「あぁ!」
紫闇が拾いあげた白雅の荷物を投げて寄越す。過たず飛んできた荷物を掴み取ると、白雅は走り出そうとして二の足を踏んだ。
周囲には市民のバリケードができていた。これでは逃げられない。
どうするべきか戸惑っているうちに、騒ぎを聞きつけた帝国の巡回兵たちが駆けつけてきた。
「魔女が現れたという話だが? ……貴様らか」
どこか居丈高な兵士が現れて、市民から遠巻きにされている白雅と紫闇を睨みつけた。状況証拠は充分のようだった。
「この二人を捕らえろ!」
兵の一人が紫闇の腕を強く引っ張り、無理やり縄をかけようとする。
「やめろ! 紫闇に乱暴するな!」
白雅はとっさにその兵と紫闇の間に割って入ろうとして、他の兵たちから一斉に力尽くで取り押さえられてしまった。
紫闇が叫ぶ。その声には、震えが混じっていた。顔色は真っ青だ。
「白雅!」
「くっ……!」
今、隙を見て暴れて逃げることは簡単だ。だが剣を振るえば、きっと誰かの血が流れる。それが罪なき市民であっても、帝国兵であっても──白雅はそれに耐えられなかった。それだけは断じて嫌だった。
白雅は観念して紫闇と二人、大人しく身柄を拘束されたのだった。
*
白雅は双剣を、紫闇は弓矢を、それぞれ没収され、連行された先は皇城の地下牢だった。
牢に放り込まれると、重い鉄扉が音を立てて閉ざされた。外から鍵がかかり、かすかな蝋燭の灯りが壁に揺れる。湿った冷気が肌にまとわりつき、毛穴を刺すように冷たかった。遠くから響く水滴の音と足音が、冷たい空気に溶け込むように重苦しく漂う。
二人は肩を竦め、深く息を吐いた。白雅は床の石を睨みつつ、ため息混じりに呟く。
「……参ったな」
紫闇も天井の影を見上げながら、疲れと苛立ちを混ぜた声で答えた。
「ホント、散々だわ……事情も聞かずに即連行なんて……相変わらずやることがエグいわね」
二人の肩には、重い鉄扉の影が圧し掛かっているようだった。
白雅は、外套の奥でひとつ息を殺した。紅い瞳が見つかった瞬間の、あの子供の怯えた顔が脳裏から離れない。また紫闇も白雅を乱暴に押さえつけた兵士への憤りに小さく震えていた。
翌朝、牢の扉が軋む音とともに開かれた。 中年の異端審問官が一人、書類を手に足早に入ってきた。
彼は書類をめくりながら、チラリと二人を見遣る。目は冷たく、退屈そうに質問を口にするだけだった。
「名前と年齢は?」
「……白雅。十九歳だ」
「……紫闇よ。本名はサリナ。年齢は三十四」
うんざりしたように質問に答える二人の態度を、異端審問官は何故か咎めなかった。
「出身地は?」
「不明だ」
「ローラン国」
質問はまだ続いた。
「親兄弟は?」
「……いない」
「なに言ってるのさ、アンタはアタシの娘でしょ」
紫闇の言葉に、異端審問官の眉がピクリと動く。彼は初めて自発的な質問をした。
「……年齢が合わないようだが?」
「血がつながってないからな」
「それでもこの子はアタシの娘さ。十三年間大事に育ててきたんだから」
異端審問官は淡々と書類をめくり、目線を二人に落とす。 その視線は冷たく、言葉には微塵の慈悲もなかった。
「……質問は以上だ。お前たちの裁判は明朝、異端審問院で行われる。今のうちに祈りを済ませておくのだな」
そう告げると踵を返し、重い足音を響かせながら去っていった。
「運がよかったのかしら?」
「……どうだかな」
拷問されずに済んだとはいえ、明朝の裁判の行方は予想がつく。火炙りの判決は目に見えていた。
それでも白雅と紫闇は、鉄扉の重みに背を押されながら、互いに黙って覚悟を決めた。
白華流離奇譚〈三〉王冠の重さ 風花《かざはな》 @kazahana_ricca
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