第2話 違和感

 コールサイン『ゼロ・スリー』。それが俺の名だ。本名はとうに忘れたか、あるいは意味をなさなくなった。俺はGCA実行部隊、通称『CO2警察カーボンポリス』の執行官だ。俺の任務は、この星を絶対零度の死から守るため、汚染源――すなわち、違法なCO2排出を根絶すること。それだけだ。


 マイナス47度の暴風が、断熱装甲『ゼロエミッション・スーツ』の表面を叩く。だが、厚さ1センチの複合装甲に守られたスーツ内部は、常に『摂氏20度』という、完璧な温度に満ちていた。呼吸もまた、『パージ・マスク』によって完全に濾過され、肺に届く空気は無菌室のように清潔だ。俺にとって、この装甲一枚隔てた外の世界は、ただの『処理すべき汚染データ』でしかなかった。


 今夜のターゲットは、廃墟区画セクター・ガンマの熱源反応だ。探知ドローン『スニファー』が、廃ビル1階から基準値を超えるCO2濃度を検出。典型的な『違法燃焼イリーガル・バーン』だと断定できる。


 凍結した窓枠にブーツをかけ、体重を乗せて窓ガラスを破砕。氷の破片と共に室内へ飛び込むと、HUD(ヘッドアップディスプレイ)が即座に戦況を解析した。対象、廃材の焚き火。そして、熱源――マフラーに顔をうずめた少女が一人。視界の中では、アクティブCO2排出源違法な炎が赤黒くハイライトされ、無機質な警告音が鼓膜を打つ。


[警告:推定排出量 1.2kg/h。即時中和を推奨]


 俺は左腕に装備された『液体CO2噴射器ニュートラライザー』の安全装置を解除しながら、規定通りの警告を発した。

違法燃焼イリーガル・バーンを現行犯で確認。GCAの規律に基づき、身柄を拘束する!」


 少女は、小さな獣のように怯えた目で俺を見上げ、焚き火をかばうように後ずさった。その行為が、どれほど愚かで、どれほど『反社会的』なものであるか、彼女は理解していない。この火が、この星の寒冷化をさらに加速させ、メタン・ブローアウトを誘発し、全人類を破滅させる『引き金』の一部であることを。


 俺は淡々とニュートラライザーの照準を焚き火に合わせた。市民への直接噴射は、抵抗しない限り禁止されている。まずは規律マニュアルに従い、火を消す必要がある。


「やめて!」

 少女が、か細い声で叫んだ。

「それがないと、死んじゃう!」


排出コード088ゼロ・ダブルエイト。GCA法 第11条『生活燃焼の禁止』違反だ。お前も知っているはずだ。抵抗するな」

 俺は無感情に告げる。いつも通りの手順プロシージャだ。彼らはいつも同じことを言う。『生きるためだ』と。だが、その『個人の生』のために『人類全体の死』を早めていい理由にはならない。


「昨日、お姉ちゃんが凍え死んだの!」


 トリガーにかけていた人差し指が、ピクリと硬直した。


「寒くて……動かなくなっちゃった……だから、私だけでも暖かくしないとって……お願い、これだけは消さないで……!」

 少女の目から涙がこぼれたが、凍えた頬を伝う前に、白い粒になっていく。


[警告:執行官のバイタルに微細な乱れを検知]


 HUDの隅で、黄色い警告灯が瞬いた。心拍数、血圧、すべて正常値内だ。だというのに、俺の思考回路ロジックに、正体不明の『ノイズ』が混入している。


(姉が……死んだ?)

……それがどうした? GCAの教義に例外はない。そして、彼女は今、現に法を犯している。


「繰り返す。抵抗を停止せよ」

 俺は、湧き上がるノイズをねじ伏せるように、トリガーに力を込めた。だが、その時――


「……あなたは、寒くないの?」

 少女の問いが、密閉されたヘルメットの中で、スピーカーを介して響いた。

「あなたは、そんな鉄の鎧の中にいて、寒くないの……?」


――純粋な、疑問。その言葉を聞いた瞬間、スーツ内部の『完全な摂氏20度』が、急に不快な熱を持って肌にまとわりついたように感じた。しかし、俺はその不快感ノイズを即座に破棄デリートし、トリガーを引き絞った。


「プシュゥゥゥ!!」

 高圧の液体CO2が噴射され、小さな焚き火は一瞬で白い氷の塊に変わった。部屋の温度の絶望的な低下をHUDの温度計が示している。


 少女は、すべてを失った目で、白く凍りついた『焚き火』を見つめていた。もう抵抗する力も残っていないようだった。俺は、規定通り、少女に拘束用の手錠カフをかけるため、一歩踏み出した。


 ギュイー、と駆動装置サーボが唸る。一歩踏み出すたび、硬い霜がザクリと乾いた音を立てて砕け散った。俺はためらうことなく距離を詰め、少女の華奢な腕を、感情のない動作で掴み上げた――

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