第2章:泥中の篝火(かがりび)

小学四年生まで過ごした集落を離れたのは、私が五年生になる春のことだった。


父が漁師を辞め、当時活況を呈していた対州鉱山へと転職したのだ。それまで一学年数名しかいなかった分校から、一転して一クラス三十人、四クラスも並ぶマンモス校への転校。私にとっては異世界へ放り出されたも同然だった。


余所者(よそもの)への洗礼は容赦なく、転校早々にいじめの標的となった。だが、家という修羅場で生き抜いてきた私の芯には、同年代の子供にはない「狂気」に近い強さが宿っていた。拳で己の居場所を勝ち取り、学校での地位を築くのに、そう時間はかからなかった。


しかし、一歩家へ戻れば、そこにはさらに激しさを増した地獄が待っていた。

父の仕事である鉱山は「◯◯組」という組織に所属し、荒くれ者たちがひしめく力の世界。その環境が父の酒乱に拍車をかけた。父は同僚と喧嘩を繰り返しては親方さえも殴り飛ばし、組を転々とした。それに伴い、私たちの住まいである社宅もたらい回しにされた。


腫れ上がった運動会


小学六年生の運動会の朝。

高鳴る胸を抑えて目を覚ますと、隣の部屋で父と同僚が既に酒を酌み交わしていた。

「今日の運動会は何時から始まるのか」

父の問いに、正確な時間を答えられなかった。ただそれだけの理由で、父の拳が飛んできた。


私は応援団だった。だが、鏡に映る自分の顔は無残に腫れ上がっていた。みんなの前に立ち、声を張り上げながら、私はどこかで安堵していた。父が来ないこと。それが何よりの救いだった。

昼食時、校庭は家族団欒の輪で埋め尽くされる。親が腕によりをかけた弁当を囲む級友たち。その喧騒を離れ、私は誰もいない教室の机で、店で買った味気ないパンを一人で齧(かじ)った。

寂しさよりも、校庭で父が酒を飲み騒ぎを起こさないことへの安堵が勝っていた。そんな自分に、幼いながらも絶望していた。


日本刀の捜索


この頃、父の暴力が始まると、私は靴を履く暇もなく、裸足で夜の闇へと飛び出した。捕まれば、文字通り放り投げられる。知り合いの家へ駆け込み、泥に汚れた足を隠して朝を待つ。

翌朝、息を殺して玄関を開け、父が泥酔して眠っているのを確認してから、教科書を揃えて学校へ向かう。朝食など、一度も食べた記憶がない。


ある日、父が同僚との喧嘩で日本刀を振り回し、警察の家宅捜索が入った。

家には私一人。警官と一緒に押し入れを調べていた時、私は布団の奥深くに隠された「それ」を、警察よりも先に見つけてしまった。

父への愛情など微塵もない。庇う義理もない。だが、私の指先は本能的にその冷たい感触を、さらに奥へと押し込んでいた。

警察は見つける事が出来ず引き揚げた後、私は独りその刃の重みを暗闇の中で感じていた。


中学生になり、私はクラスの会計係を任されていた。級友たちから預かる通学バスの運賃。それは私にとって、自分の小遣いよりも遥かに重い、決して手を出してはならない「他人の金」だった。


だがある時、学校から給食費の徴収を告げられた。折悪しく、父は一ヶ月もの間、宿泊型の自動車教習所へ通っており、家を空けていた。生活費は底をつき、母の手元に残されたのは、わずか千数百円という端金(はしたがね)だけ。

追い詰められた母の背中を見ていると、どうしても「お金が必要だ」とは言い出せなかった。


私は震える手で、クラスメートから集めたバス料金の袋に手を伸ばした。

(すぐになんとかして返すから……)

心の中で何度も謝りながら、そこから給食費分を抜き取った。

ただ、会計係として合わない帳尻をどう誤魔化すか、発覚して親にさらなる迷惑がかからないか、そればかりを考えていた。

その時に感じた「罪の意識」は、数十年経った今もなお、刺さった棘のように私の胸をチリチリと焼き続けている。


そんな家族の犠牲と、綱渡りのような苦労の末にようやく取得した運転免許だった。

だが、父はそれを大事にすることなどなかった。その後、父は何度も飲酒運転による事故を繰り返し、結局、免許は取り消しになった。

家族を泥棒同然の境遇にまで追い込んで手にした資格を、酒のためにあっさりと投げ捨てたのだ。父にとって、家族の献身など、その程度のものでしかなかった。


六畳一間の籠城


中学生になると、社宅の隣に六畳一間を借りてもらい、そこが私の城となった。

六歳ずつ離れた二人の妹。親たちが夜の集落に消えると、私が味噌汁を作り、三人の兄妹で食卓を囲んだ。

二歳になったばかりの末の妹を真ん中に、一つの布団に三人で川の字になる。だが、私たちは眠る訳にはいかなかった。酔った父が帰宅した瞬間、即座に逃げ出せるよう、服を着たまま、息を潜めて足音を待つのだ。


深夜、帰宅した父が私を呼びつける。支離滅裂な説教を、明け方まで聞かされる。

「はい」

私が返事をした瞬間、父は逆上する。

「その返事の仕方は何だ!」

殴られるのが日課。翌朝は常に寝不足と腫れた顔。家族との思い出をいくら手繰り寄せても、楽しかった記憶は何一つ残っていない。


唯一の「優秀賞」


そんな泥濘(ぬかるみ)のような日々の中で、たった一度だけ、私に光が射した。

同級生と二人、放課後の理科室にこもり、ひたすらに科学の研究に没頭した。その地道な努力が、読売新聞社主催の「日本学生科学賞」長崎県審査で、優秀賞という形になった。


賞状を手にした時、私は初めて希望を感じた。

暴力でもなく、酒でもなく、知性と努力が正当に評価される場所。

それが、殺伐とした私の少年時代において、唯一、色を帯びた輝かしい記憶である。

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