第1章 狼と出会った日③

 国境線からカルノヴァ=ストリェッツ共和国内陸へおよそ10㎞。まだ日も昇らぬ深夜の森に、分隊規模13名の人影がひっそりと潜んでいた。

「寒いだろ。そろそろ春とはいえ、明け方前は凍えるんだ」

「ああ……よく耐えられるものだな」

「こっちは猟師だぞ。慣れてるさ」

 カタカタと震えるヴィルヘルムに、ジークハルトは火酒の入った水筒を差し出した。

「飲め。寒さが和らぐし、いざ戦いになっても緊張せずに済む」

 使い古された水筒をヴィルヘルムは恐る恐る傾け、中身を口に流し込んだ。直後、燃えるような熱と下品なアルコール臭が喉から鼻腔まで一気に広がり、吐き出すのを必死にこらえた。

 成人を祝う宮廷の晩餐会で葡萄酒を初めて飲んだばかりの彼にとって、それですら美味とは到底思えなかった。いま口に含んだ酒は、その何倍もひどい。

 しかし、せっかくの気遣いを無碍にしたくなかったのと、寒さをしのぐ術をほかに持たない自分を説き伏せるようにして、ヴィルヘルムはごくりと飲み下した。飲み込んでもなお、口内には劣悪な後味だけが残った。

 彼の反応を見てジークハルトは苦笑すると、「寒そうなら、あっちの護衛にも飲ませてやれ」と言い残し、猟兵隊の方へ山肌を這うように戻っていった。

「だそうだ、グスタフ。飲みたければ分けるぞ」

「いいえ、殿下。結構です」

 屈強な体格のグスタフは強がって断ったが、唇は青白く、声もわずかに震えていた。護衛長の彼が断ったため、他の護衛も同調してヴィルヘルムの申し出を辞退した。

「こんな夜は初めてだな」

「殿下。……なぜ、来られたのですか」

 グスタフの問いには、純粋な疑問というより非難が混じっていた。確かに、ヴィルヘルムが同行を望まなければ、護衛たちは夜中の山中で震えることもなく、暖炉付きの天幕でぬくぬくと眠れていたはずである。

「私は、この戦術が最も効果的だと考えている。だが、それは兵法書で学んだ紙上の知識にすぎん。実際に目にした軍事行動といえば、近衛兵の演習くらいだ。命令を下す立場にありながら、有効な戦い方を知らぬままなのだ。……あの兄上と同じではないか」

 酒気の回りはじめたヴィルヘルムは、衝動の源を最も近しい側近に漏らした。彼もまた宮廷の外をほとんど知らぬ若い王子に過ぎない。司令官や幕僚に悪態をつきながらも、本当は自分も実績もなければ実情も知らぬという点で大差ないのだと、後ろめたさを感じていた。

「多少の記憶力や理解力で天才などと呼ばれるなら、当てはまる者は多い。私はそれで勝手に満足したくないだけなのだ」

 同じ頃、少し離れた場所でヴィルヘルムたちを横目に見ながら、猟兵隊のハンス・ヴァルツァー上等兵が小声で不満を漏らしていた。

「なあジーク。なんで王族なんて連れてきたんだよ」

 彼を愛称で呼ぶハンスはジークハルトの同郷で、この東部戦線をともに生き抜いてきた戦友であり、互いに深い信頼を置き、大抵のことは言葉にせずとも通じ合えた。だが今回ばかりは、ハンスにも納得がいかなかった。

 歩兵を基地から連れてくることはこれまでもあった。彼らは猟兵ほどの動きはできずとも、厳しい訓練を受け体力には一定の保証があり、戦力にはなった。足を引っ張っても、共和国軍哨戒を釣る囮に使える。それで十分だった。

 だが今回連れてきたのは王族と、その護衛の近衛兵だ。身体能力こそ問題ないが、護衛長グスタフは事あるごとに文句をつけ、気も使わねばならない。囮に使えるはずもない。ハンスにとっては、厄介者以外の何者でもなかった。

 そんな戦友の不平に、ジークハルトは先ほどの出来事を語って聞かせた。

「あの王子に、寒さしのぎに酒を渡したんだ」

「共和国からかっぱらった、消毒液みたいなやつか?」

「ああ。そしたら一気に飲み干した」

「マジかよ。アルコール度数だけ高くて、ひどい味なのに」

 その言葉に、ハンスは少しヴィルヘルムに同情的になった。自分たちも面白半分に飲んでみて、あまりのまずさに吐き出したほどの代物だ。

「変わってて、面白いだろ?」

「あのな……」

「王族ってやつが、全部あんななのか気になったんだよ」

 ジークハルトは猟師の家系に生まれた。山の麓の小屋で育ち、周囲にいるのは同業の猟師とその家族ばかり。兵士になって初めて多様な人間と出会い——そして失望した。

 貴族という偉ぶった者と、平民という従うことに慣らされた者。その二つが織りなす戦場は、ジークハルトの目にはあまりに愚かだった。生きるために本気にならず、甘んじて状況を誤り、わけも分からず傷つき死んでいく。山の獣のほうがよほど利口に思えた。

 そんな折に現れた、“他とは違う”人間。王族というこれまで会ったことのない種類の存在。

「他と違うなら何が違うのか見てみたい。俺たちはいつも山でそうしてきただろ?」

白く曇る吐息を吐くジークハルトの口元は、夜明けを待つ狩人のそれだった。

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