それでも生きている人が、ここにいる

イルカ

第1章:呪縛の原風景

私の記憶の最も古い断片は、潮の香りと、独り取り残された家の縁側の冷たさにある。


長崎県対馬市、断崖と海に囲まれた小さな集落。本家の長男として生まれた父は漁師だった。両親は夫婦で漁に出ていたため、物心ついた三、四歳の頃の私は、いつも縁側に座り込んで水平線を見つめていた。両親を乗せた船が帰ってくるのを、ただひたすらに待っていた。


だが、再会の喜びは、その直後に始まる地獄の前奏曲に過ぎない。

夕闇が迫ると、父は酒を煽り始める。好きな酒を飲んでいるはずなのに、なぜこの男は、これほどまでに不機嫌に、獰猛に変貌していくのか。幼い私には理解しようもなかった。


アルコールが血管を駆け巡り、父の中の「一線」を越えた瞬間、母への罵詈雑言が始まる。


やがて父は、さらなる獲物を求めるように他人の家へと飲みに出かける。母は、影のようにその後を追った。酔った父が他家で暴力を振るわないよう、その身を挺して止めるために。


一人残された暗い家で、私はただ震えていた。

案の定、父は喧嘩をして帰ってくる。沸騰した怒りの矛先は、常に逃げ場のない母へと向けられた。殴り、蹴り、髪を引きずり回す。それが、私の日常という名の儀式だった。


新聞少年の歌


小学三年生の頃だった。

当時流行っていた、山田太郎の『新聞少年』を口ずさみながら帰宅した。子供心に、ただの鼻歌だった。

だが、家の中には知人と酒を酌み交わし、泥酔した父がいた。私の歌を聞くなり、父の顔色が変わった。

「子供が、なんちゅう歌を唄いよるか!」

いきなり呼びつけられ、有無を言わさぬ暴力の雨が降り注いだ。意味もわからぬまま、私は畳に伏してひたすら謝り続けた。だが、酒の獣と化した父に言葉は届かない。止めに入った母も同様にボコボコにされ、部屋の中には血とアルコールの臭いが充満した。


ある日は、学校にそろばんを忘れて帰っただけで、夜道を学校まで走らされた。そろばんを抱えて戻ると、家へ続く小さな橋の袂に父が立っていた。

父は私の手からそろばんを奪い取ると、それで私の頭や体を、そろばんが粉々に砕け散るまで殴りつけた。


その橋は、私にとって恐怖の象徴だった。かつて父は、実の親である私の祖父母さえも、五メートルの高さから川底へ突き落としたことがある。川底には大きな石が転がっている。命があったのは、奇跡というより、神の悪戯のような幸運でしかなかった。近隣の叔父、叔母たちも、父の犠牲者だった。

この男は、誰彼構わず破壊する。その恐怖が、私の骨の髄まで染み込んでいた。


「キャフン」という断末魔


私には六歳ずつ離れた二人の妹がいる。

長女がまだ赤ん坊だった頃の光景は、今も私の夢の中に現れる。

赤ん坊の泣き声が、酒に酔った父の神経を逆撫でした。父は泣き叫ぶ妹の両足を掴んで頭上まで持ち上げると、力任せに畳へと叩きつけた。

障子一枚を隔てた隣の部屋で、私は隙間からその光景を覗き見ていた。

「キャフン」

妹の口から、聞いたこともないような声が漏れた。それは泣き声ではなく、命が消える寸前の断末魔のように聞こえた。

(死んだ。妹が死んでしまった)

恐怖で指一本動かせなかった。当時の父は体格が良く、暴れ出せば大人三人がかりでも抑えられない怪物だった。子供の私にできることなど、何一つなかった。


「オヤジ」

私は、父が亡くなるその日まで、一度もそう呼ぶことができなかった。呼ぶことが許されないほど、その存在は圧倒的な「暴力」そのものだった。

人生のどこかで、一度だけでもいい。普通の親子のよう、真っ直ぐに向き合って「オヤジ」と呼んでみたかった。

その叶わぬ願いは、今も澱(おり)のように私の心に沈んでいる。

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