満州での七年にわたる人生紀行

@1927morgan

満州での七年にわたる人生紀行


チャムスで結婚 幸せな生活が一転 ソ連軍の侵攻により逃避行へ


満州の北端東安から牡丹江~ハルビン~チチハル~新京~奉天~鞍山

安東~白翎島~仁川~ソウル~釜山~佐世保へ一年四ヵ月かけて帰還



石 井 公 美ひろみ  著



《 目次 》


満州から日本への帰還ルート


石井公美の手記 満州での生活から逃避行


続編 帰国後瀬戸田で過ごした七年間


編集後記 








故郷瀬戸田から嫁ぎ先 満州のチャムスへ

夫は関東軍除隊後 満州電話電報会社勤め


私 公美が満州の石井さかえのもとへ嫁いで行ったのは昭和十四年栄おーが二十五歳、私が二十三歳の時でした。栄は当時満州で関東軍を除隊の後、放送電話電報会社の満州電電に入社し、チャムス(桂木斯)ラジオ営業所の庶務課に勤めていました。チャムスへ向けて立つ前に、瀬戸田では両親の永井英一、カズを初めとする親戚縁者を招いて主人の居ない仮祝言を済ませ、昭和十四年十月六日、お舅の石井栄作さん、お姑のキセさんに連れられて満州へ旅立ちました。九州の門司までしか旅行をしたことのない私にはチャムスまでは長い一大旅行でした。

まず朝鮮に渡って上三棒まで行き、池田快三さんに会いました。その人は姑の甥で舅が横浜に住んでいた頃、中学に通わせるなど世話をしたそうです。丸通の上三棒支店長をしていて、ここで二泊させてもらいました。舅、姑を信じ成すが儘に付いてきましたが、私は余程疲れていたのか一昼夜眠り続けていたようです。快三さんの家に泊った後に三日ほどかけてチャムスに着きました。

到着後日を置かずラジオ、電話、電報三局合同の挙式として祝って戴きました。タイカロンというチャムスで一番大きなファンディアン(料理店)で挙げたのですが、余りに盛大でしたので不思議な感覚であったことを今もよく覚えています。局から「祝いは家具か、それとも結婚式の費用のどちらにするか」と言われたので式の費用を選びました。

披露宴では、チャイナドレスがとても綺麗な女給さん四十~五十人がもてなしてくれました。私も高島田に髪を結い、紋付と訪問着に着替えて臨みました。大きい丸テーブルが五十~六十並び、支那料理が次々と大きな皿で運ばれて色とりどりに変わる盛大な披露宴でした。私はこんなにも盛大にして頂いたことが不思議に思ったほどでした。

残念なことに、この結婚式の写真は残っていません。というのも、私たちが住むアパートの並びにあった写真館が程なく火事になり、撮った写真が全て消失したのです。あれは真夜中のことでした。ザワザワと人々の騒ぎが聞こえ、なんと二百㍍先から十三軒の家屋が燃える大火なのです。写真館も全焼しましたので、遂に披露宴の写真を見ることは出来ませんでした、縁がなかったのでしょう。せめて二人だけでもと丸髷(まるまげ)を結って写真を撮り直して済ませました。それが唯一の記念写真となってしまいました。

一週間ほどして両親は帰国しました。その後は局の同僚が毎日のように入れ替わり立ち替わり来ます。何かご馳走しなければと思い、招くたびに小豆で羊羹を作り切らさぬようにしました。たまには持ち帰ってもらうこともありました。缶詰をたくさん買い置き困らぬようにしていましたので、皆さんも楽しみにしてよく来てくれました。そのなかに五十嵐さんと町田さんという若い人がいました。町田さんは日本本土から来たばかりで行く所も無いのでよく来られ、オーバーを着たまま転げて炬燵に入り、眠ることがしばしば。背の高い丸顔の眼の大きい色白のお坊ちゃんでした。

暫くして子供を身ごもり、両親がまた来られましたが、独身の人が多く相手をしてくれる年寄りも居らず退屈な毎日だったようです。当地の中国人は、子供が出来るとお祝いに卵をプレゼントします。私たちも三十~四十人の方から、なんと三百個もいただきました。玉子が沢山で使いきれません。そこで姑がカステラを作りみなさんに振る舞いました。玉子六個を使い砂糖、メリケン粉を同じ目方で捏ねて(こねて)一日寝かせてカステラ風に仕上げて持てなしましたが、姑は料理が得意な人でした。余程美味しかったのでしょうか、幾度も来ては食していきました。しかし、そのうち町田さんは兵隊に取られていきました。 



日本から両親が来るなど幸せな満州での生活


その後、引っ越して家も変わりました。姑は買い物が好きでしたし、舅もそれなりに楽しんでいましたが、姑は無理をよく言う人で舅を困らせていたように見受けられました。十五年十一月でした、急に産気づき、夜道を舅と主人が日赤の婦長さんを二時間駆けて呼びに行ってくれたのですが、出産に間に合わず姑が介護してくれ無事出産できました。生まれてきた紀子(のりこ)は栄の実母(住吉ミネ)に良く似ているとのことでした。

お年寄りには喜んでもらい幸せそうな毎日でしたが、ここチャムスは寒いし寺も無く、子供は小さいので笑ってくれない。春を迎え退屈になってしまい「早く帰りたい」と言いはじめました。帰国に備え、タアチヨウ(人力車)で、毎日買い物に町へ出かけ、持ち帰れぬ程お土産を買い集めました。珍しいものがあれば次から次へ、財布が空になるまで買うことを止めませんでした。両親は一年余り居て安心して帰っていきました。子供ができたことで私は仕立など縫い物を始め、主人は家庭を中心にして幸せそうで、紀子は「人形のような綺麗な娘」とよく言われ、「トンビが鷹を産んだ」とか言われたものです。でも、紀子は身体が弱くよく発熱したり、赤痢アメーバになったりで、背中から降ろすとよく泣く子でした。



金の不祥事相次ぐ 自身も反省 「潔癖でありたい」と誓う


林芙美子さんが慰問団として来ていた頃でしたが、所長の小川さん、山本さんたち四人と支那博打に行き、主人たち三人が会社の金を一人千円ほど遣い込みました。返済の為に行ったラジオの販売で主人は満洲で首席を取り、払い終わり罪は許されました。他の方たちは牡丹江へ行くか、それとも辞めるかを迫られ、結局牡丹江局の経理課に行きました。その牡丹江局では使い込みが多く、大変なことになっていたようです。

主人はラジオ販売の後始末に行くことになり外部から一人が来ました。その人も女の子二人持ちでしたが、その後どさくさの誤魔化しを全部明らかにされたので懲戒免職を受けました。気の毒にと思ったものです。

牡丹江局の経理でも十三人の使い込みが明らかになりました。主人はこの整理に行ったのですが、牡丹江局の十三人は親子供を抱えている人たちなので、月々差し引くことで片をつけることにしました。主人は「悪い事したとはいえ十三人を助けるかどうかと、頭を悩ませた。金には懲りた。自分自身もお金のことには潔癖でありたい」とかたく誓っていました。

一件が片づいた後、主人はアナウンサーになることになりました。そのためアナウンサー講習を新京の本局に行く前、長女出産から二年後の昭和十七年八月三日に日赤で次女の公子(ひろこ)をお産、三千五百㌘でした。目がくりくりとした父親似の子でした。私は紀子を抱えていて少し無理をしたことから腰を悪くし、産後の肥立ちも悪く足が立たなくなり、主人には無理をさせてしまいました。




舅、前日の夢に 死んで手を振って別れる


昭和十八年二月十五日、この日は栄作舅が死んだ日の前日にあたります。その夜夢を見ました。氷上に舅栄作が死んでいるのです。台車に乗せて連れ帰り、タライで洗って汽車に乗せたら手を振りつつ行ったという夢でした。その翌日に「チチシス」の電報がありました。主人はひどく落胆していたので一家皆で帰国しました。

話は前後しますが、亡くなる前年の十七年春頃の舅は、下痢がひどいという知らせがあり看護のため帰国しました。薬はゲンノショウコと甘草を毎日煎じて飲ませました。住居は便所が遠くにあり、途中で落としてしまうので洗い物がたくさん出ます。毎日、海が満ち潮時に崖までひと抱えの汚物を洗いに行きます。粕酒が飲みたいとのことでしたが、下痢をしているので皆反対します。そのような時、私は隠れて粕酒を作ってコップ一杯を毎日上げると、下痢が止まったのです。舅の栄作はアメリカ行路の事務長でしたので、何時も朝からお肉を食していたとか。腹に丸い物が有ると言っていましたので、今思えばガンだったのでしょう。舅は身体が大きく姑も持て余し、姪の秀子さんのお世話になったようです。大きい人だから無理もないです。お腹には公子がいて瀬戸田でお産をするように勧められましたが、まだ二~三ヵ月あるので満洲に帰りました。


アナウンサーに転身 ソ連国境 東安放送局に転勤


アナウンサーの講習も済みました。主人の一年先輩に森繁久弥さんがNHKから派遣されており、一年後には芦田伸介さんが入局しました。十八年頃ですが、慰問団として来ていたリコーラン(季香蘭こと山口淑子)を中にして局の屋上で記念写真を撮りました。その写真については、昭和二十八年にRCC(中国放送)の開局記念のために求められ渡したので今は手元にはありません。

それから間もなくして、主人は東安州密山県東安の東安放送局に課長として転勤しました。金子満男さんという方が未だ居られたので、暫く同居の後、程なくして新京へ転勤されました。東安という北の果ての地はその昔、馬賊の根拠地で怖い所だったとか、畑にするために土を掘ると人骨や靴底がたくさん出土ました。

辺地である東安にも慰問団がよく来ました。ソ連との国境を守る兵士を慰労するのですが、既に関東軍の多くの兵力は南方や沖縄へ送り出されたとかで半減しています。このため、私の知る人をはじめ、民間人を急遽招集し訓練ののち兵隊に仕立て上げるなどの応急処置をしていたようです。

大東亜戦が始まり、荒涼としていた東安も整備され随分様子が変わったそうです。紀子、公子の二人の子供を抱えた私たち四人家族は新しく出来た社宅に入りました。満州のお百性に解いた着物一反を持って行くと鶏二羽と交換でき、その鶏がよく卵を産んでくれます。寒くなれば板張りにして中に入れて世話をしました。その頃、鶏ペストが流行り多くの鶏が死んでしまいました。「空気伝染だがニンニクが効く」と聞き擦って飲ませたところ、口から泡を吹きながらも元気になり、その効き目には驚くばかりでした。中国ではニンニクで体力を付けるらしく、臭うのですがこれに勝る薬は無いと思ったものです。



満州の冬 五月まで野菜無く 工夫して凌ぐ


満州では、冬の野菜は解氷する五月頃まで何も有りませんので前もって買い貯蔵します。ゴホウ、ネギ、ニンジン、ジャガ、キャべツ、カボチャ、大根、白菜などの野菜は秋の終わりに開拓団の人たちが馬車を十台位連ねて来ます。そのような時、例えば「どの馬車のカボチャが美味しいか」は、「後ろの馬車の馬がかじれば美味しい」と観ていました。皆が一度に大量に買うので大変な量の買い物になります。開拓団が来た時に買わなければ、買うチャンスを逃してしまうのです。その野菜は五月まで持たせます。およそ二百円の買い物になります。それらの野菜は多くを漬物にしたりして上手に蓄えます。買い物して冬を越すので、その資金捻出のために主人は大切なトルコ帽子を二百円で売ったこともあります。その頃はよく主人にも手伝ってもらいました。

結婚して以来終戦までひと月も欠かさず親に送金ができたことが、せめてもの功徳と思い慰められます。毎月五十円送金していましたが、内地では普通の人のお手当てだとか。郷里の瀬戸田では親に良くすると言われたそうです。このような親孝行が出来たのが心の安らぎです。当り前がなかなかできないものですが、お陰で私も親にした延長ができたと感謝しています。だけどお嫁に行き、これほど親に心配をかけるとは夢にも思いませんでした、済まなく思います。字を書くことが不得手なので思うことも伝えられず心配を掛けてしまいました。 

住まいは新築の社宅に移りました。局とは二百㍍離れた場所にあり、放送局を中心として山の上に固まるように建っていて坊さん住宅と言われ、その東の方の住宅に入りました。長女の紀子もよく外へ出るようになり、団地の西の端には同じような子供さんがいたので遊びに行っていました。探しに行き、「持っていった移植ゴテは」と聞くと、まだ三才に満たないのに、ちゃんと探し持ち帰る子でした。また二才にならない頃から、食事はスプーンを使い一粒のご飯も漏らさず上手に使う子でした。こんなに小さくても、いろんなことができて感心したものです。



高射砲に必要とダイヤモンドを軍に拠出


昭和十九年の初め、関東軍が「高射砲に付けるのにダイヤモンドが要るから出せ」と私たちの所へお達しがあり、六軒のうち三軒が出しました。私も姑に貰ったダイヤをお国の為に役立つのであればと出しました。拠出した指輪はダイヤだけ抜き取ってリングに二十二円を付けて返してきました。その返してくれたリングは、敗戦のどさくさで何処へいったのか判らないままです。後々の昭和二十年代後半のこと、広島市の五日市(当時は佐伯郡)に住んでいた頃、住まいの近く海老山の上に住む兵隊帰りの人がダイヤを数多く持っていると聞きました。ひょっとしたら、私たちが拠出したダイヤモンドの一つだったかもと疑ってしまいます。ダイヤは船と共に近海に沈んだことになっていますが、誰にも分からないことです。



金時のような男子誕生 三人の子供を授かる


次女公子誕生から二年後の昭和十九年四月十七日には長男栄一を出産。四千㌘と大きく産まれて難産でした。朝から産気付き局長の奥さんに朝から夕方まで足を摩ってもらうなど良くして頂きました。県病院から婦長さんに来てもらいました。病院が遠く主人の仕事に差しつかえるので家でお産をしたのですが、何かと足手まといになってしまいました。そのうえお乳は足りず、ボーイさんに毎日町へ牛乳を買いに行ってもらったり、隣の奥さんから貰い乳したりしました。身体はぐんぐん大きくなり、足柄山の金時のように育ちました。お乳を与えても、これで足りたという事はなかったのです。主人は初めての男の子なので大いに喜んでくれました。


十九年春から戦況悪化 国境の街 東安は緊迫


五月頃になると、雪も溶けてようやく春めいてきて暮らしやすくなります。田んぼの枯れ草の中からタンポポの新芽が吹いていました。籠を持ちナイフで、タンポポの新芽を摘んで食材にします。冬場の食膳を賑わす青い物と言えるのは、暮れに貯蔵したネギを水に漬けて新芽を出して使うくらいのもので、タンポポの新芽は新鮮です。寒い冬は豚のモモと餅を出窓で凍らせておいて使います。

満州の人は大きい瓶にゆでた白菜を畳んで外で凍らせておき、剥がしながら使うのです。野菜が無くなり地元の農家に買いに行くと、畑の中に人が立って入れるほどの深い穴を掘っています。梯子で下りると、何でも蓄えているのに驚きました。何でも大切に使う、生き物の命を無駄にしないなど見習うことが多々ありました。

春になると主人はよく池に鮒釣りに行って、餌が無くてもよく釣れると言って持ち帰りました。焼いたり、干して味噌汁の出汁に使ったりするなど食膳を賑わします。雷魚という怖い魚がいて、夜になって蛙を食べに陸に上がってくるのを捉えて持ち帰ることもあります。飛びついて噛む怖い魚で、鰻より大きいのですが食べる気にもなりません。長閑(のどか)に過ごしているようでしたが、戦況は日々悪くなり、国境にある東安は情勢が緊迫してきて不安な気持ちになりました。



内地やアメリカの放送などに耳を傾け人々は無口に

関東軍は家族を逸早く帰国させる 敗戦を覚悟


戦局はいよいよ悪くなってきて局から離れることが多くなり、タンスの上に電話を置き何時でも使えるようにマイクと電話を繋ないで待機していました。戦況が激しさを増した昭和二十年春も終わりの頃、日本本土への米軍機による爆撃が一層激化。私たちは社宅に短波受信機を置いて、アメリカからの放送を聞きました。夜十一時になると放送が入ります。その内容は「明朝何時に大阪方面を爆撃しますから、この放送をお聞きの方は避難して下さい」。一方で、日本本土からは「敵機二機四国方面より進入せり」など様々な放送電波が入ってきます。遠くアメリカからの放送を聞いていることが知られると大変なので音を小さくして聞いていました。人々も徐々に無口になってきました。

関東軍は民衆が動揺するからと内々家族を日本へ帰していると聞き、「これは負け戦」と判り耳を塞ぎました。主人も「どうするか、子供を連れて先に帰るか」と言われましたが、私は「死ぬ時は何時何処で死のうが悔いることはない」と強がって言いました。それでも六月頃になると月日の流れは足早になってきて帰国する時が近づきました、苦難の帰国です。皆さん一様に「帰国の心構えをしなくては」と身の引き締まる思いになってきました。今までのように事態は甘くはありません。

まず足に合う痛まない靴を探すことから始めました。紀子の靴はバンドの付いた女学生のようなしっかりした靴を二十円位らいで買って来てくれました。それは黒い靴でこれなら大丈夫と有り難く思いました。この靴があったお陰でしょう。小さいながら長い道中をよく着いて歩いてくれました。人にもお世話にならず一人で日本まで歩いて帰ることができました。公子にも合う靴を買いましたが、公子は四才足らずですから道中を主人が背負い行脚することにしました。

今は夏であっても、寒くなる冬の事もよく考えておかないと無事には日本に帰れません。道中家が無いのです、野宿なのです。冬が来ても、やっていけるように身支度をとの思いで準備に力を入れました。兎毛(うのけ)シウバと言われるオーバーコートや毛の防寒靴では役に立ちません。まだ幼い栄一には冬が来ると何が要るか、どうすればよいかと考え、男物の絣(かすり)は生地が堅いのでこれを利用しました。これで綿入りのオーバーコートを繕ったほか、紀子と公子にも二枚取れました。ほかに子供の頭を守るために帽子も必要であり、黒で綿を入れて襞(ひだ)の有る防空帽子と同じ物を作りました。食べ物もカンパンとお米、ビスケツトのような長持ちする食べ物とか、直ぐに間に合う物を集めました。お米を入れる為に晒(さらし)を出し袋も作りました。その場になれば焦って困ってしまうのに、日頃から心掛けていないとこんな時に慌ててしまいます。暢気な私も気が引き締まってきました。主人も気を揉みます。我ながら困った性格だと持て余し気味です。それでも気を引き締めて支度をしました。不安とは思うが怖い感じはありませんでした。

七月半ばのこと、隣の小川さんではご主人が兵隊に取られ見送りました。敗戦濃厚のなか、残していく家族のことがどんなに気掛かりであったことか。小さい男の子が居ましたし、奥さんは身体が弱そうで、大抵のことはご主人がして上げていました。ビアノをするので手を傷めぬように気を付けていたようですし、良く気を失うので雪の上に置くと、気が付くと言っていました。ご主人が兵隊に取られていく後ろ姿は哀れで、夫婦親子は永久に会い見ることのなきか、と振り返り涙を拭き拭き行く姿が思い浮かびます。この世の別れと思ったのでしょう。哀れで見ておれませんでした。



ソ連侵攻  マイクを取った瞬間に電気切れ

避難を促す放送 開拓民には知らされず


放送局では関東軍の許しが出なければ放送ができないのです。その都度局長が放送内容を持って憲兵隊まで出向くことになっています。ソ連に盗聴されることを嫌った処置が仇になりました。その日は昭和二十年八月九日、日ソ中立条約は、ソ連が一方的に破棄し宣戦布告した日。放送局長より「夜明けにソ連の飛行機が満州国の首都新京を爆撃した」と電話がありました。「今から憲兵隊に行って来る」と言って出ましたので、主人は直ぐ局に出て待機しました。

局長の帰りが午前七時四十五分頃、主人が許しを得てマイクを取った瞬間に電気が切れました。ソ連の爆撃機が発電所に爆弾を投下して停電したのです。「ソ連の侵攻、日本国民の待避」を放送することができなくなり、各方面への連絡を絶たれました。憲兵隊がそれぞれ連絡に走ったようでしたが、広大な面積です。辺地の開拓団の大方は行き渡らぬままでした。女子供ばかり取り残されたのです。言葉に言い尽くせぬ悲惨な状態になったのです。もし放送が出来ていれば、対応が少しでも早ければ救えたのにと思うと胸の詰まる思いです。また開拓団の人は捨て石になってしまいました。いつも犠牲になるのは農民です。



関東軍 開拓団など見捨て戦わず牡丹江へ引く

ソ連軍 直ぐさまが多方面から侵攻し切迫する


関東軍は「防衛はとても無理、守り切れない」とのことで牡丹江へ引き揚げるといいます。それは名目、早くから「牡丹江で防衛」と決めていたと聞いています。関東軍は戦わずして牡丹江に引きました。開拓団をはじめ民間人を見捨てて退却したのです。私たちには頼れるものはもう何もありません。直ぐさまソ連が多方面から侵攻してきました。戦車が近くに迫っているとの知らせの中、私がしているところを見た主人が「そんなことをしている暇は無い」と怒ります。そのような中、放送局を敵の手に渡してはならないということで、主人たちは放送機材を壊して火を付けてから飛行場に行くことにしました。主人の身が案じられました。「汽車に乗れるのは女子供だけ男は乗れない」ということなので覚悟を決めます。男は飛行場に集まり歩くことになったため、何処の家族も皆ばらばらになってしまいました。

北満の冬は、マイナス四十五度には下がり、私たちはそのような極寒の地で生きる術を身に付けてなく、食物を取らずして野外の寒さに耐えることはできません。凍傷になるのは確実です。人の助けがあれば日本へ帰られる望みもあれども、そうでなければ不可能なこと、この世に何も頼りになるものは無いのが現実です。仏のお導きを信じて家を後にした私たちであり気持ちを引き締めました。


「日本人であることを忘れたことはない」 何故見捨てたか

着られるだけ着せリュック担ぎ避難 東安駅へ急ぐ


皆の家が女子供だけとなり、北満の果てに身寄りも無く、頼って生きる術も無い。ただ日本に向かって一歩でも近づくことよりほかに生きる道がない。北満に投げ出された人達は運を天に任せ、成すが儘の身になったけれど、日本人であることを忘れたことはない、何故見捨てたか―。

事態はいよいよ切迫。慌てて中に着られるだけの物を着せます。下には協和服といって、満州国に勤めている人が制服としている草色の背広、それを裏返して何枚も重ね着し、上にモンペを着て隠しました。暑いとは感じない、襟の形で上下の差が分かる。カンパンや冬物の着物等をリュックサックに入れて、鍵を掛けて外に出ます。鶏は満州の人が拾ってくれるから心配ないと思い、小屋から出して放し駅へ急ぎました。途中でボーイさんが「鶏が玉子を産んでいた」とザルにご飯と玉子を炊いて追い掛けてくれる有難い人もいました。



北の黒竜江方面の空が真っ赤に 関東軍は引き揚げたはずなのに


リユックサックの上に栄一を乗せるも、二才に満たないながら大きくて重たい子供でした。紀子が公子の手を持ちゾロゾロと急がず行列の仲間に入ります。私たちが住む山の上から東安駅までは遠く、その道のりには長々と行列が続きました。もう日が傾いてきて心細くなるものの、試練の旅になると覚悟しました。気が張っているので不安は感じませんでした。

だんだんと暗くなってきて、北の黒竜江方面は空が真赤になって打ち合う砲弾の火の粉で、空は真昼のように明るくなっていました。関東軍は引き揚げて居ないはずなのに、ソ連軍と戦っているのは何処の部隊であろうか。もう居ないはずなのに戦う軍隊があるということに心強く感じました。駅へ着いた頃は暗くなっていました。そこでは、男の人の居ない列は後回しになり、男が居ればどんどん汽車に乗せるという理不尽なことが起きていました。夜中の三時三十分頃は男の居ないグループだけになっていました。男であるということが、これほど力のあることかと、女とは哀れな者と思い知りましたが、汽車は未だ出ていませんでした。


放送局の機材壊し火を付けて家族の居る東安駅へ


主人たちは放送局の機械を壊した後、火を付けて家に帰り、子供が冬に必要とする物などまとめ、リュックに入れて駅へ出てきました。お産をした婦人が居て、ご主人が社宅に居る人を忘れていたと、病院から舞い戻ってきたそうです。我が主人は、その車が山の上に迎えに来たので、その車の後ろに掴まって駅に出て来ました。その一行の中には県病院の辻先生や病院の関係者、患者さんたちも居ました。辻先生は栄一が生まれた後、私が疫痢に罹り、子供も居るし主人も局の仕事があるので、入院せず自宅療養した折、毎日山の上まで通って下さり、トリアノンという薬で直してくださった方です。



東安駅最終列車は松花江の橋撃破され脱線転覆

関東軍支援の満州軍は戦場へ向かい戦い続ける

   

あれこれしているうちに、病院関係者は八十人以上と一杯になりました。主人がこれら遅れてきた人たちを中へ入れてくれるように頼みました。放送局の家族と病院関係者全員が乗ることができ、午前三時四十分頃に出ました。その後五時頃に出た汽車は、松花江の鉄橋をソ連機が爆破したので、汽車は松花江へ突っ込んだと聞きました。

私たちを守るはずの関東軍は逸早く牡丹江まで退いたはずなのに、そして私たちが乗る汽車は南へ皆どんどん逃げているのに、その列車は関東軍の支援軍である満州軍を満載して次々と北へ向かうのです。真赤な空を見て来ただけに、「あの人達は防衛の為に北に向かう尊い人達である」と知ると頭が下がりました。親や子も有る人、死地へ行くのかと思うと、たまらなく耐えられない気持ちでした。



汽車は牡丹江へ向けひた走り ソ連機が汽車目がけ爆弾投下


汽車は牡丹江へ向けてひた走り。その後もソ連機は追跡してきて、爆弾を汽車目がけて投下してきます。七回は爆撃を受けたでしょうか、ソ連機のパイロットの顔が見えるほど接近して銃撃してきました。銃弾や破片が汽車の中へ飛び込んできます。私は子供を伏せ毛布を掛けて身を縮めていました。

ケイネイ(鶏寧)では街も爆撃を受けて煙が上がり、駅も爆撃を受けて人がミミズのように倒れて苦しんでいました。汽車はケイネイを過ぎ走っている時、またソ連機の襲撃に会いました。私の前の女性が子供を抱いた儘で死んでいました。流れ玉が当たったらしいのです。もう一人の母親は、爆撃の度に子供を必死に抱き絞めたため、窒息死させてしまいました。私のお尻に敷いていたリュックとモンペは、焼けて穴が開いていました。汽車は一目散に山あいから長いトンネルに入り、ソ連機はそれで諦めたのか、追ってこないので皆は一息つきました。誰かが「ここからはもう追って来ないだろう」と言い、皆一様に安堵しました。皆同じだったのか、急に喉が渇いて水が欲しくなったので、汽車を止めて男の人達が田圃の水を汲みに行き、皆も貰って喉の渇きを潤すなど髄分と助けあいました。



ソ連機攻撃で死亡の母親傍に子供を 片やお産、悲喜交え


そのようなかで、母親が死んで残された子供を看護婦さんが「子供だけでも連れて行く」と言いましたが、「最後まで責任は取れないから親の側に付けて残しておいたほうが善い」と先生方に言われ、汽車から降ろしました。また、お腹の大きい奥さんは、陣痛が始まり列車の中でお産をしました。子供を抱いて、何が起きていようが我関せずとばかり、無上の喜びに浸っていました。そのような喜びの反面、汽車から母親と一緒に降ろされた子供が気に掛かります。その後どうなったのだろうか、と残留孤児の放送をテレビで観てはその子ではないかと探します。

暫く汽車は走り、ようやく牡丹江へ着きましたが、長く汽車に乗り続けたせいで足がおぼつかないし、腰が弱っているので困りました。このため、主人が様々世話をしてくれました。ようやく紀子、公子、栄一を連れプラットホームに出ましたが、牡丹江駅は各方面から乗り換えの為、ごった返していました。鶏を入れた大きい箱まで持ち出し、プラットホームは布切れや羽などゴミが蓄積してフワフワ、まるで布団の上を歩くような感覚です。どれだけの多くの人が此処を通り過ぎ、去っていったことか。塵と化した人もいるでしょう。私たちもその一部になりつつあるのかも知れません。何故と疑問を感じ、日本人は何をしてきたか振り返ると、果たして恥じないことが出来ているのか聞きたくなります。私たちは義の為にと信じて励みました。それがなんという事でしょうか、ご破算の結果が出ました。



牡丹江に滞在するも ソ連軍迫り追われるように奉天へ


牡丹江には一週間滞在しました。ここで東安から一所に来た人達とは別々の行動となります。私たちは、満州電信電話会社の社宅でお世話になりました。小幡さんは汽車での逃避行中死んだ我が子を背負ってきて、牡丹江電信電話局で線香をたいて弔ってきたと言っていました。また、私たちがお世話になった家の主人は、出発に先立って、ラジオをはじめ家の物一切を持ち出し庭石に投げて壊していました。敵方に渡したくなかったのでしょう。地元のお世話になった人に上げることもできたでしょうが、時間が迫っていたから仕方ありません。

その滞在中にもソ連機が四機で来ては次々と急降下して電信電話局へ爆弾を投下していきます。煙がモクモクと立ち上がり火事になりました。私たちはその家の防空濠から頭だけ出して見ていました。敵機が来ると分かっていながら何時までもここに居るのかと思っていたところ、憲兵をしている弟の永井一公(かずきみ)から局に電話があったそうです。「ソ連の戦車が既に牡丹江の近くまで来ている、汽車に乗せるから直ぐ駅へ来い」とのこと。急ぎ人力車を雇い、東安から一緒に来た人達には荷物は捨てさせ駅に向かいました。しかし、駅付近は既に蟻の巣をひっくり返したよう。乗車できる人数の何百倍もの人で地獄の有り様でした。身動きもできず、駅にも近づくこともできません。汽車の線路上では馬車も動けず立ち往生。一行には石井さんという婦人がいて、ご主人は兵隊に取られ子供を五~六人ほど連れていました。ところがこの石井さんは、東安に帰ると言い出してここで別れました。「主人が帰って来ると会われなくなる」というのです。説得する暇もありませんでした。

牡丹江の駅は蒙古、北満、チャムス方面からのターミナルで、南方面への乗り換え地です。ですから牡丹江の人を含めて牡丹江駅に人々が殺到し、誰もが考えられない事態になっているのです。後は天命を待つのみです。私たちも駅へ抜ける道を探し線路伝い行くしかないと考えました。「ついて来る人はついてこい」と言い、汽車の線路を横飛びに駅に出ました。しかしプラットホームに上がることもできないほど上は人で溢れています。そこへ救いの手が現われました。長い剣を付け長靴を履いた、一公が私たちを探し当てて来てくれました。この雑踏で探し当てるのは奇跡に近いものでした。なんとか乗れる場所はないかと、行ったり来たりして探してくれ、一つ貨車を見付けました。少し余裕があったようで、なんとかそこを開けて乗り込みました。一公が剣を振り「詰めろ、詰めろ」と言ったら奥へ半分位に詰まりました。その貨車に乗っていたのは満鉄に勤めている家族でした。満鉄の職員は終戦後も暫く現地に残り、引き揚げ者の為に列車を動かせてくれた有り難い人たちで、列車に乗っていたのはその家族です。

お互いに助け合い汽車の中は、飲み物を通路に持ち込み皆座ることができました。外の人達は汽車にもぶれ、「開けろ、開けろ」と騒ぎます。ドアを開けた途端に洪水のように流れ込んで来たので、私も外へ撥ね飛ばされそうになり、とうとう栄一を汽車の下に落とし、ようやく拾い上げて扉の中に入れることができたのですが、泥まみれにしてしまいました。それぐらいで済んだのは幸運でした。汽車の屋根にも乗る人がいて、汽車が走る最中にドサッと音がしたので多分ころげ落ちたのでしょう。一公は山に入ると言っていましたが、その後ソ連軍に捕まりシベリアのカラカンダで強制労働の後、日本に帰還しました。



奉天駅で朝鮮人から敗戦を知らされる


汽車は昼前発車しハルピン(哈爾浜)を通過し、さらに北方のチチハルまで遠回りして新京に着きました。新京で降りることにしていましたが、ソ連軍の戦車が来たと報せが入り、汽車はそのまま奉天へひた走りしました。奉天駅では汽車から下りても、プラットホームは立つ隙間も無いほどで身動き出来ないのです。そのようなところに朝鮮の人が来て、「ヤーイ、ヤーイ、日本負けた」と叫んでいました。皆は「そのようなことはない、信じない」という顔をしていましたけど、原爆が広島に落とされて、天皇の勅語があったと聞くと皆泣いていました。その日は八月十五日頃だったのでしょう。日本人は全てを無くし夢遊病者の集まりのようです。日本人の尊厳もない哀れな姿、生きる価値、自尊心をもなくし哀れで仕方ありませんでした。

奉天はソ連軍に占拠されました。私たちはゾロゾロと皆に付いて行き、平和大通りの引き揚げ寮に入りました。そこは街の真ん中で、気の抜けたような人達の集まりでした。街ではふわふわと流れ歩き、気が引き締まるところがありません。ここからは、皆ばらばらに引揚げ寮に入りました。殆ど知らない人ばかりでした。板張りで横になる程の隙間もない部屋に大勢の人が詰めました。不安な日々が続き目標も無く、ただソ連兵が何時来るかと、脅えながら受け身で時が過ぎました。隣に小高い塀の簡素な別荘のような家が在りましたが、その塀を乗り越えトカゲかヤモリと間違えるような、あるいは蜘蛛助のような格好で入ってきます。それはにわか仕立てのソ連兵でした。悪いことと知りながらだから見苦しい恥知らずな姿でした。

隣に居た人と話をするうちに、二歳くらいの坊ちゃんの下痢が止まらず両親が傍で手を握り泣いておられました。肛門が開き下痢が流れ止まらない状態でした。目も虚ろになり、もう駄目だと思っていたようです。私はお灸をすれば治るかと思い、線香ともぐさを探しましたが有りません。ショウトル市場へ探しに行くことにしましたが、ルボー(流氓、ならず者)の集まりで出来た市場で、日本人と分かると危険だとのことで支那人に化けることから考えました。主人に紺の布団の裏布を外して綿を入れた支那服を作りました。それを着せると旨く支那人に化けたのです。それでもショウトル市場へ行くのは不安でしたが仕方ありません。市場に行けば無い物がなく、下駄の片チンまで並べていたそうです。もぐさと線香を買って来ました。早速、臍(へそ)の上に塩を一㌢ほどの厚さにしてガーゼで包んで置き、その上にもぐさを炊くのです。熱く赤くなると止めることを繰り返すうちに、肛門が閉じ下痢が止まりました。両親には涙を流して感謝されましたが、その後のことはどさくさで分かりません。そろそろ寒くなってきました。布団は綿を薄くして持ち歩き、その後は綿を剝いでは肌に付けて、中に着ていた服を売りながら食い繋ぎました。



ソ連兵が女やお金あさる 何度も何度も

繰り返し浅ましく醜い鬼畜の姿を見る


ソ連兵のことを敢えて「ロスケ」(露助、ロシア人の蔑称)と呼びます。お金や女を漁(あさ)りに来てはピストルを掲げて脅し、皆を並べて座らせて「荷物を前に置け、お金を出せ」と責めます。皆財布を出して、有り金を出して渡していましたが、ピストルを目の前に突き付け「まだ有るだろう」と責めるので皆怯えていました。私の前に来たので財布を開け逆さにして振って見せると、「まだ有るだろう」と荷物の中に手を入れます。何でも新聞紙に包み入れてあるので、荷物の中が気になるようです。片手に持てないほどの大きなピストルを放さず、一つずつ取り出し歯でかじり破るのです。その姿はあさましく醜い鬼畜の姿でした。負けた国に対しての態度は、その国の人間性がよく出ます。また、ロスケは女を選り取り見取りに漁り、綺麗な女を選び自慢そうに連れ歩いていました。言うことを聞かないで指を切られた中国の娘もいたと聞きました。

女の人達は長くお風呂に入れなかったのですが、五、六人で風呂に入っていたところ、そこに来て連れて行ったそうです。中には裸の儘、側にある押入れの布団の中へもぐり込み助かった人もいたそうです。翌朝、変り果てて泣き泣き白い支那服を着せられて戻って来ました。そのため夫婦別れした人も多くいました。その後も「女を出せ、金を出せ」と催促して来ました。犠牲になって出ていってくれる人もいましたが、それだけでは収まりません。度々来ては大きなビストルを持ちながら、皆を並べて座らせ、荷物を前に置かせ開けて大切な新聞に包んだ物を取り出し強奪していきます。手が不自由なのでピストルを口に咥えて放さず漁るのです。「あれがソ連の魂か」と感心しながら、恥を感じない屑であり、救いようのない人達です。

ここは各方面から来た人で蒸し返るよう。食物倉庫は抑えられ、コーリャン(モロコシ)程度のものはもらいましたが、食べ物は僅か。夏をここで過ごせば病気しないのが不思議なくらい参っていました。そのような困窮した避難民からの掠奪は組織として、あるいは個人的にしていたようです。その後、私たちはソ連の憲兵が護衛する所へ移されました。相変わらず、大きなピストルを持ってドタ靴で扉を蹴破り、金や女を漁りに来ました。このため、女の子は頭を剃って男装し、いざという時は押入から天井に上がって逃げました。私は子供を抱えて腹を大きく突き出して見せて困っている風をして難を逃れました。



ソ連軍が占拠 シベリア行きの列から逃亡


真夏も盛りを過ぎる八月も終わり、終戦から二週間を経た頃です。私たちが住まいとする二階の下の大通りでは、鉄砲を担いだソ連の監視兵に囲まれ剣で脅された二十人位の人達が砂煙を揚げてバタバタと走って行く姿がありました。広い一本筋の道を遠く見えなくなるまで見送りました。なかには黄色の衣のお坊さんもいました。足が悪く杖をついている人、また奥さんらしき人も離れまいと夢中で小走りにすがりついて行く姿も見えました。西の端では弾薬庫がもうもうと燃え天を覆うばかりの煙です。ソ連兵が左右から監視しながらの行列でしたが、皆追われるが如く急ぎ足でした。ソ連による日本人の男狩りが始まったのです。奉天での日本人刈りの名目は、日本の兵隊が逃げた代わりだと理屈を付けていました。二千人を目途にしているそうです。

あの人達は、少しでも逃げる素振りがあれば銃殺されたと聞きました。連れて行かれ死んだ人は、この世に何も証明を残せず無念だったに違いありません。無念さをこの世に伝えることも出来ないまま魂が彷徨(さまよ)っています。ソ連はたくさんの迷える魂を持ち帰ったことでしょう。人間の魂を持たぬ永久に救われない国。しかし、全てのソ連人の魂が救われることを願うばかりです。

 翻って日本が中国にしてきたことはどうであったでしょうか。昭和十一年に始まる満州事変から二十年の敗戦まで、日本が一方的な侵略者であり中国に計り知れない惨禍を与えた加害者であったのです。十一年の撫順平頂山地区での住民大量虐殺。軍隊ばかりか、民間人でも徒党を組み中国奥地に入り込み殺戮や強奪をしています。戦争とは、人の魂を醜く変えてしまうものです。

一端呼び出したら兵役であろうがなかろうが、かき集めた日本人は一切帰さず連れ去りました。それは大変な行列で、二千人との名目でしたが、それを遙かに超える人数だったのではないでしょうか。捕虜としてシベリア行きの貨物に乗せて送り込まれました。食事も与えず氷体ミイラにして勝ち戦の印にするのかと見えました。逃げることも叶わぬ哀れな日本人でした。

主人にも呼び出しがあり、そんな事とは知らず真面目に伍長と書いたので、その場で捕まりました。逃げれば撃ち殺すべく銃を構えて囲まれ、網を抜けて逃げることが無理になり、とうとう行列に入れられ連れて行かれました。この時、主人は「手紙を家族に残したい」と言って断り、列から離れてしゃがみ込んで手紙を書く恰好をして少しずつ離れ、列が通り過ぎるのを待ち逃げ帰りました。その後は名前を長井と変えて潜り込みましたが、このままでは危険ですので奉天を出ることにしました。



ソ連の銃撃で牡丹江駅 新京駅も死人の山 治安のよい鞍山へ脱出


ソ連兵は街中であろうが人前であろうが、人の見る前でもお構いなしに年寄りも母も娘もひとまとめに痛めつけます。目当ては金と女だけでした。奉天の大広場で人込みの中でのこと、石段に腰掛けたソ連兵が下を向き寝た真似をして油断させ、素知らぬ顔でするのです。街で群集の中で狙う物は、大切そうに袋をぶらさげて気の抜けたような女を狙い、下からもぎ取って腹の中へ抱え込む。取られた人は相手がピストルを持っているものだから地団駄を踏むだけです。

後で聞いたのですが牡丹江の駅では、ソ連機、戦車などの機関銃射撃で駅だけでも八百人位死んだと。新京駅も眼を覆うばかりで累々とした死人の山だったとか。新京神社の横へ大きな穴を掘り葬ったそうです。

ここ奉天で皆さんとの消息が切れ、知る人が居なくなりなりました。奉天にこのまま居るのは危険です。そこで鞍山はまだ治安が良いと聞いていましたので、急ぎ移動することにしました。東安に居た頃、電報局長の娘さんをアナウンサーとして使っていたことがあったので、その筋を頼りに鞍山の電報局長の渡辺さんのお宅へ電話しましたら、ここだけは電話が通じていました。「日本軍が最後まで居た所だっただけにまだ静かだ」と言われます。「早く来い、郵便貨車が出るのでその汽車に乗って来るように」とのこと。その汽車に連結された郵便貨車は背が高く乗りにくい貨車でした。



ソ連軍が汽車止め女あさり 次はならず者の車両に乗り金品を


鞍山への途中でソ連兵がリョウヨウ(遼陽)で三時間程列車を止めました。そして待っている時にソ連兵が入って来て、ピストルを振りかざし「女を出せ」と迫ります。周囲に居る人の見る目が私の方にそれとはなく集まり、主人は「何とか金で済ませて」と言って頼んでいましたが、ついに私の所に来ます。主人が急いで私に麦藁帽子を被せ囲んで人の中に紛れ込ませました。ソ連兵は、私の横に居て頭を丸坊主にして、白いケープを掛けた赤子を抱いていた女性を連れて行きました。その人は営口市で石鹸会社を営んでいたそうです。

そのような騒動のなか、皆さんは列車から飛び降りて逃げました。その後荷物を取りに行きましたら、何も無くなっていました。先ほど連れて行かれた婦人のお母さんでしょうか、あるいは姑さんでしょうか、白いケープを着せた赤ちゃんを抱いて、行ったり来たりして途方に暮れていました。

汽車は動かないし、乗せてもらう積もりで運転席へ行くと日本人が運転していました。「ここに乗ると、突き落とすから乗るな」と言ったので、乗れる場所は無いかと尋ねると「後ろの方へ行ってみろ」とのこと。後ろに行くと、窓から「乗せてやる」と手招きする人が居ますので、荷物や子供、主人や私を窓から入れてもらいましたが、列車の中はルボー(流氓)で溢れていました。そして網棚の上からノッソノッソと男が下りて来ました。発言権があるとみえました。乗せてくれた満州の人がその網棚から来た人をターレン(大人)と言っていました。ターレンとは、中国では一番上の人とか、立派な人物を言います。ここでは親分でしょうか。色々と話合っていたようでしたが、汽車の中は大騒ぎで、リュックサックや中の物の取り合いっこをしているのです。まるで野球の応援で手を揚げて騒いでいる有り様でした。

果ては主人を窓から突き落とせとか言って騒いでいるのです。主人は顔色をなくしていました。乗せてくれた地元の人が手で制していました。そして、「タイタイ(太太、奥さま)をくれ」とか、「子供をくれ」とか言いながら子供のポケットや靴の先に隠しているお金は見つけて取られてしまいました。どうしても「子供をくれ」と何度も言い、「子供はやれないから子供二人に着せていた、絣(かすり)の綿入オーバーをやる」と言ったら、「子供が寒いから要らない」と言いました。主人が曲がりなりにも話をしていました。

そうこうしているうちに、日暮れに鞍山に着きました。まず主人が降り、子供を次々と降ろして私の番になりました。私を窓から出した途端に放さないのです。隠す所が無いので、お金をパンツの真ん中に縫い込んでいたのを掴んだから放さないのです。体は既に窓際に出ていましたので、もがいて飛び降りました。私たちだけではありません。大男の日本人が全てを剥ぎ取られパンツ一枚で凍え震えながら消えて行きました。褌(ふんどし)のひもにお金をより糸に仕込み入れていても見付けて取られる有り様です。

私たち家族が脱出した奉天では、その後コレラが流行り汽車はストップしたそうです。主人は新京の会社ではお金が支給されるから行くと言いましたが、一歩でも早く日本に近づくことを選び進みました。これほど満州の民が日本に敵意を持っていたとは、もし行っていたら恐らく主人は今ここに居ないし、私たちもこうして日本に帰ってくることは叶わなかったとつくづく思うのです。薄暗くなり東風が吹き寒々とした鞍山駅で列車を下りて、社宅に着くと「もう少し早く来れば良いのに」と温かく迎えてもらい人心地つきました。それは九月初めの頃です。



鞍山の満州電電寮で暫く暮らし餅作り売る


鞍山はまだ何事もないように平静を保っていました。敗戦の実感を未だ味合わぬ人達が多くいると聞きます。しかし、冬ともなれば昼間でもマイナス四十五度にはなり、暖房無しで生きることはできません。鼻水は氷柱となり多くの人は凍え死ぬといい、しかも、凍死しているのは物資が乏しく寒さに慣れない日本人だけでした。以前は中国人がその有り様でした。他国の人の悲しみを如何に思い償うのか、胸に手をおいて問うのです。

次の日に鞍山の満州電電会社の独身寮に入れてもらいました。そこは広場に石炭が山積みしていて社宅は広く、その周囲は鉄条網が張り巡らされていてルボー(流氓)が入れないようにしていました。でも私たちが居る窓の下の庭には「何かないか」と地元民がよく来ました。

ここは古くから鉄が産出され製鉄所がありました。また、露天堀の石炭も出る所で石炭はたくさん有るし、小さい窓から頼むと何でも持って来てくれます。餅米と小豆、砂糖などを注文し、若者に頼まれてお餅を作ることにしました。たくさん石炭は有るし達磨ストーブもある、不自由なくお餅も作り続けることができました。若者は街へ買いに行っているけれど、「貴方の餅は大きくて安いから」と喜ばれます。毎日のように作りますが足りないくらいでした。独身の人達にも喜ばれ、お陰で子供達も何とか冬を過ごすことが出来ました。

鞍山放送局の放送課長の坂本荘という方に鍋、ヤカン、まな板、包丁、お茶碗、箸に至るまで届けて下さり有り難いことでした。その坂本さんに毛の冬外套を主人が預かり持ち帰りました。「六百円で売ってくれるように」と頼まれたのです。人に聞いても「六百円は高いから五百円に負けろ」と言われ、相手がルボー(流氓)だから油断が出来ない、これ以上は無理と思い五百円で手を打ったそうですが、主人は頼まれた値段で売れなかったことが悔しく不機嫌で帰ってきました。

仕方なく私がお金を届けに谷向こうの社宅まで持って行きましたが、麻雀に行って留守なのでお金を持って帰りました。ところが途中、危険を感じてお金をズボンのポケットから出して懐に入れたところをルボーに観られたのです。ルボーが自転車で「チャチャガヤガヤ」言いながら追いかけてきて挟み撃ちにされました。逃げ場を失い鉄条網の方へ逃げましたが、不思議なことに、そこに小さい頭が入る位の穴が開いていました。とても私が通れるような穴とは思われない、頭がようやく通るぐらいだったのですが、逃げ場に窮したら思わぬことをするものです。あの小さい穴をどうやって抜けられたのか今でも不思議です。その穴に頭を入れてもがいたら肩が引っかかりながらも抜けました。社宅に逃げ込み助けを求めて二階まで上がりましたが、どの家も扉を堅く閉ざして静まり返っていました。小窓から「下に降りておいで」と言ってくれる人がいて台所から入れてもらいました。その人は大きな人で色々と訊かれました。「このまま帰るには危ない、未だ電信柱の下に居るから、暫く待って送ってあげる」と。時間が経ってもう大丈夫ということで、仕込み杖を持って近くまで送って下さいました。

地元の悪い人に睨まれると家の周囲にたむろされます。中から戸を開けるのを何日でも待って、開けた途端に手を掛けて雪崩のように入ってきて乱暴をされると聞いています。また、谷の向こうに低い山があり、その頂に日本人が建てたというお寺がありましたが、見ているうちにあっという間に無くなってしまいました。日本の敗戦で無秩序ぶりを示すひとコマです。板の一枚まで剥ぎ取り担いで山を下りる姿はまるで蟻の行列で、山を飾っていたお寺は瞬く間に山の頂から消えてしまいました。この地のオンドル(温突)という暖房装置にくべる焚きつけになったことでしよう。次に奪うものが無くなれば何をされるか。日本人は追い詰められて行く所がありません。全てを剥ぎ取らなければ収らないのではと思いました。



中国は八路軍と中国国民党による国共内戦新段階に

鞍山の支配者は目まぐるしく変わる 奉天はソ連軍の支配下に


中国は日本の敗戦、武装解除によって八路軍(中国共産党軍、東北人民解放軍)と中国国民党の国共内戦が新段階に入っていました。元々、八路軍と関東軍は交戦状態でした。奉天では侵攻したソ連軍の支配下になりましたが、鞍山は関東軍退去の後、八路、国民党が入れ替わり立ち替わりで、支配者が目まぐるしく変わりました。私たちが入って暫く、九月初めになり八路軍が入り治めることになり、放送局の名称は「電台」になりました。放送局に勤めていた人達は皆辞めさせられましたが、主人だけは東安から来たということで只一人残りました。鞍山には山本さんもいました。この方はチャムスの時に営業所に居たと思います。

坂本荘さんは鞍山局の課長さんで色々お世話になった方ですが、国民党の工作員ということで捕らえられました。小さな部屋の牢に十人ほどで入れられ、丸い鉄の分銅に鎖で繋がれていました。山本さんと主人が電台長に頼み、命乞いや差し入れをしてようやく叶って放されました。その坂本壮さんは日本へ帰り、民間の日本放送であると思いますが、初代の局長になっていました。主人から書類を見せてもらいましたので、生きて帰ることができたようでした。山本さんは国民党が近くまで来たので日本への帰還の拠点となっていたコロ島(葫芦島市)回りで帰りました。



八路軍と共に行動 軍紀がしっかり 人を敬う姿に共感


私たちは九月末から八路軍と共に行動し、陸軍飛行学校があった白城市に入りました。宿舎には寝具は勿論、暖房も有りませんでした。そこは新聞紙を造る所だったので、その晩は新聞紙を被って寝ましたが、紙とはとても温かい物だと思ったものです。八路軍と行動を共にするうち白城市で観たものは、黒い支那服を着て後ろ手に縄で縛られて行く何人もの人でした。そのうち、山のむこうでパンパンとピストルの音がしました。山の凹地で撃ったそうです。撃ち殺された人達は国民党の工作隊だったのでしょうか。ですが八路軍は軍紀がしっかりして爽やかで大らかで、こだわりのない人達でした。小さな物でも盗むと民衆裁判に掛け、首かせを掛け晒物にすると聞いています。これを八路軍では「吊し上げに合う」と言います。ですから悪いことはしなくなり明るくなりました。

アメリカから兵力の支援を受けている国民党には敵いません。八路軍は専らゲリラ戦法です。国民党は、先々で追い掛けて来る前に工作隊を入れ、次に迫撃砲で撃ってくるのです。八路軍は農民の家に二、三日居ては転々と移動する逃亡を繰り返していました。行動を共にした八路軍は北満方面の人達が多く土地勘があるから、国民党が攻めてきても山あいを縫って次の村、次の村へ転々としました。逃げる戦略に長けていたようです。去る時はその都度、農家などに迷惑を掛けた費用を置いていくのです。「民衆には絶対に迷惑を掛けない、民衆の味方」をスローガンとして行動していたので信頼され味方になります。しかし、民衆は八路軍が入ってくると八路軍の旗を振って歓迎し、国民党が入ってくるなら国民党の旗を振ります。それが国民性になっているので慣れていました。命を永らえるコツ、長い歴史がさせたようです。国民党と八路軍は対立と協力を繰り返してきた経緯があります。国共内戦は革命の旗を揚げた八路軍が国民の支持を得て勝利し中華人民共和国を建国します。

私は番茶を枕にして持ち歩いていましたので、出して飲ませましたら大変喜ばれました。満州の人はお茶が好きでしたので置いていくことにしました。お豆腐は、すり鉢のような器に作ります。こんな山奥で豆腐、味噌、醤油などに会うとは思ってもみませんでした。多分、中国が先ではないかと思われます。うどんは手の親指と人指し指にはめた金具で作ります。真ん中に突き出た穴があり、指にはめてメリケン粉を団子にして丸めて手の中に掴み、手を絞る度に指の又から金具の穴を通してうどんが飛び出す仕組みで、なかなか面白いです。外は寒くて青い物など無いのに何処から採ってきたのか、アカシアの新芽のような物を採ってきて鍋へ、絞り込んだうどんと豆腐とお味噌を入れて、そのアカシアの葉のようなものを浮かせた鍋物は、とても美味しくご馳走でした。朝起きるとタイタイ(奥様)が食事を作っていましたが、大丼に山盛りのコーリャンと昨日の残りのお汁物に山盛りの生ネギにお味噌を付け、青いところも食べるのにはビックリ、真似が出来ません。次の家は、虱(シラミ)が多く毛糸の襟首にびっしり白い卵が付くようになりました。何処の家にも虱が居ました。



日本人を見たことないと村中から見物に

日露戦争の名残り ロシアが敷いた線路も


次の村は丘の上で、日本人を観たことがないといって、入口から裏口まで村じゅうの人が見物に来ました。日露戦争の時、弾の残骸が落ちて来たと見せてもらいました。槍の先の様な形をした五十㌢くらいの筒で先が尖っています。尖っていなければお花入れになりそうな鉄の筒でした。その近くの藪の中には昔、日露戦の前にロシアが敷いた線路があるとのこと、なごりが残っていると言っていました。卵を産むからと紀子のリュックに背負ってきた鶏をくれと言うので、そこで降ろしました。

国民党に追われて馬車を乗り継ぎ次の集落に着きました。そこは鉱山で鉛か何か取れて、山は至る所に窓のような穴が開いており、深い谷底には人間が蟻のように小さく見えます。河砂を桶のような物に入れて頭に乗せた格好で行ったり来たり、蟻の行列を見ているようでした。仕事場の土間にアンペラを敷き、そこへ座らせてもらいました。幼児を連れていた桜井さんは「日本へ帰れない」と帰国を諦めたかのように言っていましたが、この方の奥さんが「ここの主人は怖いね」と言ったところ、それ聞いたこの家の主人が、日本語が分かるのかアンペラをはぎ取り「出ろ」と追い立てられました。でも前の家の家人が優しく入れてくれたのでホッとしたものです。



狼が農家を襲い 豚を根こそぎ殺す

狼襲来に備えて子供を馬車の真ん中に


次の日も次の日も馬車で移動しました。その一つの村では豚をたくさん飼っていましたが、真夜中に「ブゥブゥ、キィーキィー」と豚小屋が大騒ぎしているのです。何だろうと障子の穴から覗いて見ようとしましたら、家人が静かにと手で制します。何事かと思いながら朝起きてみましたら、狼が来て豚を一匹残らず噛み殺して持ち去ったそうで、豚小屋はカラになっていました。

次の日、馬車で山道を行きました。その日はとても良い小春日和でしたが、昨晩の狼のこともあるので、用心のため馬車の荷物を両側に置き、真ん中を空けて紀子、公子、栄一の三人の子供を入れ端に親が腰掛け、八路軍が手綱を持ち鉄砲で警備して移動しました。雪の残る山道で鷹が飛んできました。威嚇射撃したら山の方に逃げていきました。昨日の狼を思い出しながら、遠く連なる山並みを左に見ながら馬車を走らせます。八路軍が「この辺は狼が多くよく出没する所だ」と言っているうちに、子牛ほどの大きいな狼が谷間から姿を現わしました。「ウォーウォー」と遠吠えしてしきりに仲間を呼んでいます。すると谷間から続々出てきました。「これが正に犬死にか」と思うとゾッとしました。八路軍は「狼が走り出したら止められない、馬車では逃げることは出来ない」と言っていました。走りだす前に狼を目掛けて撃つと山あいに身を隠しました。



胡弓を奏で 星を愛でる別世界の村に暫く居留


次の集落は前の集落とは一変するものでした。月夜の晩に胡弓を奏でて星を愛でるという、今置かれている世とは思えない穏やかな雰囲気でした。朝になれば小鳥の囀り(さえずり)も聞こえてきます。前の集落とは余り離れてはいないというのに、天と地ほどの違いに驚くばかりでした。中国とは不思議な国だと感じたものです。広々としていて爽やかで清々として、綺麗で豊かさが感じられる山村でした。

宿泊した農家のそばには小川が流れ豚や鶏が居る、コーリャンを垣根にした農家でした。狼の気配もなく安堵しました。でもお便所が無いのには少々閉口でした。垣根の内で済ませるとのことです。排便したものを狙って豚や鶏が我先にと頭を垂れて待ち構えており、コーリャンの茎で追い払いながら用を足します。出る物も出ません、可笑しくて恥ずかしくて観ておれない姿です。漫画はこんなのをいうのでしょうか。紙も無く、ここの人達はどうしているのかと不思議でしたが私は布切れを使いました。赤子はオンドルの上に敷かれたアンペラの上で処理していました。赤子が便をすると母親が「ソーソー」と何かを呼ぶのです。何処からか、大きな犬が飛んで来てペロリと食べ、お尻を綺麗に嘗める、良く出来ています。これなら紙が無くても困りません。

また、ニンニクや葱(ネギ)が良いのか、肺病の人も居ない、回虫もいない、誠に不思議な所です。井戸が見当たりません。「朝、顔を何処で洗うのか」と聞くと、小川で洗うのだそうです。メダカが泳ぎ、この水を飲み洗濯もする、小川で子供も遊び、誠に日当たりの良い、こんな所が中国にあるとは知りませんでした。今滞在している高台にあるこの地は、あの狼の襲う集落からは余り遠くないのに別世界、朝になるとウグイスはさえずり爽やかな雰囲気。隊長も朝、馬に乗り「お早う御座います。大人(主人)ご機嫌いかがですか」と日本語で挨拶をしてきました。心の休まる長閑な寒村を味わい、心に残る良い思い出となりました。そこでは春を感じ居心地の良い所で、戦時であることを忘れる程で一ヵ月少し居留しました。

家の中には竈(かまど)がありコーリャンの茎などをくべて煮炊きをします。その余熱を部屋の床下を通して暖めるオンドルという暖房装置があります。上にアンペラを敷いており、寒い所ではあるものの温かく楽に過ごせました。村から村へ転々としてきましたが、この村は麗らかでこの世の楽園であるとともに春の臭いのする所でした。



八路軍と村から村を転々 何時しか半年を

日本に帰ると分かっていながら友人の扱い受ける


八路軍と行動を共にして、いつしか半年を経過し早春になりました。主人のグループは、各地に点在する各部隊に戦況を伝えることを任務としていたようです。ガリ版刷りができる人が必要だったのでしょう。主人の兵役は通信兵でガリ版刷りができました。任務は色々の事項を言われるまま刷るだけです。この八路軍の通信兵の皆さんと馴染み深くなったようで、部隊の一員として扱ってもらい、また仕事もできるので立ててくれて皆さんから良くしてくれました。それにお手当てを五百円、お米も幾らか貰い食事も戴きました。

それにしても部隊の大移動にあって、三人の子供と私を連れて日本へ帰ることが目的の家族なのに、親しみを持って大事に扱っていただき、有り難い気持ちで一杯でした。あの僻地を彷徨(さまよ)っていたら、子供も皆無事に連れて帰ることができたであろうか、と今改めて心の底から深く感じ涙が滲みます。私たちのような恵まれた家族は他にないと思います。

 後で知ったことですが、終戦後、満州にとり残された日本人のうち、鉄道の技術者、あるいは従軍医師、看護師などの人を留用することがあって友人として扱っていたようで、主人はその一人であったのでしょう。この後も丁寧に接して頂きました。

 


国民党が隣村まで追撃 朝一で奇襲

メーデーには豚一頭料理し祝う


この高台の集落には暫く居て次の集落へ移動しましたが、次の集落では休む暇もなく一晩だけ泊まりました。国民党が隣村まで追撃してきて取り巻いているということです。そのため夜も明けやらぬうちに八路軍は敵陣へ出陣しました。何故だろうと疑問を持った者も居たようですが、奇襲を掛けたのでしょうか、皆の動きは機敏でした。残っている馬車は私たちのグループだけになっていましたが、折り返し道を蛸の足のように抜け道があることを知っている地元の若者たちに道案内を任せました。山を次から次へと越え迷路のような道を走り、日も落ちる頃にようやく目的地に着きました。早駆けした部隊は既に着いていました。

道中は大変な難路もあり牛馬は長い道のりを走ってきたので余程疲れていたのでしょう。腹の大きい牛や馬は着いたところでお産をしてしまいました。「千里走った」と言って「千里の馬」の諺(ことわざ)を真似ていましたが、朝から日が暮れるまでですから牛馬も大変だったと思います。牛馬は後産を食べました。後産を食べるとお乳が良く出るそうです。私もお乳の出る薬と言われ飲んだことがあります。

到着した日がメーデーだといっていましたので五月一日だったのでしょうか。この日は豚一頭を絞めて豚汁を作り祝いました。中国共産党では以前からメーデーを祝うらしいのです。その時「八路軍には大物が居る。今は名前を出せぬが、その人が中国を治めることになる」と言っていました。それは後で分かったのですが、毛沢東だったのです。


※八路軍(中国共産党軍)は朱徳と毛沢東が率いていたが、その後毛沢東が主席となる。一方、国民党は孫文が辛亥革命を起こし、死亡後蒋介石が指導、中国共産党に敗れ台湾へ逃れる。



二十一年五月に満州と朝鮮の国境の安東へ

朝鮮ルートとコロ島・大連ルートの交通結節点


それから間もなく二十一年五月に満州国と朝鮮の国境の街、安東市(現在は丹東市)に出ました。北満州、蒙古方面から日本へ帰還するには安東が一番近く、そこから日本へ帰国する幾つものルートがある分岐点であり、交通結節点ですので日本人が多く集まっています。安東から日本へは、鴨緑江という大河を渡って朝鮮側の新義州を起点に朝鮮半島を南下する朝鮮ルートと、黄海を南下し三八度線にある白翎島(はくれいとう、ペンニョンド)を経て朝鮮半島を通って帰るルート。そして、コロ島(葫蘆島、葫芦島)・大連を通って帰るルートがあります。このうち新義州ルートは、ソ連が侵攻していて危険を伴い、殆どの人はこのルートを選びません。最も楽に帰還するには白翎島ルートです。しかし船賃が大人も子供も二千円が必要、大方の人はそのような金を持っていませんので、山越えしてコロ島、あるいは大連を通って帰国するしかありません。

安東に引き揚げてきた人々は、国民党の支配地域と八路軍の支配地域に分散していました。国民党の支配地域にいた避難民の多くははやばやと帰国できたようです。しかしながら八路軍の支配地域に居る避難民はなかなか帰国ができません。コロ島ルート方面には国民党がおり、これでは袋のネズミです。

八路・国民党が対峙 小競り合い「油断できない状況」


ここで暫く滞在し八路軍と共に夏を迎え、その後十月に帰国の途に着きます。私はこの街で、はったい粉を煮て冷やし水飴を作り街角で売りますと、暑い日が続いたので良く売れました。時間はかからず作れます。八路軍から蒸パンのボオミイパンを一人当たり三個貰っていましたので、そのお金でお米などの食料を買うこともできました。

東安局からの友である小幡さんも安東まで逃げて来ていると聞き連絡を取りました。行くと子供が耳を悪くしていました。小幡さんは頭に被る網を黒糸で作って売れば幾らかになるとのこと。そのお金でボオミイパンを買うと言っていたので、このパンを届けました。作り方はトウモロコシ粉を前の日に熱湯をかけ、炭酸を入れて寝かせ、翌日それをすり鉢の形にして大きい鍋に伏せ重ねて蒸すと柔らくなり、堅くなったところで切って油で焼いて出来上がりです。「美味しい」と言っていただきました。これは地元の人から作り方を教わりました。パンは豚満より大きくかさむ、五人分だから目立つから持ち出さぬようにと注意されたこともありましたけれど、困っている人には何とかしたくなり目立たぬようにして持って行きました。

安東の夏祭りの時は蒸し返るような暑さでした。足長おじさんやら色々のお面を被り、変装をしたおじさんが繰り出していて大変な賑わいでした。小川さんの坊やと紀子が同じ年ごろなので仲良く手を繋ぎ、足長おじさんに付いて行ってしまいました。こんな所ではぐれてはもう会えなくなると心配しましたが、小川さんのお父さんが自転車で探し回り連れ帰ってくれました。二人は手を繋ぎ薄暗いなか山の向こうを歩いていたとか。その時はもう駄目かと観念していたので本当に嬉しく有り難く思ったものです。



白旗挙げ一ヵ月の休戦交渉 国民党受容れ

多くの人が陸路の大連周りと朝鮮ルートで


私たちは幸い引揚げ者寮に入っていますが、多くの人は収容できず溢れてどうにもなりません。主人は慰問団を作り日本人の慰問に行っていましたが、その一方で、国民党と八路軍の小競りあいは相変わらずで「油断が出来ない」と申します。八路軍支配地域にいる人たちは数ヵ月も足止めをされたままで、見通しも立たない状況が続いています。

そこで主人を含む代表団が国民党の所へ白旗を立てて行き「日本人を何とか無事に帰してもらいたい」と交渉しました。それが出来なければ、国民党が迫撃砲を撃ちながら入って来て死人の山になる怖れがあり、安東は火の海になるのは確実です。そのために「一ヵ月の停戦をして貰いたい」とお願いしました。

この時の八路軍は随分協力してくれました。八路軍には厳しい戒律があり「悪いことを許さない」ということ。そして、財産を私有ではなく共有し貧富の差をなくすという社会主義の実現に燃えた革命軍でした。この社会主義は、後に文化大革命、天安門事件を経て変容していくのですが、この当時の八路軍(中国共産党)は理想主義を掲げた集団でした。この為、隊員には人を敬う心を持った人が多かったと思っています。一方の国民党はまず統制が取れていないということ。そして、ならず者的なところに大きな違いを感じたものです。

しかし、私は満州人に対して善良な国民性を感じ、あの胡弓の音が似合う心の広さを懐かしく思います。広い心に憩いのある懐かしい所、私にとって故郷のような満州となりましたことを心に仕舞っておきたいと思います。

お互いが納得して一ヵ月の休戦を受け容れてくれました。お金のある人は白翎島ルートを選び、朝鮮から船を五十隻借りて乗船してもらいましたが、希望するだけの人をさばいて運ぶことは難しいのです。そのため国民党が布陣する山を越えてコロ島回りで帰国すること。このルートへ多くの人を送り出しました。主人は、国民党と八路軍との入れ替わりがスムーズにいけばと願いつつ、一人でも多くコロ島回りに行くよう呼び掛け、お願いして回りました。どのようなことでも日本人のためにと思いながら頑張っていました。



九月末 日本人の帰国半ば国民党が攻め入る

帰国を決断 船五十隻で白翎島を目指す


このような時、まだ帰国できず待機している日本人が大勢残っているにも拘らず、国民党が追撃砲を撃ち込みながら安東へ入ってきました。八路軍は北方へ引くと言っていましたが、街の方では煙が上がり、ドォーンドォーンと砲弾の音がします。二十年九月の末でした。主人は「こうなっては急いで帰国するしかない」と決断しました。幸いなことに私たちは八路軍からお金を頂いたので船に乗ることができました。朝鮮の端の信義洲から船を五十隻借り、多くの人が乗り込みました。私たちは漁船帆掛け船に八十人が乗船し、鴨緑江を下り黄海へ出て白翎島を目指しました。四日で行けるというのですが、海の上なので何日掛かるか分かりません。海の旅で困らぬようにと気を配り、できるだけ多くのお握りを子供も手伝って作り、焼いて日持ちの良い物を集めました。仲間が増えて足りないので、パンも併せても持ち乗船しました。



八路軍は軍医を解放せず 頬被りして紛れ乗船

朝鮮半島の傍 黄海を十四日かけて航海


話は遡りますが、安東で栄二がお腹に居る時のこと、食欲がないので主人が満鉄の方が良いお灸を知っているからと連れて来てくれました。胃の上にしてもらったところ食事が摂れるようになりました。お礼をしたかったのですが、色々とお世話になったうえ、使ってくれと言ってさらにお灸を頂きました。その折りに人形を預かりましたが、船の上で手足が取れて持ち帰る事ができず、身代わりと思い水葬にいたしました。また、栄二が妊娠四ヵ月の頃、出血がひどく診て貰った診療所の元軍医さんは北海道に家族がおり「どうしても日本に帰りたいけれど八路軍が放してくれない。どうしたら帰ることが出来るか、良い考えはないか」と相談に来ました。私は「八路軍が監視していることだから、頬被りして船の手伝い人の恰好をして乗り込むしかない」と助言し、そのようにして船に紛れ込んだのでした。その人はダイヤを私に預けると言いましたが「本人が持っていれば、何かの役に立つこともある」と言って断りました。

途中、陸の方で砲弾の音がしていました。河口を出て暫くすると波が高くなり黄海に出ました。海は荒れ向かい風で先へ進まず、風を旨く帆に受けて行ったり来たりしながら進むのですから、なかなか前に進みませんでした。そのような航海でしたが、岩場があれば船を付けて溜まり水を男の人たちが汲んでくれました。糸に何か括って垂らすと蛸がついて上がってくるなど、岩の上で長閑なひと時を過ごすこともありました。

朝鮮の傍の黄海は穏やかな日もありました。島の傍を通ると、芋、大根、鳥の焼いたものまで売りに来て、突き出た岩場から呼んでいました。船を寄せ芋や大根を衣類と替えました。ナイフで切り削ぎ、傍の人達にも分けました。出港して十数日間も経っていましたので食べる物は底を尽く状態。船頭さんが牡蠣や唐辛子などに僅かに米粒が入った雑炊を「家族に一つだけ、これが最後です」と言って丼を下さいました。皆一口ずつでしたが、美味しかったことは今も忘れられません。良い思い出の一つです。



黄海で海が荒れ五百人乗った船転覆 四百人不明に

八路軍従軍の元軍医 帰国の手伝いも空しく犠牲に


急に海が荒れだし皆船底に入りましたが、船は木の葉のように揺られます。船底に溜まった海水は大揺れに揺れて、下から立ち上がり皆びしょ濡れです。私は口から一〇㌢位の回虫が三つ飛び出しました。皆船底で唸っていましたが、ある老人夫婦は平気な様子で座り、裂いたイカを出し仲良く食べていました。それを見ていた栄一が指を差してねだるので大変な剣幕で怒こられてしまいました。二歳と六ヵ月の子供には空腹が抑えられなかったのです。栄一は船が揺れるのも平気だったのが救いでした。

海が荒れているなか、甲板に上がってみると五百人位の人が乗っていた一番大きい機械船がひっくり返り船底を見せていました。船にもぶれていたのは僅か四十人ほど、大多数の人は船内に残されたままなのか、波に呑まれてしまったのか。トランクなどにしがみついて「助けて」と手を揚げながら流れて行く人もいました。他の船も自船が今にも傾き、引っくり返りそうな危ない状態なので打つ術がありません。こちらの船の船頭さんがどうにも船を操りかねて怒鳴っております。こちらも危なくなり船頭も「危険だから伏せろ」と言っています。

結局、沈没した機械船は百人位が助かり四百人位の人が犠牲になったようです。私たちが乗っていた船でも子供が亡くなり、やむなく布に包み水葬にしました。また、北海道の元軍医さんもあの転覆した船に乗っていたと思いますが、消息は分からずじまいでした。恐らく水死されたのでしょう。私としては要らぬ世話をしたものだと心底から悔やみました。

十四日間かけて三八度線にある白翎島に着きました。朝鮮の最西端、黄海に浮かぶ島で交通の要所です。数日滞在しましたが、浜辺に出てみますと、帆かけ船が近寄り「お魚を買わないか」と言うのでアコウを買いました。主人が浜辺に石を積み、枯れ草や薪を集めてお米を炊き、アコウを刺身にして醤油をかけ、熱いご飯とともに頂きました。久しぶりでこの上ないご馳走でした。


国民党側が八路軍側をリンチの相談

偶然聞いて北鮮へ危機一髪で脱出


柔らかいイ草のような草を下に敷き寝ることができ、久しぶりの陸上で穏やかに過ごすことができました。ところが、男の人達が浜辺で火を炊いて、ぐるり輪になってヒソヒソと相談しています。その時、栄一が寝つかず抱っこして浜辺に出て輪に近づいて行ったところ、「朝七時に八路軍にいた連中十七人襲う」と言っているのが聞こえてきました。これは只事ではないと感じ、輪の後ろに回って聞いていました。そのうち「石井栄も」と名前が聞こえましたので、素知らぬ顔でそっと抜け出して主人に伝えました。主人は直ぐ横の連絡を取り合い、時間を決めて夜中に抜け出しました。行く先は北鮮です。十七人で北鮮を目指し出発し危機一髪で脱出できました。

後を追い掛けて来る人、追われる人。人間はなぜ感情に動かされて白と黒の関係を作るのでしょうか。罪無き人を傷つけ己の罪を重ねることに励むのか。何故⁈ 国民党と八路軍の狭間の争いに巻き込まれた人達の末路であるのです。敗戦後、国民党と八路軍は武装解除した日本軍から武器や装備をそれぞれ摂取、中国に残された日本兵や民間人の一部も双方に加勢しました。敵対する勢力に加わったのですから、いがみ合い何かあれば互いのせいにして、八路軍と国民党の操り人形のようになっていました。なんとも哀れな凡夫の姿でした。



敗戦国の国民同士は助け合うべきなのに


敗戦国の国民は助け合うべきなのに。少なくとも、白翎島に着くまではそうであったのです。主人も鞍山から従軍兵のような立場となって、家族共々八路軍と行動を共にしてきました。そして、安東では日本人の帰還のために身を尽くして働きました。それなのに国民党を支援するアメリカがこの白翎島に迎えにくるという情報に接した途端、国民党側に立った人が意を強くして急に威張りはじめ、暴力を振るうようになったのです。

大男達が大きな松の棒を持ち、半殺しにしているところを見ました。八路軍に加わり医師をしていた人の娘さんも連れて行かれ、どんな目にあったのか心配でした。ある男性は顔が半分膨れ上がり、頭が菱型になっていました。その娘さんは亡くなったと聞きました。数人の若者が顔を捩じれ菱型の頭になった人を抱え込んでいました。そのような人達を多く見てきただけにリンチとは怖いものだと思いました。

そのような動物に追いかけられていることを感じながら、私は相変わらず栄一をリュックサックの上に乗せ、北朝鮮をヨッチラ、ヨッチラと皆さんの後をついて行きました。この北朝鮮の大地を歩いていた時にお腹が動いたのです。その日が栄二の五ヵ月に入った十月半ばでした。一行が見え隠れするほどに遅れてしまいました。もう少しで見捨てられるところでした。それでも必死に付いて行きました。次女公子をおんぶしている主人も顎を出していました。



北鮮では絶景や人の優しさに触れる

鶴が翔ぶ美しく楽しいひととき


長い道のりでした。追っ手に見付かるので昼間に山の窪地で寝ます。その時、頭の上を仲良く二羽の鶴が翔ぶ美しく楽しい姿がありました。聞いてはいましたが、鶴のひと声「ケーン ケーン」とひと声ずつ鳴いていきました。空は晴れ雲が流れ全てを忘れるひと時でした。夕日が西の空を茜色に染め、千羽鶴が舞う美しく静かに流れるこの一瞬を「楽園とはこのことか」と見惚れ、一生忘れられない北鮮での思い出になりました。

また人にも助けてもらいました。北鮮にも心温まる優しい人がいました。駅で「子供に」と五十銭くれた人もいました。さらに「貴方たちにだけだけれど」とそっとご馳走をしてもらいました。感謝しながら子供たちもよばれて、温かい家庭であることを感じました。「里芋が入っていますか」と尋ねると「白菜の根っこです」とのこと。「お米代だけで良い」と言って頂くなど様々な親切を受けました。「我が国の人達も日本でお世話になっていることを思うと知らぬ振りは出来ません」と気高いことを聞かされ、「人間は皆、同じではなく、色んな人の居ることもある」と言われておられました。心に残る人達でした。田圃の中を通っている時に、農民が網を掛けて鴨を獲っていて「買ってくれ」と言われ困ったのですが何とか買えました。農民が居なくなって逃がしてやりました。

夜になり行動を開始しました。皆で海辺に近い家に行き船をお願いし、仁川まで行くことを相談しました。皆で持ち物を出し合って頼み家を出ました。夜がくるのを待つことになり、一時山へ隠れることにしました。「危ないから泊められぬ」と言われるので、家を出ようとしましたが、紀子が敷居を枕にして寝込んで仕舞い、そこの主人は「また来るのだからここへ置いて行くように」と言われたのですが、手を離したらもう会えなくなる怖れもありますので、つねったり叩いたりして目を覚まさせ、山の窪地へ戻りました。



逃走後に残したたき火跡に追跡者が

二十年後に追跡者の話を聞く偶然に


仁川まで航路、時間がどのくらい掛かるか分かりません。海の上は食べ物に困りますので、大豆を三㌔程買いそこで煎ってもらいました。四角い蒸し鍋に入れて皆で浜辺に午前二時に出ました。火で合図することになっていましたので、船が火の合図で近づいて来ました。火に海水を掛けて消して橋げたを架けてもらい皆が乗り込み、沖に出てから大豆を浜辺に忘れたことに気付きました。

ところが、それから二十年以上も経った昭和四十三年頃のこと、広島駅の近くにある繊維問屋街で私に縫い物の仕事をくれていた奥さんが、主人から聞いたという話をしていたのです。私は傍で何となく聞いていただけなのですが、その会話には驚くばかりでした。何とご主人が私たちを追いかけてきた人たちの一人だったのです。「北鮮まで追い掛けて行ったが、海辺にまだ火を炊いた跡があり温もりもあった。煎った大豆を入れた鍋が置いてあった。ここから船で逃げたのだろうからと諦めて引き返した」と話していたのです。「それは私です」と申し出ることも出来ませんでした。世間は広いようでも狭いものだと思ったものです。

船は沖の三十八度線を遠回りして仁川に着きました。皆と汽車に乗るため駅に出ましたが、発車までには時間があるので、子供を連れて小さな路地を上がっていくと豆腐屋がありましたので入りました。子供たちもお腹を空かしており、僅かなお金を出して一丁ずつ買い、醤油をかけてもらい食べさせ、お腹も落ち着いたので駅に戻り皆と行動を共にしました。



京城にはリンチを目的とした者が待つ

八路軍からの表彰状によりリンチ免れる


汽車に乗り京城(現在のソウル)に着きましたら、あの追って来た人たちがいるような気がして生きた心地ではありません。引揚げ者が入る所へ案内されました。そこはお寺でしたが、皆が集まって生活できるようにすべてが揃っていました。便所もおよそ二十個両面に並んでいました。そこの一室に入ることができました。しかし、その引揚者寮は国民党の独占場でした。白翎島にいた国民党を支持しリンチをした日本人たちの集団のように見えて、何とはなく嫌な雰囲気です。私たちの来るのを待ち構えていたように、うさん臭そうに代る代る部屋に入ってきます。

ルボー(流氓)より嫌な感じでネズミを狙う猫のようです。目付きが悪く、嘗め回すという風です。今から何をしようかと言いたげな舌舐めずりしていました。私たちも今から何をされるかと肝を冷やしていました。人の靴の中まで探り、普通の人には見えません。お金をさんざん漁っているようでした。鴨居まで手探りして隠した物を探します。何故なのか、何が欲しいのか分かりません。八路軍にいた者に対しての敵意を持っているのは明らかです。そのうち一人ずつ連れて行っては棒で散々殴る蹴るをしました。果ては気絶したら、水をぶち掛けて気が付いたら繰り返しをしていたそうです。

八路軍で何をしたかが問題ではないらしいのです。八路軍に対しての敵意がそうさせたように見受けられました。リンチを加える目的で来た人たちだったのです。小川さんという人は四国の出身と聞いていましたが、やはり連れて行かれ散々な目にあったようです。皆次々と一人ずつ連れて行き、皆一様にリンチを受けたのです。敵意を持たれるような人でもないのに同様でした。

主人も連れて行かれました。その前夜、便所の裏に穴を掘って隠していたお金、八路軍にいた時、褒美にもらった布に刷り込んだ表彰状も全て出しました。表彰状は無くさぬようにと、公子のズボンの中に縫い込んでいたものです。主人が殴られないためにと正直にお金と一緒に全て渡しました。それで何事もなく、ただ頬をひとつ叩かれる位で帰ることができました。渡した表彰状は、寧ろ日本人のために尽くした印でした。一人でも多く日本へ帰れるように尽くしたことが書かれていました。表彰状には「大変な功績に寄り是を渡す」と書いていたと、主人から聞きました。大体このようなことが書かれていたとのことです。

「満州来心或楢時此功績高認表誉状是持来樽場相定置用扱」「この表誉状を持ち来足場合定置似扱う」。大切な表彰状は渡してしまい手元に有りませんが、この表彰状のお陰でしょうか、平手ひとつで済んだのでした。



満州に残り望郷の念にむせび泣く

人たちに後ろ髪引かれる思いで帰国


昭和二十一年十月、京城より汽車で釜山へ。釜山では引き揚げ寮に入りました。その寮には大変大きい五右衛門風呂のような釜が五釜並べて、その傍は身動きできないくらいの人が集まっていました。皆の魂は懐かしい古里日本を目指して一歩一歩近づいています。日本をあれほど遠く感じていたのに、もうすぐそこにあると感じられました。ボーッとしていました。多くの日本人がいるから安堵していました。釜山から帰還する船バイカル丸は一千㌧か二千㌧の大きな船でした。朝出港すれば昼には日本に着きます。それは十月十日でした。帰国船の中で落ち着きましたし、温かい持てなしを感じました。昼飯が出て大変懐かしいお米と麦の半々で味噌汁もあり、タクワンの付いた日本の匂のする物でした。日本とは良き国であると、つくづく感じました。心温まる国であると思いました。

後ろを振り返ると、満州に残る人たち、帰ることもできず、望郷の念にどんなに咽び(むせび)泣いていることか、その思いは募るばかりでした。日本にいる人には分からない、愛情の絆を絶たれたような味わったことのない悲しみのなかにあることでしょう。唯々頭を下げ、お詫びをします。日本人であるが故に、異郷に残る方々に思いをいたし、日も早く帰国できることを願い、満州ともお別れをしました。この温もりを分かち合いたい、何とかならないかと、後ろ髪を引かれる思いでした。ただ手を合わせ祈るのみです。

満州にはもう行くことはないと思いますが、これらのことを知る者は私だけなので、書き残すことに責任を感じていました。これで全てです。主人にはお世話になったことを有り難く思い、許してもらいたいと拙いながらこの書を捧げます。


栄は昭和六十年五月二十九日没す七十才  

平成六年十二月十四日書 石井公美 七十七才








(続編 帰国後、故郷瀬戸田で過ごした七年)


緑鮮やか穏やかな日本 無事で帰れたことを感謝


釜山から佐世保までは、波も穏やかで玄界灘に浮かぶ島々は絵のように爽やかでした。満洲から苦難の逃避行をしてきた者たちには別世界に身を置いたかのようです。まだ日本が近いとは感じられませんでしたが、水平線に並ぶ、低い島々が美しく目に入ってきました。間もなく遠くに本土が見えてきました。緑が鮮やかで穏やか、このように恵まれた国に産まれたことを有り難く誇りにさえ思いました。私達家族は無事に子供と共に帰れた事を深くあり難く思い、感謝の気持ちで一杯、感無量でした。

佐世保では、子船に乗換え上陸しましたが、陸上では白い上っ張りを着た人たちが検疫のため忙しく立ち働いていて、異様な場となっていました。ある集団はソ連から帰還した人たちでしょうか。ソ連兵が着ていたような長いオーバーに大きなドタ靴を履き、手には竹の子が入っていたぐらいの空き缶に針金を通して持ち歩いています。ソ連に居る時は、何でも食べられる物を空き缶に集めて煮て食べ飢えを凌ぎ、命を繋いだ捕虜になっていた人たちでした。「何としても日本に帰りたい」その一心が、体を日本へ運んだ姿と見受けました。親の涙を感じながら、極寒の果てからよくぞ還って来られた、お帰りなさいと頭を垂れました。

ソ連の捕虜となり、カラカンタに連れて行かれた弟の永井一公が帰国後話しておりましたが、抑留されたソ連のカラカンダとは極寒の地です。強制労働は、露天掘りの石炭を拾って背中に負って帰るのですが、帰り着くまでに日が落ちると気温がマイナス五十度から五十五度ぐらいに下がるそうで、多くの方が凍傷になり命を落としたそうです。

私が暫く暮らしていた満州でも、ドアの取っ手などを濡れ手で持つと凍り付いて離れませんし、濡れタオルは棒になる、外で眠ればその儘です。満洲より、さらに北の地であるシベリアはもっと気温が低いでしよう。ソ連方面から還った人たちは特に青く腫れた顔をした夢遊病のような人で溢れていました。

ここ佐世保では、大きい筒に白い布を被せて、その中に一人ずつ立たせて入れ、頭からDDT(消毒薬)をかけましたら、大抵の虱(しらみ)はいなくなりました。その後、布で囲んだテントに女性を一人ずつ入れて話を聞かれました。主人が同伴しているのかいないのか、ソ連兵に犯されたことはないかなどです。「このことを確かめないと、巷には出すことはできない」と厳しく詮議されました。私の場合は栄二が妊娠五ヵ月入っていたので、より厳しく尋問されましたが、主人が傍にいて証明してくれ、やっと無罪放免となりました。ヒヤヒヤした瞬間でした。尋問した係の人は「五ヵ月であろうが七ヵ月であろうが、お構いなしで避妊手術を実行する」と言っていました。汚れを持ち込むことを避けたい方針だと思います。



  ようやく故郷の瀬戸田に


ようやくそこを出て汽車に乗りました。九州の端から博多、小倉、大里、門司、下関、広島と続き尾道まで来ました。船に乗りようやく故郷の瀬戸田に着きました。迎えてくれた人たちは「紀子は身体が弱い子だから、恐らく帰って来ないのではと思っていたのに、よく無事に連れて帰った」と喜んでくれました。さらには、どの子供も痩せてないのにビックリしていました。永井の父には「何を盗んで食べさせたか」と言われてしまいした。とはいえ、主人も栄養失調で頭や顎に大きい腫れ物ができ、子供も疲れが出ていました。

帰国直ぐに入った家は、瀬戸田港に近い海岸沿いにありました。その家は六畳部屋の下が大きい芋壺になっており、その芋壺に親が食べるには有り余るほどの芋を持ってきてくれていました。その芋を毎日お釜に一杯に蒸かしていただき、本当に助かりました。

主人は正月も近づき何かしなくてはと思いながらも、役場に勤めるようにと勧められて勤めましたけれど二、三日で辞めました。それから県議会議員の大谷さんが高価なオフセット印刷機を買って持って来てくださいましたので、お正月も無しにオフセットに掛かり詰めでした。大谷さんが様子を見にきた折り、鰯を焼いて出そうとしたのですが、オフセットには煙が禁物、少しでもかかるといけないと主人が言います。他に出せるようなものはありませんでしたが、大谷さんがその儘で受け取って下さいました。



故郷瀬戸田で「生口タイムズ」発行

中国新聞記者、アナウンサーに転身


このようなことから新聞を出すことにしました。「生口タイムズ」と名付けました。終戦後間もないマッカサー司令官の頃で検閲がありました。主人のように新聞発行を手掛けた方が多く居たのですが、検閲にかかり多くは辞めさせられたそうです。けれども生口タイムズは「続けるように」とのこと、折り紙付きで続けていけました。

瀬戸内の島々に送り続けるようになり、また、呉服屋の吉田の坊ちゃんに手伝ってもらったり、徳能と言う新聞販売店が全てを取り扱ってくれるなど皆さんの温かい支援をいただきました。企画が良かったらしく大変評判がよく、多くの方に読んでいただきました。私も子育てのなか手伝いましたが、特に瀬戸田では各家庭で読んでいただいたので気を良くして頑張りました。耕三寺も新聞に毎月一万円の広告を出してくれました。

興福寺の前の住職さん伊藤先生から「生口タイムズはよく読ませてもらったが、あれは良い新聞だった」と褒めていただきました。それでも経費が足らないので補うため、技師を伴って島々の映画館を巡り8ミリ映画の巡回映画をしたものです。そうこうしているうち昭和二十六年七月、中国新聞社より中国新聞瀬戸田通信部兼忠海支局長として採用され、毎日江田島丸で忠海支局へ通いました。その直ぐ後の昭和二十七年十月にはラジオ中国が開局します。このため、満州でアナウンサーをしていた経験を活かすため同社に出向してチーフアナウンサーとなり、開局に当たりました。

時は遡り昭和二十一年十一月、帰国して最初に住んだ家は瀬戸田港の近くにありました。武徳殿がある浜辺には警察所、その前の海辺に専売局のタバコ葉を積み出すトロッコと倉庫があるという海辺にありました。この家には昭和二十五年まで住みました。この家では栄二と美栄子が親や周囲の方の世話になり産まれました。栄二は逆子だったものですから、お産婆さんも気を揉みましたが、産まれる間際に正常な向きになって産まれ、三千八百五十㌘でした、昭和二十二年四月十五日のことです。栄二は牛乳の嫌いな子で山羊の乳で育ちました。主人に似て耳が少し柔らかいようです。風邪をひくことが多く、首にお酒を湿して晒しを巻くことがよくありました。美栄子は昭和二十四年六月一日にこの家で産まれ三千八百五十㌘でした。牛乳の好きな子で助かりました。とても元気に育ちました。私の三十三才の時でしたが、女は三十三才が厄年で女の子が産まれると厄逃れだと聴いています。



上の姉より足が速かった三男 栄三が小児麻痺に


次に移った家は専売局の前でしたが、移転した次の日に大津波があり、その前に居た家は床上まで潮があがりました。一日違いのことでした。前の家もこの家も永井の親の従兄弟である永井伊太郎さんのものでした。そこでは栄三が産まれました。二十六年三月十日に三千五百㌘でした。

栄三が一才半の頃でしたか、二才年上の美栄子と一緒に走ると栄三の方が速く、家の前などで二人が駆け比べをしていたのが今も思い出されます。とても足が速い子でした。その栄三が一才半の時に小児麻痺になってしまいました。当時主人は広島の本社勤めになっていた時でした。瀬戸田病院は志村院長の時です。栄三は下痢が続き小児科で受診していたのですが、小児科の先生が転院され、内科での治療に替りました。小児科から内科に移り薬も変わりました。内科で出された薬はピンクの紫がかった粉薬でした。きつい下痢止めであろうその薬を一服飲ませましたら、足を酷く痛がるのです。翌日、下痢が堅い便になったものの四十一度の髙熱を出し、玉のような汗が止まらず足の付根を痛がり、翌々日の朝、片足の神経が麻痺して立てなくなりました。病院に長く通って、こんな事になるとは考えられませんでした。薬による副作用と思いました。玉のような汗が噴き出るというようなものではなく、お乳を絞るような汗が出た翌朝、片足がブラブラになりました。マッサージやお灸指圧等、色々試みました。さらに脊髄から水を取ったところ既に濁れており、脳に上がれば脳性麻痺になるとのことでした。

脊髄から水の入替えのため、一日置きに二ヵ月間通い治療を受けました。先生は「六割は治る」と言われ望みを託しました。ところが、広島の日赤に行ったところ「三分くらい」と言われ施し様がありませんでした。薬で一度に止めたので内向したものと思いましたが、その頃は小児麻痺になられたお子さんが全国で多く出たと聞いています。先生も手を尽くして下さり治療費は取りませんでした。残念ですけれど、栄三さんに済まないと思います。次々と災難が続き、思いも寄らない事が起こり、なぜそんな事が起こるのかと思いました。

私の母永井カズが毎日来て、いろいろと世話をして貰っているうちに、母が血を吐いて寝込んでしまいました。これ以上心配をさせたくありませんでしたので、広島に勤務する主人の所へ行くことに決めました。                            (終り)









(編集後記)  

                

昭和十四年、石井栄と結婚するため故郷、広島県尾道市(当時は豊田郡)瀬戸田町から満州国へ旅立つところから始まる公美の手記。結婚後続いた穏やかな生活が昭和二十年八月九日、ソ連の侵攻により一変しました。満州国の実質的な統治者であり、守ってくれるはずの関東軍は戦うこともせず真っ先に逃げてしまった。このことにより満洲の辺涯に見捨てられた日本人はソ連兵や現地人からの強奪、暴行を受けて荒野を逃げ惑い集団自決など大混乱に陥りました。

そもそも満州国とは何か。関東軍は一九三一年(昭和六年)、奉天での南満洲鉄道爆破を中国軍の仕業と決めつけて軍事行動を開始して満州事変を起こし、翌年に傀儡の満洲国を建国し国際的な批判を受けて、日本は国際連盟を脱退。このことが太平洋戦争へ突き進み敗戦に至る大きな出来事となりました。満洲を追い出されたことは必然の結果、満洲の開拓という間違った国策に翻弄された日本人。しかし、真の被害者は中国国民であることを肝に銘じなければなりません。

この手記で衝撃を受けたのは、栄がアナウンサーとして勤務していた満州電電東安放送局において、ソ連軍の侵攻を受けて開拓民や一般人向けに避難を呼びかける放送をするため、栄がマイクを持った途端に停電し放送ができなかったこと。このことにより開拓民、一般人の避難が遅れ、満州の北端に多くの人が取り残されたこと。母公美からは幾度となく聞かされてきましたが、父栄からはこのことに触れる話を聞く機会はありませんでした。責任を強く感じていたからでしょうか。もっとも満州から引き揚げる道中の話は、栄からではなく公美から聞くことがほとんどでした。

昭和二十年も春の終り頃、「関東軍は家族を逸早く帰国させたことを知り敗戦を覚悟した」と記しています。その頃から自分たちも帰国の準備をしていたようです。このよう戦況が差し迫ったなかで開拓団の人たちに正確な情報が伝わっていたとは思われません。関東軍が引いたということも後で知ることになったでしょう。憲兵が開拓団に伝えて回ったというが、それは甚だ心許ない。多くの人が取り残されました。「日本人であることを忘れたことはない、何故見捨てたか―」公美の叫びは心底から出たものです。

満洲からの避難の帰路、ようやく三八度線にある白翎島(はくれいとう)にたどり着いたのですが、そこで待ち受けていたのは日本人同士の争いでした。当時中国では国民党と八路軍(中国共産党)による内戦状態にありました。そのどちら側に味方したかで敵味方を作ったのです。あの困難な満州からの帰還から逃れた安心感があったのでしょうか。人間は何時も敵を作らなければ済まない性分なのでしょうか。「後を追い掛けて来る人、追われる人。人間はなぜ感情に動かされて白と黒の関係を作るのでしょうか。罪無き人を傷つけ己の罪を重ねることに励むのか。何故⁈」「敗戦国の国民は助け合うべきなのに」と訴えています。

ここでは国民党側が八路軍側をリンチにかける事態となり、八路軍側に付いていた日本人は北朝鮮へ逃れます。朝鮮半島を舞台にリンチを目的とした追う日本人、追われる日本人。そのような危険な道中にあって、ほんの一瞬ながら「頭の上を仲良く二羽の鶴が翔ぶ美しく楽しい姿がありました。聞いてはいましたが、鶴のひと声『ケーン ケーン』とひと声ずつ鳴いていきました。空は晴れ雲が流れ、全てを忘れるひと時でした。夕日が西の空を茜色に染め、千羽鶴が舞う美しく静かに流れるこの一瞬を『楽園とはこのことか』と見惚れ、一生忘れられない北鮮での思い出になりました」と困難な帰路の一シーンを振り返ります。感謝の気持ちと感性豊かな心を一生持ち続けた人でした。

それにしても、一主婦である石井公美が戦況等をよく把握していたのには驚かされます。これはひとつに、夫の栄が兵役の時、情報網の要である通信兵であったこと、そして情報が集まる放送局のアナウンサーをしていたことによるものと想像できます。そして、最も肝心なのは夫婦の会話ができていたからだと言えます。

公美は幼いころ、姉が男の子に虐められたら仕返しに行ったそうで、二十歳のころ夜道で痴漢に襲われたが撃退したという武勇伝もあります。この体力があったればこそ、二歳の長男栄一をリュックサックの上に乗せて連れ帰ることができたのでしょう。胆力もありました。一生の間に多くの人の助けを受けましたが、同時に他人を助けてきました。

帰国後の公美の半生はさらに苦難の道が待ち構えていました。多くの障害を乗り越えてきた人でしたが、一番の苦しみは六人兄弟の末っ子、三男栄三が小児麻痺にかかり左脚が不自由になったことでしょう。これだけは耐え難かったのです。我が家の宗派は禅宗臨済宗ですが、創価学会、キリスト教、真宗と改宗しました。救いを求めてのことでした。

二十八年に栄が単身赴任していた広島市に近い広島県佐伯郡五日市町(現広島市佐伯区五日市町)に姑キセ共々移り住みます。石井栄は帰国後、二十二年から二十六年まで故郷の瀬戸田で「井口タイムズ」を発行、二十六年中国新聞社に記者として入社、翌二十七年には、中国新聞社、朝日新聞社、毎日新聞社と共に設立した「ラジオ中国」(現、中国放送)開局に合わせ、満洲放送局でアナウンサーをしていた経験からチーフアナウンサーとして出向。同年十月一日午前六時三十分「ただ今よりラジオ中国の放送を開始します」と開局の第一声を発しました。その後二十九年三月に中国新聞復社の後退職し、昭和三十三年に広島市内を圏域とする有線放送「ハイファイミュージック放送」を設立。有線放送としては全国で二番目の早さでした。その後も「夕刊新広島」に携わり、さらに電機業界専門誌「中国電業通信社」を設立するなど先取気鋭の人でした。

その一方で、家庭は困窮し公美にしわ寄せがかかります。公美はそのような中でも何時も栄を支え続けました。それは、あの難儀な満洲を無事帰還した同志であったこと。帰国後の困難な時を多くの人の助けを得て乗り越えることができたからでしょう。

公美は生活力が旺盛でした。満洲からの帰路においては滞在した各地では地域の人の教えを受け、自分なりの知恵を出して生計をたてながら、三人の子供を痩せ細させることもなく無事帰国させました。帰国後広島市に移住した後は十数年もの間、様々な食材を広島市の中央市場に出荷し市場では人気商品でした。公美は身を粉にして働きましたが、無理が祟り四十歳のころに結核を患いました。

結核は当時も不治の病と言われていましたが、この闘病ではキリスト教流川協会の谷本清牧師(ノーモアヒロシマズ提唱者、死去の翌年昭和六十二年谷本清平和賞創設)の奔走で当時入手が困難だったペニシリン治療を受けるなどして治癒することができました。また、叔父でもある法林寺の藤解照海和上に導かれました。公美は「『感謝とお詫びしか、この世には無いのでよ』と言われてもなかなか悟ることができない。『不退』という言葉をいただき、その心を考えました。忍耐強く我慢することも『不退』と行き着きました」。「全ては『お計らい』と受取り、有り難くいただくことにしました」「人間は感情の虜になることを戒める仏の教えに添いたく思います」と記しています。

栄は昭和六十年五月七十歳で亡くなり、公美はその二十年後、平成十七年十二月、八十八歳で生涯を閉じました。






令和六年十月四日発行

著作 石 井 公 美

編集 石 井 栄 二

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