第六章 なぜ月神は消されたのか

 なぜ、日本神話は月神を無力化したのか。

 ここからは推論になるが、記紀編纂の政治的背景を考えれば、一つの仮説が浮かび上がる。


■スサノオの系譜


 スサノオの子孫は、オオクニヌシである。

 オオクニヌシは葦原中国——地上世界——を治めた偉大な王だが、最終的に天孫に国を譲る。いわゆる「国譲り」である。

 記紀神話の政治的構図は、こうである——


  アマテラス系(伊勢)=天孫族=大和朝廷=現在の支配者

  スサノオ系(出雲)=国津神=先住勢力=国を譲った者


 この構図において、スサノオに「月神」という巨大な役割を与えることは、政治的に望ましくない。

 月は太陽と対をなす。アマテラスが太陽なら、月神は同格の存在になってしまう。

 国を譲ったはずのスサノオ系が、太陽と並ぶ月を支配している——これでは天孫の優位が揺らいでしまう。


■意図的な無力化


 おそらく、記紀の編纂者たちは意図的にツクヨミを無力化した。

 月神という名前だけを与え、実質的な機能は剥奪する。

 夜の支配権を与えるが、その領域はスサノオの根の国と重なるようにしておく。

 こうすることで、スサノオが実質的に月神の機能を持っていても、形式上は「月神」という称号を持たない。

 スサノオに「海原」を与えたのも、同じ意図ではないか。

 海にはすでに綿津見神をはじめとする神々がいる。スサノオに与えられた「海原」は、最初から空席ではなかった。これは「形式上の役割」を与えて「無用の神」とするための操作ではなかったか。


■抑えきれなかった物語


 しかし、スサノオの物語はあまりに強かった。

 八俣大蛇退治。櫛名田比売との結婚。出雲の開拓。根の国の王。

 スサノオは、アマテラスと並ぶか、あるいは凌駕する英雄神として、人々の記憶に刻まれていた。

 記紀の編纂者たちは、スサノオから「月神」の称号を剥奪することには成功した。しかし、月神の機能まで剥奪することはできなかった。

 夜と冥界の支配、食物神殺害、農業サイクルとの関連——これらの物語は、スサノオとその系譜に残り続けた。

 藤原不比等の采配だったのか。

 それとも、スサノオの物語があまりに強く、天孫の物語に「ミーム」として勝ってしまったのか。

 それは分からない。

 しかし結果として、日本神話には奇妙な構造が生まれた。

 名前だけの月神と、機能だけの月神。

 ツクヨミという抜け殻と、スサノオという実体。

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