第三章 月は死んで蘇る
世界の神話には、月の満ち欠けを説明する物語が必ずある。なぜ月は太り、痩せ、消え、また現れるのか。この問いに答えない神話体系は、ほとんど存在しない。
■満ち欠けの神話
アフリカのバントゥ族には、こんな神話がある。
「はじめ、人間は不死だった。月が欠けるとき人間は痩せ、月が満ちるとき人間は太った。月とともに人間は死に、月とともに蘇った」
月の周期的な死と再生は、人間の不死性の根拠だった。しかし、ある出来事によって人間は不死性を失う。月だけが死と再生を繰り返し、人間は一度死んだら戻らなくなった。
北欧神話では、月神マーニは狼ハティに追われている。日食や月食は、狼が月を捕らえかけた瞬間だと説明された。そしてラグナロク——神々の黄昏——の日、狼はついに月を飲み込む。
ギリシャ神話では、月女神セレネは毎夜天空を渡る。彼女の光の満ち欠けは、エンディミオンへの愛に関連づけられることもある。
宗教学者ミルチャ・エリアーデは、月の象徴性についてこう述べている。
「多くの民族の神話や儀礼において、月は死と魂の再生に関係する。規則的に満ち欠けする月が死と再生の象徴となったのは、きわめて自然なことである。地上から見れば、月は絶えず死に、そして蘇る、変化し続ける星なのだ」
太陽は毎日同じ姿で昇り、沈む。しかし月は違う。月は姿を変える。太り、痩せ、消え、また現れる。この劇的な変化こそが、死と再生の最も身近な象徴となった。
■バナナ型神話
月と死の関係を語る神話群に、「バナナ型」と呼ばれるものがある。フレイザーが命名したこの神話類型は、東南アジアからアフリカまで広く分布している。
インドネシアのトラジャ族には、こんな話が伝わる。
「はじめ、天と地は近かった。神は縄で食べ物を降ろした。ある日、神は石を降ろした。最初の男と女は叫んだ。『これは石だ、他のものをくれ』。神は石を引き上げ、代わりにバナナを降ろした。二人は走り寄ってバナナを食べた。すると天から声がした。『おまえたちが石を選んでいれば、命は石のように永遠だった。しかしバナナを選んだので、おまえたちの命はバナナのようになる』」
バナナは実をつけると枯れる。しかし、その根から新しい芽が出て、次の世代が育つ。人間は石のような永遠の命を選ばず、バナナのような一代限りの命を選んだ——だから死ぬが、子を残せる。
バントゥ族の神話では、この選択と月が結びつく。
「はじめ人間は不死だった。月が欠けるとき人間は痩せ、月が満ちるとき人間は太った。やがて人間は増えすぎた。最初の人間の息子が父に尋ねた。『どうしましょう』。父は『放っておけ』と答えた。しかし、最初の人間の兄弟が言った。『人間をバナナのように死なせよ。そうすれば子孫を残せる』。冥府の主は兄弟の意見を採った。だから人間はバナナのように死ななければならない」
ここでは、月の満ち欠けと人間の死が直接結びついている。月は死んでも蘇るが、人間はそうではなくなった——という説明である。
日本にも、バナナ型神話は存在する。ニニギが美しいコノハナサクヤヒメを選び、醜いイワナガヒメを返した話である。オオヤマツミは嘆いて言った——イワナガヒメを娶れば命は岩のように永遠だったのに、コノハナサクヤヒメだけを選んだから、天孫の命は花のように儚くなる、と。
石と花。永遠と短命。構造はトラジャ族の神話と同じである。
しかし、日本のこの神話は月と結びついていない。天孫降臨——ニニギの物語として語られている。バナナ型神話は存在するのに、月との接続が失われているのだ。
■日本の不在
日本神話には、月の満ち欠けを説明する物語がない。
月と死の関係を語る神話もない。
バナナ型の不死喪失神話も、月と結びついていない。
しかし、痕跡はある。
万葉集には「月読の持てるをち水」という表現がある。「をち水」とは若返りの水、不老の霊水である。ツクヨミが若返りの水を持っているという信仰が、奈良時代にはあったのだ。
しかし、この信仰を説明する神話がない。
なぜツクヨミは若返りの水を持っているのか。どうやって手に入れたのか。その水はどのような物語と結びついているのか——何も語られていない。
世界中で語られている「月と不死」「月と死」「月の満ち欠け」の神話が、日本には存在しない。
信仰の痕跡だけが、孤児のように残されている。
◇ ◇ ◇
【第四章 沈黙するツクヨミ】
古事記と日本書紀において、ツクヨミはどのように描かれているか。テキストを丁寧に追ってみよう。
■誕生
古事記では、イザナギが禊をした際、右目を洗うと「月読命」が生まれたとある。
日本書紀本文では、イザナギとイザナミが「月神」を生んだとあり、「月弓尊」「月夜見尊」「月読尊」など異名が併記される。
名前の解釈としては、「月を読む」つまり月の満ち欠けを読んで暦を司る神、という説が有力である。
しかし、ツクヨミが実際に暦を読む場面は、記紀のどこにも存在しない。
■役割の付与
イザナギはツクヨミに「夜之食国(よるのをすくに)」を与える。
「夜之食国」とは何か。「夜を食す国(食す/をす=統べる)」とも「夜の食つ国」とも読めるが、いずれにせよ夜の世界、闇の領域である。
ここで注目すべきは、アマテラスには「天」が、スサノオには「海」が与えられているのに対し、ツクヨミに与えられたのは「月」ではなく「夜」だということである。
世界の月神は「月」そのものを支配する。月の運行、月の暦、月の潮汐——月という天体に関わるすべてを司る。
しかしツクヨミが与えられたのは「夜」という時間帯だけである。月の天体としての機能は、どこか別の場所に行ってしまっている。
■唯一の活躍
日本書紀の一書に、ツクヨミの唯一の活躍が記されている。
アマテラスは保食神のもとにツクヨミを遣わした。保食神はツクヨミをもてなすため、口から米や魚や獣を吐き出して食事を作った。ツクヨミは穢らわしいと怒り、保食神を剣で斬り殺した。
アマテラスはこれを聞いて激怒し、「汝は悪しき神なり、見たくない」と言って、ツクヨミと日夜離れて住むようになった——
これが、ツクヨミの唯一の物語である。
しかし、古事記ではこの話がスサノオの物語として語られている。スサノオがオオゲツヒメを殺し、その死体から五穀が生まれるという、ハイヌウェレ型の食物起源神話である。
つまり、ツクヨミの唯一の神話は、スサノオ神話の異本なのである。
■神社の実態
ツクヨミを祀る神社は、日本にはほとんどない。
最も有名なのは壱岐の月讀神社だが、その実態は興味深い。
壱岐の月讀神社は、延喜式にも記載される古社である。しかし、近世の地誌を調べると、この神社がかつて「山の神」を祀っていたことが分かる。延宝四年(一六七六年)の記録には「山神」と記されており、ツクヨミとの同一視は後世の付会と見られる。
ツクヨミは、神話の中でも、信仰の現場でも、存在感が薄い。
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