第3話 摂氏20度の寒気

「……やめて……」

 少女が、黒い手錠カフに怯えたように身を縮める。しかし、俺はその懇願を完全に無視し、規律マニュアルに従い、淡々と――そのか細い手首にカフを装着する。ゼロエミッション・スーツで武装した俺に対し、訓練を積んだ大人が、ましてや、この少女が抵抗したところで意味はない。だが、このカフはテロリストの心を束縛するための、象徴的な意味合いを持つ。


「……あなたの『手』……暖かい……」

 その言葉に、俺は再び動きを止めた。俺のスーツが維持する『摂氏20度』が、凍えきったこの少女には、火傷するほどの熱に感じられているのかもしれない。


「――昨日、お姉ちゃんが凍え死んだの!――」

 先ほどの叫びが、ヘルメットの中で反響する。


(……それがどうした)

 俺は思考を強制的に断ち切る。感情ノイズは判断を鈍らせる。GCAの教義こそが絶対だ。個人の死など、地球の死に比べれば無に等しい。俺は少女を無理やり立たせ、カフをロックした。


「GCA法 第11条違反により、連行する」


「待って……お姉ちゃんが」

 少女が、部屋の奥にある、閉ざされたドアを見つめ、足を止める。

「お姉ちゃんが、まだ……あそこにいるの」


「死亡者は衛生局の管轄だ。追って回収班が処理する」


「いや――ッ! ここから、連れて行かないで!」

 少女が初めて抵抗の意思を見せ、俺の腕にしがみついた。

「お姉ちゃんは、寒いのが嫌いだったの! お願い、お願いだから……!」


(……命令オーダーの範囲外だ。俺はこの『排出源』を車両まで移送すればいい。死体のことなど知ったことではない)


(だが、HUD(ヘッドアップディスプレイ)に映し出された任務タスクリストには、『現場状況の完全な記録』という項目が、未消化ステータスとして残っている)


「……確認する」

 自分でも驚くほど低い声だった。俺は少女が見つめるドアの前に立つ。だが――ノブは完全に凍りついていた。ギギギ、と駆動装置サーボが唸る。俺はアーマーの腕力に任せ、強引に氷を破砕してドアをこじ開けた。


 中は、窓もない、さらに小さな部屋だった。スーツのヘッドライトが、闇を切り裂く。そこにあったのは、ベッドとも呼べない寝具の上で、ぼろ布にくるまれた、小さなだった。俺はライトの焦点を絞る。暗がりの中、視界に映し出されたのは――少女と同じくらいの――子供の横たわった姿だった。そして、その肌は、霜が降りたように白く、人間というよりは、精巧な氷細工のように見えた。


――HUDが自動でバイタルスキャンを開始する――


[スキャン記録:対象B(姉)] [バイタル:ゼロ(NONE)] [体表温度:-12.4℃] [推定死亡時刻:22時間前] [死因:低体温症(凍死)]


 データが、少女の証言を残酷に裏付ける。『-12.4℃』、その数値は、生物が存在していい温度ではない。俺は、何も言わずに静かにドアを閉めた。


「……あ……」

 背後で、絶望の吐息が漏れる。


(――これが現実だ――)


 俺は自分に言い聞かせた。GCAわれわれの介入が遅すぎたからか?――いや、違う。そもそも、彼女らが違法な火を焚かなければ――いや、それも違う。この状況を生んだのは、かつての超大国や中東の排出テロリスト共だ――思考が、GCAの教義と、目の前の『-12.4℃』という現実の間で、激しくショートし、火花を散らす。


「行くぞ!」

 俺は自分の戸惑いを振り払うかのように、少女の腕を掴み、割れた窓からマイナス47度の死地へと踏み出した。装甲車まで2ブロック。抵抗はない――少女は、ただ凍りついた人形のように俺に従うだけだった。


――突如、HUDが、少女の急激な体温低下を警告し始めた――


[警告:対象のバイタル低下を確認。推定生存時間 約5分] [警告:心停止のリスク増大]


(……このままでは、移送中に死ぬ。囚人の死亡は、任務ミッションの失敗を意味する……)


 俺は舌打ちをし、周囲に誰もいないことを確認した。しかし、当然だ。このブリザードの中、あらゆる生物が存在できるはずなどない。俺は腰のポーチから、『緊急用サーマル・ブランケット』を取り出した。これは、本来、俺自身が遭難した時に使うための代物だ。銀色のシートを広げ、作動ボタンを押す。化学反応による急速な発熱を確認してから、俺はそれを少女の全身に乱暴に巻き付けた。


[警告:執行官用アセットの私的流用]

 HUDに不快な赤文字が明滅する。構うものか。俺は警告ウィンドウを視線で払いのけた。


「……?」

 急速に伝わる熱に驚き、少女は薄く目を開け、俺のヘルメットのバイザーを見上げている。しかし、俺は何も言わず、少女を小脇に抱え、ブリザードの中を歩き始めた。


――外気温、マイナス47度。スーツ内温度、摂氏20度。数値上は完璧なコンディションのはずだった。

 しかし、その密室の中で、俺は初めて震えるほどのを感じていた――

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