第4話



 空気は凍てつき、吐く息が白くほどける。

 けれど、城門の前には、別の熱が立ちこめていた。


 ──肉の匂い。

 それも、ただの肉じゃない。

 スパイスと煙が混じり合い、空腹をえぐるような香り。


「なんだこの匂い……?」


 敵兵の声が、風に乗って聞こえた。

 私は、城壁の上からその様子を見下ろす。


 門が、ゆっくりと開く。

 けれど、そこには鉄格子と、さらに編み込まれた鉄網。

 突破は不可能。

 その奥で、兵たちが巨大な肉の塊をぐるぐると回していた。


 タンドリーチキン。

 鶏肉を香辛料に漬け込み、炭火で焼く。

 皮はパリパリ、中は肉汁が溢れる。


 予想通りだった。

 逃亡した囚人たちが、敵の補給線を襲った。

 生きる術が他にない彼らにとって、略奪は唯一の選択肢。

 そのせいで、敵は孤立無援。

 帰国もできず、進軍するしかなかった。


 でも、ここで止まる。


 私は、兵たちの食事を見守る。

 ライ麦と小麦を混ぜた皮に、チキンとキャベツをのせ、マスタード入りのマヨネーズをかけて巻く。


「うめええよ、うめええよ!」


 1人の兵士が叫ぶと、もう1人が頷いてカップを手にする。


「ふう、冷えるからスープも飲もう。ミネストローネ、暖まるなあ」


「うっめええええ!」


 兵たちの声が、城壁に響く。

 その音が、敵の心を削っていくのがわかる。


 私は、声を張った。


「みんな、それで満足してはダメよ。ラーメンができたわ」


「ズズズズズーッ!」


「さあ、チャーシューを炙って。

 手が空いてる人は、餃子を焼いてちょうだい」


「うまいよー! うまいよー!」


 敵陣がざわつく。

 飢えた目が、こちらを見ている。


「……あ、あの、投降するので……一口ください……」


 敵兵の1人が、震える声で叫んだ。

 すぐに、城壁の上からロープが降ろされる。


「1人ずつ登れ」


 投降兵がロープを掴み、登り始めた──

 その瞬間、味方の矢が彼の背を貫いた。


「バカやろう! 食いもんなんかにつられやがって!」


 敵の大将が怒鳴る。

 その隣で、副将が低く呟いた。


「門を破る前に、飢え死にする者が出てきます……」


「丸一日食べないくらいで、何だ?!」


 私は、城壁の上から声を投げた。


「籠城する側の兵が多いと、門は破れないわよ?」


 大将が、こちらを睨み上げる。

 けれど、言葉を返せない。

 ぐ、と唸るだけ。


 敵軍の背後に、土煙が上がった。

 ようやく、来た。

 あれは、侍医カークスが郊外で集めていた兵たちだ。砦の兵と合流してきた。


「やっと来たわ」


 私は、城壁の上から声を張った。


「我がグランツ軍は、8,000になったけど──どうする? 戦う?」


 敵の大将が、目を細めた。


「……時間を稼いでたのか」


「そうよ。壁を壊されたら、その分、直さなきゃいけないじゃない」


 敵将が、ふっと笑った。

 その笑みが、嫌な予感を呼び起こす。


「お前らの領主アデル・グランツは、こちらにいる」


 その言葉に、兵たちがざわついた。

 空気が一瞬で凍りつく。


「降伏するなら、返してやる」


 私は、目を細めた。

 その手に握った軍扇が、冷たく感じる。


「“いる”というなら、連れてきて見せるはず。もう死んでいるのでしょう?」


 敵将の顔が、わずかに歪む。


「生きていたとしても──領主1人の命と、領民の生活。

 天秤にかけるまでもないわ」


 沈黙。

 敵将は、何も言い返せなかった。


「全軍、構え」


 私が命じた瞬間、背後から声が飛んだ。


「待て! 待ってくれ! 早まるな、取引を!」


 ジークだった。

 紺の髪を乱し、額に汗を浮かべている。


「アデルの身柄を返してくれるなら── 投降兵を受け入れ、これを虐待せず。敗走兵は追撃しない」


 敵兵たちがざわつく。

 そのとき、別の声が響いた。


「バカが。敵の罠に嵌まるな」


 ライガだ。

 1年半ぶりに姿を表した。

 裏地の赤い外套を翻し、城壁の影から手勢を連れて現れた。


「ここで殲滅しなければ、またすぐ攻めてくるぞ。

 援軍が50キロ先にいる。1万だ。

 投降するふりをして、内側から反乱する気だ」


 再び、門前がざわつく。

 兵たちの視線が、私に集まる。


 私は、静かに息を吸った。


「落ち着きなさい」


 声は、冷たく、けれど確かに響いた。


「カークスが、郊外に兵を集めに行っている。兵は、まだ増える。

 城には兵糧もある。地の利もある。

 山賊の投入も、まだしていない。

 そして──王女である私が、ここにいる」


 私は、軍扇を高く掲げた。


「それに、逃亡囚人が敵の援軍をまた襲うでしょう。

 恐れるに足らない!」


 兵たちの顔に、光が戻る。

 槍を握る手に、力がこもる。


「守壁兵──矢の雨を降らせよ!」


 私の号令とともに、城壁の上から無数の矢が放たれた。

 黒い雨のように、敵陣を覆い尽くす。


 逃げようとする敵兵を、砦や郊外から来た兵たちが斬る。

 雪の上に、赤い筋が走った。


 私は、軍扇を握りしめたまま燃えるような気持ちで、戦場を見下ろしていた。



 しばらくして矢の雨が止んだ。

 静寂が、戦場を包む。

 鉄格子が軋みを上げて開き、主軍が一斉に突撃した。


 敵は、あっという間に崩れた。

 飢えと疲労、そして士気の崩壊。

 もはや戦う力など残っていなかった。



 ──決着がついた。


「息のあるものは捕虜に。

 死体は援軍に“プレゼント”した方がいいわ。

 このまま放置しておいて。

 矢と武器、鎧は回収して」


 私の声に、兵たちが動き出す。

 勝利の余韻に浸る暇はない。

 次が、来る。



 ジークと家臣団が、戦場を駆け回っていた。


「アデル! アデル!」


 その声に、兵たちが振り返る。

 そして──


「いた! 武器箱の中だ!」


 アデルは、血まみれの布に包まれ、折れた槍の下に埋もれていた。


「まだ息がある! 医者を呼べ!」


 ジークの叫びが、空に響いた。


 私は、すべてを見届けたあと、ふっと意識が遠のいた。


 気づけば、誰かの腕の中。

 これは……ライガだ。

 彼の肩越しに、空が揺れていた。


「ま、待て! どこに行く!」


 聖騎士ミレスの声が、追いかけてくる。


「城で寝かせた方がいいだろ」


 ライガの声は、低く、静かだった。




 すでに空は暗く、蝋燭の灯りが揺れていた。


 私は、ハッと目を覚ました。


「気がつきました? 気絶されたのです」


 メイドのフレアが、そっと水を差し出す。

 ──いつもの療養室だ。

 難産を経験したばかりの体で4時間以上、冬空の下にいれば倒れるだろう。

 ……実際に倒れた。


「──戦況は?」


「敵軍は、2キロ先に陣を張りました。

 明日、攻めてくるようです」


 私は、眉をひそめた。


「それは……おかしいと思わない?」


「え?」


「本隊が負けたら援軍は普通、撤退するのよ。

 なぜ、撤退しないの?」


 フレアが言葉に詰まる。


「兵数が多いから、勝てると思ってるのでは……?」


「今朝のが先鋒隊で、こっちが本隊なら……。

 “最新の攻城兵器”を持ってるから、引かないのでは?」


 フレアの顔が、青ざめていく。


「夜襲をかけましょう。

 朝が来る前に、やった方がいい。

 城下町を戦場にされたら、たまらない」


「す、すぐにジーク様に知らせてきます!」


 フレアが駆け出していく。

 私は、まだ冷えの残る身体を起こし、戦の続きを見据えた。


 ──まだ終わっていない。




 療養室の扉が開き、2人の影が差し込んだ。

 ジークは、額に巻いた包帯が血で滲んでいる。

 その隣に立つライガは、獣の毛皮を肩にかけていた。

 王の風格に一瞬、見とれかけたが、それどころではない。


「殿下の案は、最もですが……兵が疲弊しています」


 ジークの声は低く、苦しげだった。

 それも、そうだ。

 この数日で、何度も戦い、何度も死を見た。

 兵たちは、限界に近い。


「林の賊は?」


「捕まえに行くにも、距離と労力が……」


 私は、唇を噛んだ。

 時間がない。


「夜襲に乗じて、私が隣の領に行ってくる」


「いや、俺が行こう」

 ライガが1歩、前に出た。

「姫さんは書状をしたためてくれ」


「敵に見つかって追撃されたら、どうするの?」


「俺を捕まえるのに、敵は全軍で移動はしない。

 2、3千なら返り討ちにするさ」


 その言葉に私は一瞬、息を飲んだ。


「そう、頼もしいわ。……アデルは?」


「意識不明です」


 ジークの声が、静かに落ちた。


「だったら今、あなたが居なくなるより大将として指揮をとった方がいい。

 やはり、私が隣領に──」


「俺が大将なら残りの兵で勝つから、行かなくていい」


 ライガの声は、揺るがなかった。

 その背に、戦場の匂いが染みついている。


「おそらく、最新兵器を持ってると思う」


「だから、夜襲だろ? わかってる」


「……どうするつもり?」


「俺たちは狩猟犬を、たくさん飼ってる。狩猟がライフラインだったからな。

 犬は夜も鼻と目が利く。夜襲は得意だ」


 私は、静かに頷いた。


「……あれを」


 フレアが、ぎょっとした顔で振り返る。


「あれですか?」


「ええ。疲労の強い兵に、あれを」


「すぐ用意します」


 フレアが走り去り、しばらくすると、 あちこちから呻き声が上がり始めた。


 ──例のスッポン・ハブ・マカ・渡り鳥エキス、西洋ウコギ。

 飲んだ者は、皆、顔を真っ赤にしてのたうち回る。


「……突撃前に兵を殺すなよ?」


 ライガが、呆れたように言った。

 私は肩を竦め、作戦を伝える。


「真夜中に奇襲に成功したら、そのまま全軍で決着を。

 市街地門から1キロ以上離れてるなら、燃やしてしまえばいいわ」


「わかった」


 ライガは頷くと、従弟であるジークを連れて出ていった。




 先の戦が終わって、僅か半日。

 夜の帳がまだ残る空に、赤い火の手が立ち上った。


 城壁の上、私は双眼鏡を握りしめ、遠くの炎を見つめる。

 黒煙が、空を裂くように昇っていく。


 門が開き、残った兵たちが一斉に駆け出した。




 夜が明けた。

 空は薄青く、風が冷たい。

 私は、民を率いて城を出た。

 彼らの手には包帯と水袋、背には炊き出しの荷。


 戦場では、あちこちに兵たちが転がっている。

 泥にまみれ、血に濡れ、眠るように。


「状況は?」


 声を張ると、斥候が駆け寄ってきた。


「敵の援軍はありません!」


 別の兵が、血のついた布を巻き直しながら報告する。


「敵2,000近くが逃亡、1,800が投降。

 残りは全滅です。

 味方は、城に残っている負傷兵が2,000。こちらに生き残っているのが3,000」


「ご苦労様。武器を回収して、城に戻るわよ」


 辺りは、焼けた草の匂い。

 血の乾いた風。

 その中に、彼の姿があった。


 ──ライガ。

 肩に傷を負いながらも、まっすぐ立っていた。

 獣の毛皮が風に揺れ、紅目が私を捉える。


 聖騎士ミレスに合図して、地面に降ろして貰う。

 出産以降、移動は車椅子かミレスだ。


 私は、迷わずライガの胸に飛び込んだ。

 逞しい腕が、私をしっかりと抱きとめる。


「……終わったのね」


「ああ……終わった」


「お帰りなさい」


「……いいのか? 帰って」


「もちろん。……そのつもりで来たくせに」


 彼が、少しだけ目を伏せた。


「俺は……ただ……姫さんに危険がないよう、手下に見張らせてただけだ。

 ……来るのが遅くなって、すまなかった」


 私は、驚いて彼を見上げた。

 その瞬間、彼の顔が近づいて──


 唇が、触れた。


「……っ!」


 驚きで声も出ない。

 けれど、胸の奥が熱くなる。


「帰ろう。とりあえず……腹、減った」


「大量に作ったチャーシューが、まだあるわ」


「それが1番、食べたかった」


「嘘つき。チャーシューが何か、知らないくせに」


 ラーメンは作り置きできない。

 だから、普及させてこなかった。

 自軍の兵士に振る舞うに留めていた。

 長らく不在だったタイガーが、チャーシューを知るはずがない。


 彼が笑った。

 ──美しい顔に浮かぶ、少年のような無垢。

 それを見て私は、ようやく笑い返した。

 ……帰ってきた、私の元に。





「止まれ。この城は、俺たちが占拠した」


 勝利の余韻がまだ空気に残る中、その声は、まるで氷のように私たちを凍らせた。


 見上げると、囚人兵が血の滲む包帯を腕に巻き、城門の上に立っていた。

 顔には焼き印の跡。目はギラついている。


「っ……!」


 一般兵たちがざわめく。

 ライガが太い腕を組み、声を張る。


「お前たち少数で、何ができる?」


 その瞬間、囚人が意識のないアデルを、片腕で抱えて見せつける。


「アデル!!」


 ジークの悲痛な叫びが、空に響いた。


「何が目的?」


 私が問うと、囚人はにやりと笑った。


「俺たちが、ここの城主になる」


「はっ、そんなもん! いずれ国軍に鎮圧されるのが、オチだ」


 ライガ鼻で笑った。


「王女を人質にすれば、手が出せまい。

 ──こっちへ来い」


 私は、すぐに口を開いた。


「あなた、勘違いしてる。

 父王は、私を切り捨てるくらい、何とも思わないわ。

 母の身分が低くて、私は婚約が決まるまで認知すらされてなかったのよ」


 沈黙。

 囚人の顔に、戸惑いが浮かぶ。


「あなたたちは長い間ムショにいて、外の情報が遮断されてたから、知らなかったんでしょう?

 私が冷遇されてたのは、有名よ。

 だから今回も侮られ、近隣の領から援軍が来なかった。それで、あなたたちを、戦場に出さざるを得なかったの」


 再び、沈黙。

 しかし──


「と、とにかく来い! 人質だ!」


 私は、わずかに足を踏み出す。

 けれど、心が揺れる。


「迷わなくていい」

 ライガが低く言った。

「王女と領主の命、どちらが重いかなんて、分かりきってる」


 そのとき──


「ぐわっ!」

「あーっ!」


 背後で、悲鳴が上がった。

 振り返ると、こちらにいた囚人兵たちが、疲れきった味方の兵を襲っていた。


「裏切ったな!」


 ライガが剣を抜く。


「違う!」

 別の囚人が叫ぶ。

「アイツがああやった以上、関係ない俺たちも、どうせ罰せられる。

 それなら、ここで物資を奪って逃げた方がいい!」


「やめて! そんなことしない! 落ち着いて!」


 私は声の限り叫んだ。けれど──


「信用できない!」

「そうだ!」


 囚人たちは、聞く耳を持たない。

 混乱が広がる。

 兵たちは疲弊し、動きが鈍い。

 このままでは、崩れる。


「下がってろ。目立つな」


 ライガが私を庇うように立つ。


 そのとき──

 泥にまみれて戻ってきた狩猟犬たちが、低く唸りながら駆けてきた。


 牙を剥き、囚人たちに飛びかかる。

 悲鳴と怒号が交錯し、ようやく制圧が進む。


 けれど、まだ──

 城内に立て籠もっている。


「一旦引いて、立て直すの。撤退しましょう」


「嫌だ! 俺は1人でも行く!」


 ジークが、血走った目で叫ぶ。


「だったら、さっき奪ってきた攻城兵器を、城に向かって撃ちなさいよ!」


「はあ?! 何言って──」


「兵士は限界なの! このまま戦うなら、それしかない」


 ジークが、拳を握りしめた。

 そんなことすれば、城内にいる負傷兵や民も死ぬ。


「くそっ……撤退だ! 戻れ!」




 プチタウンにある娼館の一室。

 薄いカーテン越しに、朝の光が差し込んでいた。

 ベッドの上、私はライガと並んで横たわっていた。

 互いに疲れて動けずにいる。

 住民の女性が、そっと毛布をかけ直してくれる。


「チャーシュー、取られたか?」


 ライガが、ぼそりと呟いた。


「それより、機密文書でも見られたらどうするのよ」


 私が眉をひそめると、彼はふっと笑った。


「……なによ?」


「あいつらに、字が読めるわけないだろ」


 囚人のプロフィールに目を通した私たちは、知ってる。

 彼らの中には、元高官が多いこと。

 つまり、彼は私の不安を和らげるため気休めを言ったのだ。

 けれど、それは本当に気持ちを軽くしてくれた。



 気づけば、昼になっていた。

 私は、まだベッドの中。

 隣には、ライガがいた。

 端正な顔が近い。


 大きな手が、私の額に触れる。


「……熱はない」


「例の“あれ”飲んだから」


「あれは……ヤバイな」


 苦笑する彼の声に、私も思わず笑いそうになる。

 そこへ、食事が運ばれてきた。

 温かいスープと、焼きたてのパン。

 私たちは、静かに食べ始めた。


「それで?」


「そろそろ、最後の新兵が来るわ。たぶん2,000くらいね」


「グランツ城を陥とすには、少ないな。

 今残ってる兵は、ほとんど使いものにならん」


 兵士の多くが、連戦と移動と怪我で、ダウンしている。


「抜け穴を通れば、確実に勝てるはずだわ」


「抜け穴は、どこにある?」


「あなたが知ってるんじゃないの?」


「俺は身内じゃないんだよ。ジークは知ってるだろう」


 そのとき、扉が開いてジークが入ってきた。

 鎧の隙間から覗く傷跡が、まだ生々しい。


「それは、城主家族しか知らない。

 親父なら知ってるけど……早馬で往復4時間はかかる」


「なら、早馬を出して」


「しかし、少しでも早くアデルを救出しないと──」


「城に残されてるのは、アデル1人じゃないのよ。慎重にやらないと」


 私の言葉に、ジークが口をつぐむ。

 ライガが、静かに言った。


「姫さんの言う通りだ。伝令を出せ」


 ジークは渋々、手紙を書き始めた。


 私は、長く息を吐く。

 身体中がギシギシしている。

 ライガが、呆れたように言う。


「ボロボロのくせに、動き回るからだぞ」


「ねえ、どうして、私が出産したこと知ってるの?」


「一応、あいつ(アデル)の兄だから」


「……そう」


 私の知らないところで、内部と密に連絡を取り合っていたようだ。

 元々彼はグランツ家の次男なのだから、おかしいことじゃないけど。


 大きな手が、私の頬に触れる。

 そして──キス。


 唇が触れた瞬間、私は目を見開いた。


 ──なぜ?

 どうして彼は、私にキスするの?


 問いかける前に、彼の額が私の額にそっと触れた。

 その温もりに、言葉が消えていった。




 私は、薄いカーテンを指で押しのけ、 城下町の小さな屋根の連なりを見下ろした。

 空は茜色に燃え、遠くの山並みが黒く沈んでいく。

 思わず溜め息が、こぼれる。


「あまり、根詰めるな」


 背後から、低く落ち着いた声がした。

 振り返ると、ライガが壁にもたれていた。


「敵の城を落とすなら、焼き払うなりできるけど……。

 中には、負傷兵も、使用人も、避難民もいるのよ。

 どうしようもない……囚人を使うべきじゃなかった」


 私は、窓の外に目を戻した。

 あの城の中に、まだ人がいる。

 私たちの民が。


「あの状況では、仕方ない」

 ライガが、低く呟いた。

「俺が、もっと早く来ていれば……。

 用があって王都に行ってたんだ。

 開戦の知らせを聞いて引き返したが、敵は電光石火だった」


 そのとき、扉が勢いよく開いた。


「伝令が帰ってきた! 出陣しよう!」


 ジークだった。

 鎧の隙間から覗く腕には、まだ血が滲んでいる。

 紺の目は血走り、焦燥に燃えていた。


「まだ新兵が到着していない」


 ライガが、静かに言った。


「そんなの、待ってる場合ではない!

 そもそも、敵は多くて300! しかも負傷してる! 1,000あれば充分だ!」


「こちらの兵も、疲れきっている。

 これ以上、酷使するのはダメだ。

 新兵の到着を待て」


「うるさい! 俺たちは、何が何でもアデルを救う!」


 ジークは、怒鳴り返し、そのまま出ていった。


「おい!」


 ライガが追いかけようとする。

 私は、頭を抱えた。


「どうして辺境の男は、みんな短気なの?」


 ライガが、私の方を振り返る。

 その顔に、苦みが浮かんでいた。


「姫さんは、ここで寝てろ。俺が行ってくる」


「待って。徴兵に行った侍医に、伝書鳩を飛ばして。どのくらいで来るか、聞きましょう」


「待ってる場合じゃない。

 ジークがいなくなると、俺がいない時に総大将をやる人間がいなくなる。連れ戻す」


 私は、またため息をついた。

 けれど、止めることはできなかった。


 ライガが部屋を出ていく。

 その背中を見送りながら、私は胸の奥を押さえた。


「フレア、お願い。伝書鳩を」


「はい、すぐに!」


 メイドが駆け出していく。

 私は、再び窓の外を見つめた。


 夕陽は、もうすぐ沈む。

 夜が来る。

 そして、また──戦が始まる。



 窓から城を見続けた。

 夕闇に沈みかけた空を背に、あの石の城が、静かに佇んでいる。


 そのとき──ドンッ!


 空気が震え、窓が揺れた。

 グランツ城から、黒煙が立ち上る。


「……何が……っ! 火薬?!」


 私は思わず立ち上がった。

 胸がざわつく。嫌な予感が、背筋を這い上がる。


 扉が開き、フレアが駆け込んできた。


「最終の兵が到着しました! しかし…… 指揮をとる人間がいません。

 家臣団は皆、領主様を救出に行きました!」


 私は、すぐに外套を羽織った。

 その瞬間、聖騎士ミレスが現れ、私を抱き上げた。


「くれぐれも無理は禁物です。

 ──では、急ぎましょう」




 城に着いたとき、すでに火の手が上がっていた。

 石壁の隙間から、炎が噴き出している。

 空は赤く染まり、煙が空を覆っていた。


「中に女性と子供、負傷兵がいるのよ!

 救出を優先して! 残りは消火活動!

 井戸は、あそこ……と、あそこよ!」


 兵たちが動き出す。

 けれど、ミレスが私を抱えたまま言った。


「火の勢いが強い。井戸の水では間に合わないと思います。

 今は冬ですから、乾燥している」


「……わかった。

 地面の雪と土をかけて! その方が早い!」


 兵たちが、雪をかき集め、土を掘り、火に投げかける。

 煙が舞い、咳き込みながらも、皆が必死だった。


 そのとき、窓から顔を出した兵が叫んだ。


「囚人たちは、領主様を人質に逃げました!

 ジーク様たちは、後を追ったとのことです!」


「ライガは!?」


「救出活動をしています!」


 私は、ほっとして胸を押さえた。



 火の勢いが、徐々に弱まっていく。

 そして──


 女子供と負傷兵たちが、次々と抱えられて出てきた。

 煤にまみれ、咳き込みながらも、生きている。


 私は、膝をついた。

 胸の奥が、きしむように痛んだ。


「……私の判断が、いけなかったの?

 民を、城に避難させなければ……」


 そのとき、ミレスも隣で膝をついた。


「囚人を使わなければ、もっと早く敵が到着して市街地門を破られ、民家が襲撃されていました。

 あなたの判断は、間違っていません」


 私は、彼の灰色の瞳を見つめた。

 その中に、責める色はなかった。

 あるのは励ましだけだった。




 一段落ついて戻った娼館の窓から、城が見えた。

 火は鎮まり、兵たちが瓦礫を運び、焦げた壁を洗っている。

 煙の匂いはまだ残っていたけれど、空はもう穏やかな冬の青に戻っていた。


「チャーシュー、囚人どもに食われたってさ」


 戻ってきたライガが、ぼそりと呟いた。

 私は、目を細めて彼を見た。


「……そのうちまた作るから、今は忘れて」


 いつまでチャーシューに、こだわるのよ。

 でも、そう言ってくれるのが、少しだけ救いだった。


「そうだな。今は余計なこと考えず、復旧を優先だ」


 彼の赤い瞳が、真剣に揺れていた。

 私も、そっと頷いて、ベッドに戻った。


 そのとき──


「ジーク様の軍が、全滅しました!」


 伝令の声が、部屋を切り裂いた。


「……全滅? 敵は、多くても300。

 しかも、負傷してるはずじゃ……」


 そんなことあるはずない、と私は首を振った。


「最初に逃亡した囚人と、合流したのです。

 予め、計画していたようです」


「怪我が酷いふりしてたんだろうな」


 ライガの呟きに、呆然となり言葉が漏れる。


「……まさか……」


「それと、食糧の備蓄をほとんど奪っていきました。

 残りは、1週間分です」


 私は、目を閉じた。

 すべての民が避難することを想定して、領内から食料をかき集めてしまった。


「城の地下の金庫に、持参金がまだ残ってる。

 それで、王都に食糧を買いに行ってほしいの。

 カークスと、あなたの部下で。

 1週間あれば、間に合うはず」


「隣領からブン獲ればいいだろ」


 ライガの声は、いつも通りの無骨さだった。


「今、動ける兵は2,000。しかも、素人よ。

 近隣の領には、予め『援軍を送らなければ死刑』と伝えていたのに、送ってこなかったということは、迎撃体制なのよ」


 沈黙が落ちた。

 そのとき、聖騎士ミレスが口を開いた。


「殿下、食糧なら教会に依頼したほうが確実では?

 我々は戦争に参加はできませんが、復旧作業なら手伝えるはずです。

 今、兵力を割くのは危険です。

 近隣の領主が結託して、殿下を狙う可能性もあります」


 私は、しばらく考え、頷いた。


「わかったわ。

 どちらにせよ、お布施が必要だから城に戻りましょう」


 私は、立ち上がった。




 焼けた石の匂いが、まだ空気に残っていた。

 私は、崩れかけた階段を上り、城の中庭を見下ろした。


 斥候が、地図を広げながら報告する。


「裏口から裏門、そして正面入口──

 この3箇所が特に火の勢いが強かった模様です」


「……逃げるためね」


 私は、地図の焦げ跡を指でなぞった。

 火の流れが、まるで計算されたように見える。


 隣で、ライガが頷いた。


「火を撒き出入口を同時に制圧して、備蓄を奪い、撤退ルートまで整えてた。

 奴らを、まとめる“ボス”がいるはずだ」


「そうね。統率力があるみたい」


「……面倒だ」


 ライガが、肩を落とす。

 でも、その紅目は鋭く光っていた。


「まだ兵を入れ替えてない3つの砦から、500人ずつ兵士をこちらに向かわせて。

 到着したら、素人の兵士を代わりに500人ずつ送って。入れ替えるの」


「承知!」


 伝令が駆けていく。


「負傷兵が回復しても、恐らくトータルで4,000ちょっと……。ジークたちが率いていった1,000が全滅というのを考えると、全軍で行っても、かなり減るでしょう。

 もう1万、徴兵するしかないわね」


 ミレスが、不安げに言う。


「財政破綻しなければいいですが」


「人口10万人の領で、すでに1万徴兵してる。

 もう1万は……難しいぞ」


 ライガも、腕を組んで唸る。


「他の地域ならね。

 でも、ここは若い男──しかも、肉体労働者ばっかりじゃない」


 私は、ライガの整った横顔を見た。

 彼は広い肩を竦めて、黙った。


「とりあえず、人事の再生をしないと。

 戦後処理が間に合わない。

 家臣団の仕事を手伝ってた使用人で、構成しましょう」


 私は気を取り直すように言った。

 家臣団が全滅した以上、政務をする人間が必要。


「王宮と違って、ここの使用人たちは平民だぞ」


「わかってるわ。

 でも、今は“できる人”が必要なの。

 フレア、執事に伝えて。

 人員の再配置と、仮の役職割り振りを早急に。

 明日から、城に拠点を戻すわ」


「わかりました!」


 フレアが、制服のスカートを翻して走っていく。

 その背を見送りながら、私は深く息を吸った。




 教会の礼拝堂は、冬の光に満ちていた。

 高い天井から差し込む光が、白い石の床に柔らかく広がっている。

 1年半前にライガの兄カスパルと、ここで結婚式を挙げた。


 牧師が、私に深く頭を下げた。


「この度は、本当に災難でしたな」


「まるで、私の出産を狙ったような……」


 私がそう言うと、牧師は目を細めて微笑んだ。


「狙ったのだと思いますよ」


 その言葉に、ミレスが静かに続けた。


「前辺境伯カスパル様は、戦においては抜け目なく好戦的で、戦績も良かった。

 ですが、アデル様は戦を好まれぬ上、代替わりしたばかり。

 そこに殿下が、出産で動けないとなれば……」


「そうね。もっと準備しておくべきだった」


 私が俯くと、ライガが首を振る。


「それは本来、城主の仕事だ。姫さんは嫁に来ただけだろう」


「殿下は、これ以上ない対応をされました」


 ミレスの声が、私の背を支えるように響いた。


「情けないのはバカなカスパルと、無謀なアデル、ジーク。

 そして、肝心な時にいなかった俺だ。

 ……辺境の男は、駄目だ」


 ライガの懺悔に、私は何も言えなかった。




 翌日。

 城の執務室に戻ると、まだ焦げた匂いが残っていた。


「焦げ臭いわね」


「馴れますよ」


 メイドのフレアが、明るく笑った。


「みんなポジティブで助かるけど……なんで、そんなにポジティブなの?」


「この土地に生まれたら、戦や侵入者はしょっちゅうですし。

 まず、治安悪いじゃないですか」


「スタート地点が、ハードモードなのね」


「そういうことです」


 私は、思わず笑ってしまった。

 この土地の人々は、強い。

 だから、私も立っていられる。


 そこへ、伝令が駆け込んできた。


「復旧作業が、一通り終わりました!

 本格的な柱の替えなどは、春になって雪が溶けてからでないと、とのことです」


「ご苦労様。休憩するよう言って。

 丸3日休んだら、林に賊狩りに行って欲しいの。

 捕まえた賊は、空になった刑務所に入れて。


 ついでに獣も狩ってきて。

 教会を疑うわけじゃないけど、輸送部隊が襲撃される可能性もあるから。念のため、干し肉を作りましょう」


「承知!」


 伝令が去っていく。

 その背中を見送ったフレアの黄色い瞳に、涙が溜まる。


「殿下がいなかったら、この領はもう取られてましたね」


「そうしたら、連合軍が隣領に進行しただろうにね」


「近隣の領主たちは、舐めてますね。ギッタンギッタンにしましょう」


 私は、思わず笑う。それから、立ち上がった。

 窓の外には、まだ瓦礫が残る城壁と、 その向こうに広がる、白く凍った大地。


「まずは士気を上げないと、賊に負けてしまう」




 油のはねる音が、城のキッチンに響いていた。

 ここは幸い燃えなかった。

 いや、食料を運び出すため燃やさなかったのだろう。

 私は袖をまくり、鉄鍋の前に立っていた。

 鶏、豚、牛レバー、軟骨──

 ありったけの肉を、唐揚げにしていく。


 香ばしい匂いが立ちこめ、嗅ぎ付けた兵たちが列をなして待つ。


「んめえええ! この領の兵になって良かった!」


 少し冷めてきた、それを口に入れた兵が叫ぶと、他の兵が懇願する。


「ラーメンが食べたいです!」


「賊をたくさん捕まえてきたら、作るわ」


 私は笑顔で答える。


「100万人捕まえてきます!」


 笑い声があがる。

 この数日で、ようやく兵たちの顔に笑みが戻ってきた。


「じっとしてろと言ってるのに……」


 ライガが、呆れたように言いながら、唐揚げをひとつ口に放り込む。


「んまい」


「言っておくけど、獣を捕ってこないと、しばらく肉は食べられないからね」


「は?」


「今の唐揚げと、夕飯用に取ってあるチャーシューで、この城にある肉、終わり」


「おい! 犬を集めろ! すぐに行くぞ!」


 彼の声が、焦りで裏返った。

 私は、思わず笑ってしまった。




 5日後。

 城門が開き、ライガが戻ってきた。


 鎧は泥にまみれ、肩には深い傷。

 その背後には、負傷した兵たちが列をなしていた。


「一体、何が……?!

 動ける2,000の兵士を率いて行ったのに……山賊に、こんな……」


 私は駆け寄り、彼の腕を支えた。


「敵は、約3,000」


「何ですって?」


 聞いていた話と、違いすぎる。

 敵は、多くて2,000。

 しかも、バラバラの小集団が複数だと聞いていたのに。


「囚人と合流していた。

 というより──元々、仲間だった。

 初めから知っていたら、どうにかなったが……不意を突かれた」


「こちらに、攻めてくる可能性は?」


「あり得る。

 囚人兵は、こちらの軍にいたから、人数も配置も把握している」


 私は、唇を噛んだ。


 新たに徴兵かけた隊は、いずれ戻ってくるけど……素人の集まり。

 砦から来た訓練済みの兵は、ライガと共に負傷してしまった。


 城の空気が、また重くなる。

 ミレスが、静かに口を開いた。


「こうなっては、もうA級ランク以上の傭兵を雇うしかないのでは?」


「A級レベルは、王都にいるのでしょう?」


 私がそう返すと、ライガが腕を組んで言った。


「いいや、辺境にも少しいるさ。

 要人警護したいやつが王都に行くんだ。

 ただ……厄介だぞ?」


 その言葉に、ミレスが頷いた。

 何故か、いつもサラサラなシルバーブロンドも一緒に揺れた。


「王族でも、やりたくない仕事は断られます。

 ギルドは治外法権ですから」


 私は、黙って天井を見上げた。

 A級傭兵──

 契約金だけで、白金貨100枚。

 白金貨1枚で、小さな民家が1つ買える額。

 成功報酬も別に必要。


 ただでさえ、今は大赤字。

 しかも、断られるかもしれないなんて。


 ──ため息が、こぼれた。


「……フレア、増税と徴兵を急いで。

 それと、傭兵ギルドに連絡して。責任者に、ここまで来させて。

 依頼の内容は、護衛と処刑よ」


「かしこまりました!」


 フレアが、すぐに走り出していった。





 応接室。

 重厚な扉が開き、ギルドの責任者が現れた。

 黒い外套に、銀の留め具。

 目元に深い皺を刻んだ男は、私たちを一瞥して、椅子に腰を下ろした。


「隣領の制圧ですか……」

 彼は、指を組みながら言った。

「動ける兵士が2,000いるなら、A級傭兵は5人で充分でしょう」


「たったの? そんなに少なくていいの?」


 私は、思わず聞き返した。

 最低でも──50人は必要だと思っていた。


「隣領は、兵数3,000程度ですよ。

 S級なら、1人で充分です」


 男は当然のように言った。





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