第1章 狼と出会った日④

 徐々に白け始めた薄明の空が、闇夜に沈んでいた街道を露わにしていく。その大陸公路を西へ進めばノッセル回廊、東へ行けばカルノヴァ=ストリェッツ共和国の首都ワルサヴィクに至る。街道の周囲には畑と作業小屋が点在するだけで、大陸の物流を担う大街道としてはどこか物寂しい。戦前は街道沿いに商店も出ていたのだが、戦争が激化し、共和国がノッセル回廊を封鎖するため要塞を築き始めてからは経済的な魅力が失われ、残った土地を細々と開拓する程度になってしまっていた。

 ジークハルトたちは、その街道がかくりと曲がる地点を見渡せる位置に陣取っていた。

「よし、そろそろ輸送隊の馬車が通る。いつも通りだが、無理はするなよ、ハンス」

 テキパキと指示を出し、猟兵隊を二手に分ける。大所帯の隊は自らが率い、もう一方の別働隊はハンスに任せた。

「どうして輸送部隊が来るのが今だと分かるんだ?」

「東を見ろ。もくもくと煙の柱が何本か立ってるだろ? あれは朝食のパンを一斉に焼いてる煙だ。前線にはパン窯がないから、少し後方の基地で毎朝大量に焼いて運ぶんだよ。それに、要塞建設用の資材も朝にまとめて運ぶから、必ず馬車が出る」

「輸送部隊に護衛は?」

「時々いるが、戦闘を前提にした兵は多くない。ほとんどが輸送のためにかき集められた連中だ。武器を持ってても戦おうとせず逃げるか隠れる。だから狙うなら馬だ。兵士は死んでも補充されるが、馬は限りがあるから被害が大きい」

 淀みなく答えるジークハルトの知識に、ヴィルヘルムは感嘆し、同時に戦慄した。これほどの傾向を把握し、法則性を見出して活用するには、相当な場数を踏んでいなければならない。深夜の国境越えや凍てつく山中での夜通しの潜伏を一度経験しただけの自分とは、積み重ねてきた修羅場の数が違うと痛感させられる。

「……来た」

 ジークハルトの言葉通り、車列が曲がり角から姿を現した。ヴィルヘルムたちの位置からは、角を曲がって次々と流れ出てくる馬車を一望できる。

「なるほど……あの曲がり角で車列を断てば、前方は後戻りできず、後方から援軍が来ても角度が悪くこちらを視認しにくい、反撃もしづらい、絶好の位置取りというわけか」

「察しがいいな。ハンスたちはあの角で敵を分断して後方をかき乱す。俺たちは前方から馬を撃って足止めし、撃ち切ったら接近して荷台を燃やす。荷物は撤退時に奪えばいい。最初から欲張るな」

「物資略奪には興味はないが、火はどうつける? 松明は持ってないぞ」

「長銃の火薬を使え。適当に荷台にばらまいて、銃の火打石で着火する。そこから出た火を他に移せばいい。銃くらい扱ったことはあるだろ?」

「本来の使い方ならな」

「なら十分だ。――構えろ、そろそろ始まる」

 段取りを伝えているうちに、輸送隊の車列は十数台の長さになり、馬の吐息が白く見え始める距離まで接近していた。

ローゼンベルク王国軍が採用している長銃の有効射程はおよそ400~500mだ。しかし、確実に命中させようとするならば、できる限り目標を引きつける必要がある。

 目と鼻の先に迫ったと感じた瞬間、人差し指が引き金を絞った。火打石とバネ機構からなる発射装置が黒色火薬に火をつけ、銃身に詰められたどんぐり状の弾丸は右回りに回転しながら一直線に飛び出し、先頭の荷馬車を牽く馬の筋肉質の胴体へと吸い込まれていった。

 馬の悲鳴が上がり、手綱を握る御者も同じように叫び声を上げる。狩りが始まったのだ。

「次弾装填急げ! 準備ができた者から各個射撃! 次は後ろの馬だ!」

 発射煙が立ちこめる中、器用に弾込めをしながらジークハルトは戦果を確認する。先頭の2頭は銃弾を浴びてひっくり返り、御者にも少なくとも1発が命中していた。8発でこの成果なら上等である。共和国軍はまだ態勢を整えられていなかった。

「撃て! 撃て! 1頭だけでもいい、当てろ!」

 ヴィルヘルムも訓練では散々射撃を重ねてきたが、動く目標を前にした実戦では、思うように弾込めも射撃もできず、内心いら立ちを覚えていた。

 ――自分は初めて戦場に立っているのだ。

 その事実を、この瞬間ようやく思い知る。

 だが、ヴィルヘルムだけを責めるわけにはいかない。王国軍でも優秀と評される近衛兵のグスタフたちですら、手際が良いとは言いがたいのだ。銃を撃つことを生業とし、修羅場で命の駆け引きをしてきたジークハルトたちの方が異常なのだ。

 何発も射撃を繰り返すうち、共和国軍もついに襲撃者の位置を特定し、射線を避けるように荷台の裏へ隠れる者や、馬が狙われていることに気づいて手綱を切り、戦場から逃がす者まで現れ始めた。

「撃ち方やめ! 次を装填したら着剣して俺についてこい! 今度は近接戦と放火だ!」

 斜面を素早く駆け下りる猟兵たちに、ヴィルヘルムも必死に食らいつく。王族である彼が前線へ出るなど、本来あってはならない。だが、昂ぶった頭はその禁を思い出させなかった。

「この荷台に火をつける! お前らは別の目標を攻撃しろ!」

 ジークハルトが乗務員不在の荷台に火薬を撒き、火をつけようとした瞬間――

 バンッ!と別方向から銃声が走った。

「っ!! 伏せろ! 共和国軍だ!」

 転がるようにして地面に伏せたジークハルトは、反射的に射撃位置を特定し、相手の兵士を撃ち倒す。命中した兵士は叫び声を上げながら倒れ、地面を転がったが、次の瞬間、物陰から伸びた腕に引きずり込まれた。

「ああ……ちくしょう。武装兵がいる」

 ジークハルトは瞬時に理解した。負傷兵を物陰へ引きずる行為は、戦闘に慣れた者にしかできない反射行動だ。それだけで敵がただの補給部隊ではないと悟るには十分だった。

 遠方から散発的な銃声が聞こえる。ハンスたちも一方的な襲撃から本格的な戦闘へ移行したらしい。

「撃たれた奴はいるか?」

 ジークハルトの安否確認に、接近戦を仕掛けていた面々は無事を伝えた。ヴィルヘルムも幸い無傷である。

「襲撃自体は悪くない戦果だ。火をつけられれば上等だが、贅沢は言えん。ここからは無事に撤退することだけ考えるぞ」

「火ならつけられるだろう?」

 ヴィルヘルムは不敵に笑い、水筒を掲げた。蓋を外し、手袋をその口に突っ込む。火酒をたっぷり吸わせると、滴が垂れた。

「火をくれ。これに点けて荷台へ投げ込む」

「いいアイデアだ。この混乱に乗じて逃げるぞ」

 ジークハルトは長銃の火打ち機構を作動させ、火花を散らす。なかなか引火せず苛立ちながら繰り返すと、不意に火がついた。

 彼は火のついた水筒を右手に持ち、仲間に指示を飛ばす。

「俺が敵の隠れている荷台にこれを投げ込む。火がついたら全員、一目散に山へ逃げろ。ハンスたちも撤退するはずだ。向こうに追撃する余力はない。山まで逃げ切りゃこっちの勝ちだ」

「なら私が援護しよう。でなければ伍長が逃げられまい」

 ヴィルヘルムの勇敢な申し出に、ジークハルトは一瞬考えたが、首を振る。

「いいって。お前の腕じゃ俺に当たりそうだ」

 猟兵たちは鼻で笑った。窮地でもこういう調子なのは、いつものことだった。ヴィルヘルムもグスタフも笑えはしなかったが、その雰囲気だけは理解でき、緊張がわずかに緩んだ。

「じゃあ行ってくる。さっさと逃げろよ。でないと命張る意味がなくなる」

 ジークハルトは荷台の陰から飛び出し、松明のように水筒を掲げて接近する。天幕が燃えやすい布であることを確かめ、投げ入れた。栓代わりの手袋が抜け落ち、液体が天幕に染み、そこへ炎がまとわりつく。瞬く間に大きな火柱が立った。

 そのとき――

「待て! 盗賊崩れが!」

 背後に銃を構えた共和国軍の兵士が現れた。遮蔽物はなく、体勢も悪い。銃剣はついているが間合いが足りない。

 体感時間が伸び、兵士の顔だけが異様なほど鮮明に認識される。

 ――無益な刹那を、ヴィルヘルムの銃声が断ち切った。

「ジークハルト! 早く来い!」

 被弾した兵士はよろめきながらも引き金を引き、ジークハルトの真横を銃弾が風を裂いて通り過ぎ、十数m先に着弾した。

 ジークハルトは、一瞬で現実の時間に引き戻された。

「ハハハ! 助かった、ヴィルヘルム!」

 思わず王族の名を叫んでいた。頭の中ですら彼をそう呼んだことがなかったというのに、不思議な感覚だった。

 退避しながら胸に満ちたのは、名前もない高揚感だった。

 ヴィルヘルムもまた混乱していた。荷台を離れてからずっとジークハルトを気にかけ、いつでも引き金を引ける体勢だけは整えていたが、命中させる自信はなかった。銃の精度の低さもあるが、そもそも自分が撃つべき瞬間に撃てるか分からなかったのだ。

 しかし、敵兵を捉えた瞬間、心の雑音は消え、純粋な意志だけが引き金を引かせた。仲間の猟兵たちが彼を呼ぶように、思わず彼の名を叫んでしまったことに、後になって気づくのだった。

 山へたどり着くと二人は息を吐いた。生き延びた、という実感が遅れて胸を満たすと不思議と笑いがこみ上げた。

「私だって役に立てたろう? ジークハルト」

「いや、まぐれ当たりだ。ヴィルヘルムの腕じゃ、ありえない」

 戦場で二人が心を通わせるには、銃弾がすれ違うその刹那だけで十分だった。

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