いつもの追放もの
埴輪庭(はにわば)
いつもの
◆
「だから何度言ったらわかるんですか。依頼書には『午前中に集合』って書いてあるでしょう」
キャロルの声が薄汚れたギルド酒場の片隅で響いた。テーブルの向かいに座る三人の反応はそれぞれに救いがたいものであった。コジロウは頬杖をついたまま虚空を見つめ、ボアは二皿目のシチューを黙々と腹に収め、マリッサに至ってはテーブルに突っ伏して微動だにしない。いずれも人類の文明を支える勤労精神というものとは無縁の生き物どもである。
「聞いてますか、コジロウさん」
「聞いてる聞いてる」
聞いていない顔であった。コジロウは二十八という年齢にしては妙に疲れた目をした男で、その瞳の奥には深い虚無が澱んでいる。働きたくない。できれば一生働きたくない。しかし働かねば飢えて死ぬ。この冷厳たる事実だけが彼を冒険者稼業に縛り付けており、それ以外のいかなる動機も、野心も、夢も、彼の中には存在しなかった。
「午前中に出発して、夕方までに戻れば宿代が浮くんです。日帰りできる依頼なんですから」
「うん」
「うんじゃなくて」
「腹減った」
ボアが言った。三十三歳。身の丈六尺を優に超える巨躯の持ち主である。今しがた二皿目のシチューを平らげたばかりだというのにその発言には一片の衒いもなかった。この男にとって労働とは食事と食事の間に挟まる不愉快な空白時間に過ぎず、可能であれば一日中食べ続けていたいというのが偽らざる本音であった。
「ボアさん、さっき食べたばかりでしょう」
「うん。でも腹減った」
会話が成立しない。キャロルは天を仰いだ。齢十八にして、彼女はすでに悟りの境地に近いものを垣間見ている。世の中には話の通じない人間というものが存在し、そしてその全員が自分のパーティに集結しているのだという悲しい事実を。
「マリッサさん、マリッサさんは起きてください。せめて」
「……んぅ」
二十九歳の女神官はテーブルの木目に頬を押し付けたまま薄目を開けた。けだるげな、というより存在自体がけだるさの権化のような女である。神に仕える身でありながら、その信仰心は「ちゃんとした寝台で眠りたい」という極めて世俗的な欲求に支えられていた。彼女が朝の祈りを欠かさないのは敬虔さゆえではなく、祈っている間は目を閉じていられるからだという説が有力である。
「まだ朝じゃないの……」
「もう昼です」
「昼は朝の続き……」
一種の哲学であった──少なくともマリッサにとっては。キャロルは深い溜息をついた。もう何度目かわからない。この三人と行動を共にするようになって一年と少し。溜息の総量を積み上げれば、おそらく天まで届くだろう。
結局その日も、一行がギルドを出発したのは陽が傾き始めた頃であった。日帰り依頼は一泊依頼に変わり、宿代は消え、キャロルの胃壁は少しだけ薄くなった。しかし不思議なことに依頼そのものは滞りなく完了する。というより、いざ戦闘となれば三人の動きは別人のように研ぎ澄まされるのだ。コジロウの剣は敵の急所を正確に捉え、ボアの巨体は味方の盾となり、マリッサの回復魔法は常に最適のタイミングで発動した。
そのギャップがキャロルにはどうしても理解できなかった。
なぜこれほどの実力がありながら、彼らのギルドランクは中の下に留まっているのか。なぜこれほど息の合った連携ができるのに日常のあらゆる局面でだらしなさを極めているのか。何か深い事情があるのか、それとも単純に人間としてダメなだけなのか。
おそらく後者だろうなとキャロルは思っていたし、実際その推測は半分正しく、半分間違っていた。
そんな日々が季節を一つ跨いで続いた。
◆
「ランクが上がったぞ」
コジロウが気のない声で言った。ギルドの掲示板に貼り出された昇格者リストには確かに彼らのパーティ名が記されている。キャロルが加入してから、初めての昇格であった。
「やりましたね」
「うん」
「これで受けられる依頼の幅が広がりますよ」
「うん」
「報酬も上がります」
「うん」
「……嬉しくないんですか」
「いや、嬉しいよ。うん」
嬉しさの欠片も見当たらない顔であった。ボアは相変わらず何かを咀嚼しており、マリッサは壁に寄りかかって目を閉じている。誰一人として、昇格を喜ぶ気配がない。キャロルだけが一人で喜び、一人で興奮し、一人で明日への希望を語っていた。
それから数日後のことである。
「なあ、キャロル」
珍しくコジロウが自分から話を切り出した。宿の食堂、夕食の席である。ボアは黙々と食事を続け、マリッサは例によって船を漕いでいる。
「なんですか」
「お前さ、もっとマシなパーティ行った方がいいんじゃねえの」
その言葉の意味を理解するのに数秒を要した。理解してからも、キャロルは自分の耳を疑った。
「……は?」
「だからさ。俺たちといても、お前のためにならねえっていうか」
「何を言って」
「ランク上がったろ。お前の実力なら、もっと上のパーティでもやっていける。真面目だし、腕も確かだし。こんな掃き溜めみてえなところにいる必要ねえんだよ」
淡々とした口調であった。感情を削ぎ落とした、ただの事実確認のような言い方。それがかえってキャロルの胸を抉った。
「追放、ですか。私を」
「追放っていうか、まあ、卒業? 巣立ち? なんかそういう感じの」
「嫌です」
即答であった。コジロウは少し驚いたような顔をした。
「嫌って、お前な」
「嫌なものは嫌です」
「いやだからお前のためを思って」
「私のためを思うなら、そんなこと言わないでください」
キャロルの声が震えている。怒りなのか悲しみなのか、本人にもわからなかった。ただ、この三人から離れるという選択肢だけは絶対にあり得なかった。
「私にはここしかないんです。このパーティしか」
「そんなことねえだろ。お前なら引く手あまただって」
「違うんです。そういうことじゃなくて」
言葉が詰まった。過去の記憶が不意に蘇る。二年前の、あの日のことが。
◆
田舎の寒村にとある少女がいた。流れの老魔術師から才能があると言われた彼女はその魔術師に教えを乞うた。老魔術師もまたそれを受け入れる。彼もいい加減に流れ流れる生活にはうんざりしていた所であったからだ。
そうして数年後。少女は都会に出て、冒険者を志そうと決めた。
なぜ冒険者か?
生まれに関わらず、功を為せば名が成るからである。一攫千金も夢ではない──まあ、ほとんどの夢追い人が夢を叶える事なく散っていくのだが。
「よう、嬢ちゃん。冒険者志望かい」
登録を済ませたばかりのキャロルに声をかけてきたのは人の良さそうな笑顔を浮かべた中年の男であった。周りには数人の仲間がいて、皆それなりに装備を整えている。
「初心者なら俺たちと組まないか。この辺りの狩り場は危険だからな。経験者と一緒の方が安全だぜ」
疑う理由がなかった。世間知らずの村娘は差し出された手を素直に取った──それが蜘蛛の糸であることにも気づかず。
ケリガンの森。
初心者向けの狩り場として知られる街から最も近い樹海。実際、出現する魔物は弱く、新人冒険者の多くがここで経験を積む。しかしそれは同時に別の捕食者にとっても格好の狩り場であることを意味していた。
「さて、と」
森の奥深く、人気のない場所に着いた途端、男の顔つきが変わった。
「これ、どういう」
「わかんねえかな。わかんねえよな、田舎者には」
仲間たちの視線が獲物を見る目に変わっている。キャロルは自分が何に巻き込まれたのかを悟った。そして同時に抵抗する術がないことも。
「ま、おとなしくしてりゃ殺しはしねえよ。これからある場所につれていく。そこでお前さんが気に入られれば、お屋敷暮らしも夢じゃねえ」
下卑た笑い声が森に響いた。キャロルの体が震えた。
魔術を使おうにも恐怖で指先が動かない。
逃げようにも足が竦んで一歩も踏み出せない。
才能があると言われて育った。村には収まりきらないと言われた。だがこの瞬間、その才能は欠片も役に立たなかった。
男の手が伸びてきた、その時である。
「おい」
声がした。
無造作な、だるそうな声。振り向くと三人の人影が立っていた。
一人は剣を腰に佩いた細身の男──コジロウ。
一人は山のような巨躯の大男──ボア。
一人は神官服を纏った、眠そうな目をした女──マリッサ。
「なんだテメエら」
中年の男が舌打ちした。邪魔が入ったことへの苛立ちがその声に滲んでいる。
「いや、別に」
コジロウが欠伸混じりに言った。
「ただ通りかかっただけなんだけど。まあ、やめときな。それ」
「あ?」
「やめとけって言ってんの。面倒くせえから」
挑発でも威嚇でもなかった。ただ単純に面倒くさそうな顔をしている。
「てめえ、俺たちが誰だかわかって言ってんのか」
「知らね」
「俺たちの邪魔する奴は何人も殺してきた。素人が首突っ込む相手じゃねえんだよ。殺されたくなかったらすっこんでろ!」
「へえ」
コジロウは欠伸をした。本気で興味がなさそうであった。
「だからやめとけって」
「舐めやがって……」
男が剣を抜いた。仲間たちも武器を手にする。四人がかりで三人を囲む形になった。数の上では優位。初心者狩りを三年も続けてきた連中である。それなりの実力はあった。
「殺るぞ!」
男が叫んだ。四人が同時に動いた。
次の瞬間、何が起きたのかキャロルには理解できなかった。
気づいた時には四人のうち三人が地面に倒れていた。
血溜まりが落ち葉の上に広がっていく。残った一人、リーダー格の中年男だけが震えながら尻餅をついていた。
「な、なんだよ、お前ら、なんなんだよ」
「だから言ったろ。やめとけって」
コジロウの剣には血の一滴もついていなかった。いつの間に鞘から抜いたのかすら、キャロルは見ていない。
「な、なにもしない……もう何もしないから助けてくれぇ!」
男が這いずって逃げようとするが──
「ああ、もう何もできねえよ、お前は」
刃が閃き、男の首が胴から離れた。転がった頭部の目がまだ何かを訴えようとしていた。しかしそれも束の間、光を失って動かなくなる。
静寂が戻った。コジロウは剣を鞘に収め、何事もなかったかのように踵を返した。
「行くぞ、お前ら。宿代稼がねえと」
「腹減った」
「……眠い」
そうして三人はケリガンの森を去っていこうとした。その背中にキャロルは声をかけた。声が震えていた。
「あ、あの」
コジロウが振り返った。面倒くさそうな顔はそのままだったが視線だけは少し柔らかくなったように見えた。
「怪我、ねえな」
「は、はい」
「なら帰れ。街はあっちだ」
「あ、あの、お礼を」
「いらねえよ、そんなん」
「でも」
「いいから帰れって。俺らは忙しいんだ」
忙しいようには見えなかった。だが三人はそのまま森の奥へ消えていった。キャロルはその場にへたり込み、震えが止まるまで動けなかった。
そうして二年後。
◆
「あの時の三人を探してたんです。ずっと」
キャロルは宿の食堂で話を続けていた。あの日から二年。冒険者として独り立ちし、着実に実力をつけ、そしてようやく三人を見つけ出した。
「見つけた時、驚きました。あんなに強い人たちなのにランクが低くて。依頼をこなすペースも遅くて。なんでだろうって」
「……」
「でも、一緒に過ごすようになって、わかりました。みなさん、やる気がないだけなんですよね」
「悪かったな」
「褒めてないです」
キャロルは笑った。泣き笑いのような、妙な表情だった。
「でも、だから私がいなきゃダメなんだって思ったんです。私があれこれ手配して、私がお尻を叩いて、私がちゃんと依頼をこなせるようにしないと、この人たちはどんどん落ちぶれていくって」
「別に落ちぶれてねえけど」
「落ちぶれてます」
「……まあ、それは」
コジロウは言葉を濁した。否定できないことは本人もわかっているのだろう。
「私はこのパーティを出ていくつもりはありません。命を助けてもらった恩があります。それに皆さんのことが好きなんです。ダメなところも含めて」
「……」
沈黙が流れた。ボアは食事の手を止め、マリッサは目を開けている。珍しい光景であった。
「なあ、キャロル」
コジロウが言った。
「俺たちはさ、お前が思ってるほど、いい人間じゃねえんだよ」
「知ってます。だらしないし、やる気ないし、時間守らないし」
「そういうことじゃなくて」
コジロウの声が少し低くなった。
「俺たちは色々あって、もう人のために剣を振るうのが嫌になった連中なんだ。お前のことは助けたけど、あれだって、たまたま目の前にいたからってだけで。別にお前を救いたかったわけじゃねえ」
「でも、助けてくれました」
「結果的にはな」
「なら、それでいいじゃないですか」
キャロルは真っ直ぐにコジロウを見た。
「動機なんてどうでもいいんです。私にとっては皆さんが命の恩人で、一緒にいたい人たちで、それ以上でもそれ以下でもありません」
「……はあ」
コジロウは深い溜息をついた。降参の溜息であった。
「わかったよ。もう出ていけとは言わねえ。好きにしろ」
「ありがとうございます」
「礼を言うなよ。気持ち悪い」
「気持ち悪いはひどいです」
「うるせえ」
コジロウは乱暴に酒を煽った。ボアは食事を再開し、マリッサはまた目を閉じた。いつもの光景が戻ってきた。
キャロルはそれを眺めながら、微笑んでいた。
・
・
・
◆◆◆
古今、歴史とは巨大な織物である。
無数の血と鉄の糸で紡がれたその織目には、英雄と呼ばれる者たちの栄光が金糸として縫い込まれている。しかしその裏側には常に裏切りと悲劇という黒い糸も絡みついているものだ。
表から見れば華やかな錦も、裏返せば糸の結び目と玉留めが醜く連なっている──歴史とはそういうものであった。
ある時代、ある場所に魔王と呼ばれる存在が現れた。
大陸全土を恐怖の帷で覆わんとするその脅威は、人類にとって未曽有の災厄であった。国は滅び、民は逃げ惑い、文明は崩壊の瀬戸際に立たされた。しかし闇が深ければ深いほど、そこに射す光は強くなる。
魔王が現れるなら、勇者も現れるものだ。
そうして選ばれし勇者の周囲には磁石に吸い寄せられる砂鉄のごとく、傑出した才能が集った。
東方の島国より来たりし、神速の剣を振るう剣士。その太刀筋は目に見えず、相対した者は自分が斬られたことすら気づかぬまま絶命したという。
北方の山岳地帯が生んだ、鉄壁の守りを誇る巨躯の騎士。その盾は竜の炎すら弾き、その肉体はいかなる刃も通さなかった。
聖教国の奥の院より出でし、癒しと断罪の奇跡を操る聖女。その祈りは如何なる重傷も癒し、その裁きは悪を灰燼に帰した。
そして千の術式をその脳髄に刻んだ、稀代の大魔導士。その魔法は天変地異を操り、戦場の形を一変させた。
四大国の威信を背負い、人類最後の希望という重すぎる旗を掲げた五人の旅路は、吟遊詩人が好んで語るような牧歌的なものではなかった。それは肉を削ぎ、骨を砕き、精神を摩耗させる、泥濘のような死線の連続である。仲間は幾度も傷つき、幾度も死にかけ、それでも前に進み続けた。
そして、そんな極限の戦場において魂が共鳴することは珍しくない。
勇者と大魔導士の間に芽生えたそれを、人は愛と呼んだ。
明日をも知れぬ命のやり取りの中で、育まれたそれを残りの三人はそれを祝福した。あるいは羨んだのかもしれないが口には出さなかった。その絆だけが極限状態に置かれた彼らを人間たらしめる唯一の錨であったから。
魔王城での最終決戦。
激闘の果て、勝利は目前に迫っていた。だがその瞬間、魔王は最後の力を振り絞り、勇者に向けて必殺の一撃を放った。
躱せない。防げない。誰もがそう思った刹那、一つの影が勇者の前に躍り出た。大魔導士であった。彼女の体を貫く黒い光を、勇者は声も出せずに見つめていた。
「……ごめんね」
その言葉を最後に大魔導士は事切れた。
勇者の腕の中で、温かかった体が冷たくなっていく。
その瞳から光が消えていく。
勇者は泣いた。
そして泣きながら立ち上がった。彼女の死を薪として、心を鬼に変えて。
結句、魔王は討たれた。
世界は光を取り戻した。
民は歓喜し、国々は復興の槌音を響かせ始めた。英雄たちには惜しみない賛辞が贈られ、各国は競うようにして彼らを招いた。凱旋の行進は花びらで埋め尽くされ、人々は熱狂した。
とりわけ、勇者の出身国における熱狂は凄まじかった。
街という街に勇者の肖像が掲げられ、子供たちは勇者の名を冠した遊びに興じ、酒場では毎夜のように勇者を讃える歌が響いた。民衆は勇者の一挙手一投足に熱狂し、その言葉は王の勅令よりも重く受け止められた。
勇者が何かを語れば、翌日には国中がその話題で持ちきりになる。
勇者が訪れた店は聖地となり、勇者が褒めた職人は一夜にして名声を得た。
国王はそれを苦々しく眺めていた。
玉座に座る者にとって、自分を超える人気者の存在ほど耐えがたいものはない。民の歓心は王の正統性の源泉である。それが勇者に奪われていくのを王は日に日に募る焦燥とともに見つめていた。
祝宴の席で民が王ではなく勇者の杯を掲げる時、王の心には小さな棘が刺さった。凱旋行進で王の馬車よりも勇者の馬車に多くの歓声が飛んだ時、その棘は少しだけ深く食い込んだ。
側近たちは王の心の隙間を見逃さなかった。
「陛下、勇者殿の人気は危険な水準に達しております」
「民は勇者を王よりも敬愛しているようです」
「もし勇者が望めば、王位簒奪すら可能でしょう」
囁きは毒のように王の耳に注がれ、やがてその心を侵していった。魔王をも殺す力を持つ者はやがて王をも殺すだろう。いや、殺さずとも、その気になれば王を傀儡にすることなど造作もないのでは──
恐怖は論理を超越し、妄想は現実を塗り替える。
王の目はもはや勇者を英雄としては見ていなかった。
そして巧妙な計画が動き出した。
まず、流言が放たれた。勇者は魔王との戦いで密約を交わしたのではないか。大魔導士の死は本当に事故だったのか。
囁きは酒場から始まり、市場に広がり、やがて貴族の社交界にまで浸透した。最初は誰も信じなかった。だが繰り返し耳にするうちに人々の心に疑念の種が蒔かれていく。
次いで、王室お抱えの吟遊詩人たちが微妙に内容を変えた英雄譚を歌い始めた。
勇者の活躍は控えめに仲間たちの犠牲は誇張して。大魔導士がいかに勇者を庇って死んだかが繰り返し語られ、いつしか「勇者は仲間を犠牲にして生き延びた男」という印象が広まっていった。
新聞は王室の意向を受けて、勇者の些細な失言を針小棒大に報じた。
街の壁に貼られた勇者の肖像はいつの間にか剥がされ、代わりに王の威光を讃える絵画が掲げられた。
民衆の心は驚くほど簡単に操作できるものであった。
かつて熱狂的に勇者を支持した者たちが今度は同じ熱狂をもって勇者を糾弾し始めた。
「魔王との密約」の噂は「確定した事実」として語られるようになり、「大魔導士を見殺しにした卑怯者」というレッテルが勇者に貼られた。英雄を讃えた歌は禁じられ、代わりに勇者の裏切りを告発する戯曲が上演された。子供たちはもう勇者ごっこをしなくなった。あれほど賑わった勇者ゆかりの店は閑古鳥が鳴き、かつて勇者を褒め称えた者たちは口を噤んだ。
裁判は形式的なものであった。
勇者には弁明の機会すら与えられなかった。いや、与えられたとしても、彼は何も言わなかっただろう。愛する者を失い、信じていた民に裏切られ、その瞳にはもはや何の光も宿っていなかった。断頭台に引き出された時、群衆は歓声を上げた。かつて彼を英雄と呼んだ同じ口で、今度は売国奴と罵りながら。
刃が落ちた。
人類を救った英雄の首は塵芥のように転がった。王は満足げに頷き、民衆は正義が成されたと信じて喝采した。その夜、王城では盛大な祝宴が開かれた。誰もが勇者の処刑を祝い、王への忠誠を誓った。
残された三人がそれを知ったのは全てが終わった後であった。
◆
慟哭があった。
悲嘆があった。
そしてそれらはやがて冷徹な殺意へと結晶していった。
四大国は怒りで激震し、勇者の処刑を行った国が一夜にして地図上から消滅した。
城は崩れ、街は焼かれ、民は逃げる間もなく滅んだ。プロパガンダに踊らされて処刑に喝采を送った者も、口を噤んで見て見ぬふりをした者も、王座で高笑いしていた王も、等しく塵と化した。その国があった場所には、今は瓦礫の山と死の静寂だけが残されている。
復讐は成った。
だがそこに救いはなかった。カタルシスもなかった。あるのは守るべきものも信じるべきものも失った、空虚な残骸としての自分たちだけ。仲間を見殺しにした世界への怒りは消えず、しかしこれ以上何かを壊す気力もない。彼らはただ、疲れ果てていた。
三人は姿を消した。
栄光も、名誉も、名前さえも捨てて──歴史の表舞台から完全に退場した彼らが、その後どこへ流れ着いたのかを知る者はいない。
(了)
いつもの追放もの 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03
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