第7話
王都の城壁が見えたとき、私は馬上で深く息を吸い込んだ。
次々と制圧してきた周辺領の旗が、私たちの背後に連なっている。
抵抗した領は少なかった。
兵力は3万に膨れ上がり、象兵も合流した。
──王都を落とし、王の首を。
「市街地門に向けて、大砲を撃って」
私の号令で、砲声が空を裂いた。
石造りの門が震え、煙が立ちのぼる。
「白旗を振っているようです!」
斥候が、馬を駆って戻ってきた。
私は眉をひそめる。
「王が、簡単に降参するとは思えない」
「タウンハウスにいた貴族たちでは?」
聖騎士ミレスが、冷静に言った。
確かに、王族同士の諍いでは損害が出ても賠償は求められない。
ならば、強い方につくしかない。
「捕虜にしましょう。先鋒隊を出して拘束して、連れてきて」
「承知」
伝令が駆けていく。
私は、門の向こうを見つめた。
この先に、すべての決着が待っている。
しばらくして、事情聴取を終えた兵が駆けてきた。
「捕虜の情報では、王国軍は予想通り5,000です」
「そうでしょうね。
歳入の2割を各辺境の軍費にあててたのだから、王宮で抱えられる兵数は1万ちょっとが限界。
恐らく赤字だから、ゴム製品の利益を寄越せと言ってきたのよ」
自分で撒いた種を、私に刈らせようとした。
その傲慢さが、今の王国を腐らせた。
「投降した貴族たちが、協力を申し出ております」
「簡単に寝返る人を信用しても、仕方ないでしょう。
一応、誰が何できるかリストにしといて。暇なとき見るから」
「貴族に続いて、民も投降しています」
「ここに出てこられても困るのよね。とりあえず捕縛して、避難所作って」
次々と出てくる人々に、門を攻撃する隙がない。
私は、ため息をついた。
「……夜営準備」
そう言った瞬間、あくびがこぼれた。
伝令も、つられてあくびをする。
──長い戦だった。
明日には、王都の門が開くだろう。
その先に、娘がいる。
朝靄の中、王都の門前には人の波ができていた。
投降者は一晩中続き、住民の2割が城外へと出てきた。
疲れ切った顔、怯えた目、そして中には官僚の姿も混じっている。
白旗を掲げた彼らは、もはやどちらが勝者かを悟っていた。
「逃走兵が相次ぎ、王宮兵は残り4,000。士気も低く、闘うまでもありません。
護衛部隊と王太子が討たれたのが、効いてるようです」
伝令の報告に、私は頷いた。
あの夜、グロムが片手で王太子を仕留めたと聞いたとき、私は何も思えなかった。
原作のルシーナも、殆ど会ったことのない兄が死んだところで、タカりが減ったとしか思わないだろう。
「そろそろ進軍しよう。キリがない」
ライガが、馬の手綱を握りながら言った。
「おいが先鋒する。姫さんは、後で来ればいい」
グロムが、いつものように頼もしく笑う。
けれど、私は首を横に振った。
「投降者を先頭にするのよ。なるべく、偉い貴族」
「そりゃ、王も攻撃しにくいな」
ライガが苦笑する。
私たちのやり方は、いつも正攻法ではない。
でも、それで勝ってきた。
高位貴族たちが先頭に立ち、象兵に挟まれて進む列の中、私は馬車の中で静かに息を整えていた。
窓の外には、かつての王都の華やかさが、 今は沈黙と白布に包まれていた。
「浮かない顔だな。娘のことか、父のことか」
「どちらにせよ、楽しくはないわね」
ライガが、隣に座る私をそっと抱き寄せた。
その腕の中にいると、少しだけ心が緩む。
「ルシーナは、本当に偉大だ。ここまで、よくきた。
ルシーナがいなければ、グランツの名は地図から消えてただろう」
「ありがとう。でも、それはすべて終わった時に言って」
「そうか……。だが、もう1つ言いたいことがあるんだが」
私は「何?」と、顔を上げる。
「──生まれ変わったら、結婚してくれ」
「何で、来世?」
「今世のルシーナは、結婚したくないのだろう。それに、俺に王配は勤まらない」
私は何とも言えず、黙る。
ライガとの間には2人も子がいるし、この先まだ増えるだろう。
そうしたら……将来的に、彼が望んでくれるなら……。
でも、それを言う勇気はなかった。
言うには、引っ掛かることが多い。
──エリセ、カスパル、アデル、そして、娘のこと。
「愛してる。次も、子供たちと4人で家族になりたい」
彼の唇が、私の額にそっと触れた。
胸が、少しだけ痛んだ。
そして、同時に喜びで満たされもした。
王宮の前まで来ると、重々しい音を立てて門が開いた。
城壁には、白い布が垂れ下がっている。
風に揺れるその布が、まるで幕引きの合図のように見えた。
「終わったようだ」
ライガが、静かに言った。
「最後まで、気を抜かないで」
私は銃を手に取り、馬車を降りた。
この足で、すべてを終わらせる。
謁見の間に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
冷たい石の床、高くそびえる天井、そして玉座の前に立つ男。
父王が、私の娘の肩を抱き、刃物をその小さな喉元に当てていた。
「来るな!」
父王の声が、空間を裂いた。
私は一歩も動かず、ただ娘の顔を見つめた。
紺の髪に、私と同じラベンダーの瞳──怯えた表情を浮かべていた。
「……なぜ、逃げなかったの?」
苛立ちと恐怖を押さえて、父に訊ねた。
「逃亡生活などしたくない」
「勝手な人」
その瞬間、地の底から突き上げるような爆発音が響いた。
──ドーン、バーンッ!
城が揺れ、天井の石が崩れ落ちる。
「まさか、火薬を?!」
「心中してやる!」
「バカなことを……っ!」
「ぐっ──」
王の体が、ぐらりと傾いた。
首元に突き刺さったナイフが、深く沈んでいる。
イシュカが、柱の陰から現れた。
「話は後にして、一旦逃げよう」
グロムが、素早く娘を抱き上げる。
その腕の中で、娘が小さく震えていた。
私は彼女の手を握り、頷いた。
──もう大丈夫。もう、離さない。
出入り口に向かって走る。
だが、廊下の奥から、次々と兵が現れた。
「これを狙ってたのね。まるでゾンビゲームよ」
狭い廊下には、3万の兵は入ってこられない。
だから、わざと降参したふりをして、私たちを城の中に誘い込んだ。
「戻って、王の首を持ってきた方が早い!」
大将の首を見れば、敵は戦意喪失する。
「大丈夫だ。持ちこたえられる、信じろ」
ライガの声が、背中から届いた。
私は振り返り、彼の紅目を見た。
その瞳に、迷いはなかった。
──信じる。
この人と、皆と、ここまで来た。
なら、最後まで進むだけ。
玄関近くまでたどり着いたとき、 突然、一際大きい爆音が響いた。
──ドガァンッ!
床が跳ね、視界が白く染まる。
私は吹き飛ばされ、背中を強く打った。
耳鳴りの中で、かすかに聞こえた声に、心臓が凍りつく。
「シャルル!」
私が娘につけた名前。
アデルの“ル”と、私の“ル”を重ねた名前。
その名を叫びながら、私は手を伸ばし、 瓦礫の中から彼女を抱きしめた。
──ザクッ。
何かが、胸に突き刺さる感触。
痛みは、すぐには来なかった。
ただ、温かいものが服を濡らしていく。
見下ろすと、私の胸にナイフが刺さっていた。
その柄を握っていたのは──シャルル。
「私を家族から遠ざけた酷い母親。あんたなんか、ママじゃない!」
彼女はナイフを引き抜き、血のついた手でライガに駆け寄った。
「パパ!」
ライガが、彼女を抱き上げる。 そして、私に剣を向けた。
──何が起きてるの?
聖騎士ミレスが、咄嗟に私の前に立ちふさがる。
だが、彼はすでに負傷していた。
剣が彼の肩を裂き、血が飛び散る。
私は崩れ行く彼に、必死で手を伸ばす。
同時に、イシュカがナイフを投げる。
だが、ライガはそれを剣で弾いた。
次の瞬間、グロムが咆哮を上げてライガにタックルする。
2人の巨体が壁に激突し、石が砕ける音が響いた。
シャルルが、衝撃で弾き飛ばされる。
私は声を出そうとしたが、喉が震えるだけだった。
──声が、出ない。
そのとき、伏兵が現れグロムの背を斬り裂いた。
彼の巨体が、ぐらりと揺れる。
やめて……!
心の中で叫んだ。
イシュカが、最後の力を振り絞って伏兵に突っ込む。
その瞬間、爆発が起きた。
イシュカが自爆したのだ。
炎と破片が視界を覆い、私は咄嗟に目を閉じた。
──パオォォォン……!
象の鳴き声が、外から聞こえた。
その音を最後に、意識が闇に沈んでいった。
「殿下ああああ!」
フレアの叫びが、近くから聞こえた。
まぶたが重く、体は鉛のように沈んでいた。
それでも、私はゆっくりと目を開けた。
天井が見えた。
白く、静かで……病院?
起き上がろうとした瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
「うっ……」
「安静にして。傷は浅いが、場所が良くない」
侍医カークスの声が耳元で響く。
私は言われるまま、再び枕に頭を預けた。
「……状況を」
「すべて、ライガが仕組んだことだった」
その言葉に、胸の奥が冷たくなる。
けれど、私は感情を押し殺して言った。
「被害と状況について、簡潔に。まず、ここはどこ?」
「ここは王都」
私は、目を見開いた。
王都に、まだいたの?
「市民は何も知らず、純粋に投降したんだ。安全だから大丈夫。敵兵は殲滅。
ただ……王宮に隠れていた伏兵が手練れだったのと、兵を率いていたライガの手下が裏切ったため、1万以上の味方兵が死傷。現在の戦力は1.5万。
王宮の本宮は半壊、取り壊し作業中」
「……ミレス、グロム、イシュカ」
「ミレスは重傷だが、回復の見込みあり。グロムは、辛うじて生きてるが……イシュカは即死だった」
私は大きく息を吸い、顔をしかめた。
胸の痛みより、心の痛みの方が深かった。
「私以外の王族は?」
「拘束されて牢に。
王女はすでに嫁いでおらず、第2、第3王子は遠方にいて、そのまま逃走。
ルシーナ様を刺した子も、牢にいるが……?」
私は小さく頷いた。
今は、まだ考えたくない。
「グランツ兵が、王都を制圧してるのね」
「そう」
「グランツ領は?」
「クレーラ国の王が暗殺され、クレーラ軍は撤退。
ブレン国はグランツ軍に敗れ、国内で暴動が頻発している。もうすぐ現王は、倒されるだろう」
「グランツ領の被害は?」
「敵兵数がたったの5,000だったため、野戦で勝ったよ。損失は1,000程度と」
私は静かに頷いた。
皆、よく持ちこたえてくれた。
「もう少し回復したら……そうね、1週間後に戴冠式をやる。車イスを用意しておいて」
「無茶だ」
「私が無茶しなかったこと、今まである?」
カークスが、深くため息をついた。
彼の水色の髪には、白いものが混じってる。出会った時にはなかった。
彼にも苦労をかけた。
「他に反対勢力は?」
「殿下が意識不明なのをいいことに、12の領が反目しましたが、王都に攻めてはきません」
フレアが前のめりに答えた。
「私の目が覚めたことを、大々的に公布して。戴冠式の日もね」
「わかりました!」
フレアが駆けていく。
私は目を閉じ、深く息を吐いた。
──終わりが、近づいている。
でも、まだ終わっていない。
この手で、すべてを締めくくる。
それが、私の責任。
初夏の空は高く澄んで、王都の空気は清らかだった。
私は白い礼装に身を包み、包帯を巻いた胸元を隠すようにマントを羽織っていた。
王冠の重みが、頭にずしりとのしかかる。
それでも、私は背筋を伸ばして立った。
広場を埋め尽くす人々の視線が、私に注がれている。
その中には、涙を流している者もいた。
この姿を見て、何を思っているのだろう。
私はもう、大声を出せない。
だから、代わりに秘書官が宣誓を読み上げた。
「本日をもって、ルシーナ・アルディアは、アルディア国の女王に即位しました」
胸の奥が熱くなる。
私がここに立っていることが、奇跡のようだった。
単なる忌み子だったのに。
ゴム製品の流通再開を告げると、民たちの歓声が空を揺らした。
その音に、私は微かに微笑んだ。
「さすがに少し疲れたわ」
「ゆっくりお休みください」
メイドの声に頷きながら、私は静かに部屋へ戻った。
パレードは省略。
王冠を外し、ベッドに身を沈める。
まだ、終わっていない。
でも、少しだけ──眠りたい。
秋の中央広場に、処刑台が組まれていた。
空は高く澄み、落ち葉が風に舞っていた。
手錠をかけられた囚人が並ぶ。
片腕を失った27歳の青年、アデル・グランツ元辺境伯。
眼帯をつけた31歳の男、ライガ・グランツ元辺境伯。
血縁上の弟である第4王子と第5王子。
反目した領主たち。
そして、幼い娘──シャルルの姿もあった。
「ぼ、僕は本当に知らなくて……騙されていただけで、ライガに……記憶がないから……陛下がグランツ領を乗っ取ったと言われて……」
ギロチンを前に、アデル──シャルルの父親が震える声で訴える。
その姿に私は、ただ呆れた顔を向け、手を上げた。
「ま、待って! 最後に、種を!」
「種?」
「記憶がなくなった時に、懐に大事そうにしまってあった。"植物園"と包み紙に書かれてた」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
──あの時。
デートスポットがないなら作ればいいと、話したことがあった。
植物園はまだ早いからと、まずぬいぐるみ館を作った。
……彼は、こっそり植物園を造ろうとしたのか。
「やっぱり……貴女と何か約束したんだね。それだけは、貴女に持っていて欲しい」
「どこにあるの?」
使用人が、包みに入った種を持ってくる。
私はそれを受け取り、そっと見つめた。
「6年も前の種なら、育たないかもしれないわ」
「持ってて欲しい」
「……わかった」
アデルが、ほっとしたように笑った。
その顔に、かつての面影が一瞬だけ戻る。
そして──
私は、手を振り下ろした。
断頭台の上に、彼が立った。
眼帯をつけたまま、何も言わず、ただ前を見ていた。
紺の髪は風に揺れ、紅目はどこか遠くを見ていた。
その横顔は窶れたものの、美しいまま。
私は立ち上がり、ライガを見つめた。
「私ずっと、あなたに言ってなかったことが1つあった」
彼が、わずかに眉を動かす。
「私も、あなたを愛してた。いえ、違う。私“は”あなたを愛してた」
その瞬間、彼の片目が見開かれた。
けれど、何も言わなかった。
私は手を上げた。
──刃が振り下ろされ、音もなく首が落ちた。
私は席を立ち、背を向けた。
風が、白いマントを揺らす。
「シャルル様に、最後に何も言わなくていいのですか?」
フレアの声が、背後から届いた。
私は振り返らずに答えた。
「彼女は生涯幽閉にする。他は予定通り処刑に」
シャルルが幼いが故に恩赦することは簡単だけど、その後の彼女の人生は?
大罪人グランツ家の血を引く彼女を後継にも、まして王女にもできない。
庶子として原作のルシーナのように後宮の隅に、生かしも殺しもしないで置いておくしかない。
そして、いつ暗殺されるかわからない人生を……。
それなら遠い海外にやった方がいい。
もう会えなくなったとしても。
──2度しか、腕に抱けなかった。
ごめんなさい。
来世は、もっとマシなところに生まれて欲しい。
私なんかのところじゃなくて。
グランツ城の中庭に、春風が吹いていた。
私は馬車を降りると、駆け寄ってきた小さな影に腕を広げた。
「マンマ! おかえり!」
4歳になった息子が、笑顔で飛びついてくる。
その後ろから、2歳の娘がよちよちと歩いてきた。
ライガとの間に産まれた子達。
「あいやー」
「ただいま」
2人を抱きしめながら、私は微笑んだ。
「おねえちゃんは? 一緒に帰るって言った」
私は少しだけ目を伏せて、袋の中から小さな包みを取り出した。
アデルが最後にくれた、あの種。
「あなた達のお姉さんは、種になってしまったの」
「たね……うえたら出てくる?」
「そうね。植えてみましょう」
私はそっと微笑み、2人の手を取った。
その時、メイドが駆け寄ってきた。
「お客様がお越しです。エリセ・ノルン様です」
応接室の窓から差し込む午後の光が、紅茶の表面に淡い金色の輪を描いていた。
私はカップを持ち上げ、口をつける。
香りは良い。けれど、味はしなかった。
「一緒にグランツ城を出た当初は『辺境伯になっても借金ばかりで旨味なんて、たいしてないから』って言ってました」
小説"辺境に散る花"のヒロイン、エリセ・ノルンは、相変わらず幼い顔立ちをしていた。
オレンジ色の髪を結い上げ、 そばかすの浮かぶ頬に、微かな紅を差している。
けれど、髪と同色の瞳には、かつての無垢な光はなかった。
「そう」
私は短く返す。
彼女の言葉の続きを、待った。
「でも陛下のビジネスが成功して、領が変わっていくのを見て『早まったかも』って。
それから彼はブレン国とクレーラ国にグランツ領の情報を流し、開戦するよう促しました。まずは自分がアデル様に代わって、領主になるためです。
シャルル様が王宮に運ばれてからは、手下を使って近づく方法を探しました」
シャルル──
娘の名前に、心臓がひとつ跳ねた。
「シャルル様は、陛下が冷遇姫だった頃の部屋に、乳母1人だけがいる状態で放置されていました」
「何故、爵位もない彼が、後宮のことを知ってるの?」
ライガはグランツ家の次男というだけで、当主を継ぐまで爵位は持ってなかった。
「ライガは貴族相手に後ろ暗い商売をしてたので、王都でもよく取引していたのです」
「なるほど。──乳母を抱き込んだのね?」
彼女が頷く。
「シャルル様に近付いたのは、陛下の弱味を握るためでしたが……最終的には女王にして、自分が摂政につくつもりだと言ってました」
私はカップを置き、指先で縁をなぞった。
自分に王配は務まらない、などと言っておきながら、とんでもない野心家だった。
──ある意味、彼らしい。
スペックは高いが衝動的で、不遜な性格。
それでも、エリセが彼の名前を口にするたび不快感が募った。
平静を装って、話の続きを促す。
「アデルは一体、どこから彼に合流したの?」
「ジーク様は1度、アデル様の奪還に成功しました。囚人に連れ去られた時です。
アデル様を抱えた兵が帰城しようとしていたところを、ライガの仲間が襲撃しました。
そして数日後、意識を取り戻したアデル様は、記憶を失っていました」
「それで、ライガが囁いたのね? 私がグランツ領を乗っ取ったから、取り返さないとって」
彼女は、また頷いた。
私は深く息を吐いた。
「それで……あなたは今日、何をしに来たの? まさか、自分の知ってることを告白しに来たの?」
「ライガの遺した男の子がいます。私が産みました。その子を、次の辺境伯にすべきです」
「はい?」
「だってライガは、やり方は間違えたけど、主張は正しいじゃないですか。
この土地は、何代も何百年にも渡ってグランツ家が守ってきたのに、なぜ関係ない人間が統治を?」
「"地上の地獄"と呼ばれてたのよ、ここ。それは“守った”うちに入らないわ。外敵を蹴散らす代わりに、営利を得てただけよ」
「でも!」
「残念だわ。私はあなたに、良い印象を持ってたの。
アデルたちだって、あなたの名前を出さなかった。せっかく庇ったのに。わざわざ、しゃしゃり出てくるなんて……。
ライガの罪は、国家転覆罪と王族殺害未遂なの。計画を知ってて密告しなかった、あなたも罪に問われるのよ」
エリセの顔が、みるみる青ざめていく。
私は立ち上がり、最後に言葉を投げた。
「ライガに昔からついてる使用人の報告では、最初こそ彼はあなたに夢中だったけど、すぐに飽きたそうじゃない。
彼曰く──『純粋で清らかなものを汚してみたくなったが、抱いたら他の女と同じだった』そうよ。あなたの産んだ子は、誰の子?」
エリセは唇を噛み締め、声もなく涙を流した。
私は何も言わず、背を向けて部屋を出た。
紅茶の香りだけが、まだそこに残っていた。
春の庭に、子供たちの笑い声が響いていた。
花壇のチューリップが揺れ、芝の上を駆ける小さな足音が軽やかに跳ねる。
私はバルコニーからその様子を見下ろし、ふと微笑んだ。
「あら、ウォーリア辺境伯」
「陛下」
ヴァルクがこちらに気づき、軽く頭を下げた。
黒い外套の裾が風に揺れ、金の瞳が陽を受けてきらめいている。
前髪が目にかかっているのは相変わらずで、けれどその下の表情は、以前よりずっと柔らかかった。
「子供たちと遊んでくれてたの?」
「俺が育てたようなものだ」
彼は胸を張って言った。
私が居ない間、彼はずっと領地を守ってくれた。
剣を振るう手で、子供たちを抱き上げ、笑わせてくれた。
だから、彼を辺境伯に任命した。
「子育てが得意なのね。
……私はこれから、次代の王と辺境伯を産まなきゃいけないの。そういう役目だから。
協力してもらえないかしら?」
彼は4歳年上。
29歳なら、充分に“その役目”を果たせる。
私は彼の反応を待った。
「俺は、あなたを愛してしまうが。いいか?」
その言葉に、私は少しだけ目を見開く。
そんなふうに思ってくれてるなんて、知らなかった。
いや、ただ誠実なだけだろうか?
日本でも此処でも働きすぎて、その手の感情に私は疎いままだ。
「それに関しては……これから、ゆっくり相談しましょう」
風が吹いた。
庭の花が揺れ、子供たちの笑い声がまた響いた。
私はその音を聞きながら、微かに微笑んだ。
──ようやく、嵐が静まった。
これからは、未来を創っていく時間だ。
□完結□
異世界で未婚の母になることを選びましたが、シークレットベイビーではありません 星森 永羽 @Hoshimoritowa
★で称える
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カクヨムを、もっと楽しもう
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