第5話 ノイズと教義
俺はヘルメットを装着したまま、自分のシートで硬直していた。意識の片隅では、依然として[死因:低体温症]の文字が、俺の意思とは無関係に点滅し続けている。思考のリセットコマンドを何度走らせても、そのログは網膜に焼き付いて消えることがない。
「まだそれを着けているのか、ゼロ・スリー」
沈黙を破ったのは、ゼロ・セブンだった。彼は、まるで汚物でも見るかのようにバイザー越しの俺の顔を見ていた。
「ゼロエミッション・スーツは、『汚染された外気』から執行官を守るものだ。このクリーンな車内でヘルメットは必要ないだろう。それとも、俺の吐く息すら『汚染』だとでも?」
「……」
俺は答えなかった。今ヘルメットを脱いだら、自分の
ゼロ・セブンは、その沈黙を肯定と受け取ったのか、嘲るように続けた。
「あのブランケットの一件。規律違反として正式に報告させてもらう。貴様の
俺は、まだ『GCAの教義』という鎧の中で、かろうじて反論した。
「……テロリストの
「合理的?」
ゼロ・セブンは、心底おかしいというように肩をすくめた。
「ゼロ・スリー、貴様は優秀な執行官だったはずだ。いつからGCAの教義に『合理性』などという曖昧な不純物を持ち込むようになった?」
彼は席を立ち、俺のヘルメットの目の前まで顔を近づけた。
「いいか。GCAの教義に、合理性など不要だ。あるのは『規律』だけだ。我々は寒冷化ガス(CO2)を排出する者は、例外なく捕縛し、矯正施設に送るだけだ。そこには、経緯も感情も不要。それらは、すべてノイズだ!」
「……彼女の姉は凍死していた」
俺は、頭の中で点滅するHUD(ヘッドアップディスプレイ)の文字を読み上げるように言った。
「だから、なんだ?」
ゼロ・セブンの声が、温度を失った。
「姉が凍死? それこそが
彼は、後部のシートで震える少女を指さした。
「自分の姉を殺したのは、あいつら自身だ。我々はその『罪』を裁き、
それは、あまりにも美しく、完璧に閉じられた円環の論理だった。GCAの教義に照らせば、一分の隙もない『正義』だ。だが、快適なはずの摂氏20度のスーツの中は、今や、脂汗が吹き出るような不快な世界に感じられた。パージ・マスクを通す空気は正常なはずなのに、息が苦しい。俺は、自分でも制御できないまま、ついに『GCAの教義』を踏み越える問いを発していた。
「……ゼロ・セブン」
「なんだ」
「我々は、何を守っている?」
――ゼロ・セブンの嘲笑が、顔から消えた。
「我々は地球を寒冷化から守るために、市民から『暖』を奪っている」
俺は続けた。
「そして、寒さで動けなくなった彼らの亡骸は『衛生局の管轄だ』として、その現実から目を逸らす。我々が守ろうとしているのは……一体、誰だ?」
「……貴様」
ゼロ・セブンの声が、摂氏0度の車内よりも冷たくなった。
「誰もいなくなった後の『絶対零度の地球』か? それが、GCAの望む『救済』か?」
一瞬、ゼロ・セブンの無機質な瞳が揺らいだように見えた。だが、それはすぐに激情の炎で塗りつぶされた。
「黙れ、ゼロ・スリー!!」
ゼロ・セブンが、俺のアーマーの胸倉を掴み上げた。
「貴様、GCAの教義を疑うのか!それは『汚染』だ!思想汚染だぞ!」
――その時、ガコンという重い音を立てて、車両が停止した。行政区画に到着したのだ。
ゼロ・セブンは、俺を睨みつけたまま、俺の胸倉からゆっくりと手を離した。
「……どうやら、再教育センター行きは、そこのテロリストだけではないようだな」
圧縮空気の抜ける音と共にフロントハッチが開く――そこに広がっていたのは、地下ドックを支配する『無菌照明』の、網膜を焼くような潔癖な純白の光だった。俺はその光の中で、自分が取り返しのつかない
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