第4話
空気は凍てつき、吐く息が白くほどける。
けれど、城門の前には、別の熱が立ちこめていた。
──肉の匂い。
それも、ただの肉じゃない。
スパイスと煙が混じり合い、空腹をえぐるような香り。
「なんだこの匂い……?」
敵兵の声が、風に乗って聞こえた。
私は、城壁の上からその様子を見下ろす。
門が、ゆっくりと開く。
けれど、そこには鉄格子と、さらに編み込まれた鉄網。
突破は不可能。
その奥で、兵たちが巨大な肉の塊をぐるぐると回していた。
タンドリーチキン。
鶏肉を香辛料に漬け込み、炭火で焼く。
皮はパリパリ、中は肉汁が溢れる。
予想通りだった。
逃亡した囚人たちが、敵の補給線を襲った。
生きる術が他にない彼らにとって、略奪は唯一の選択肢。
そのせいで、敵は孤立無援。
帰国もできず、進軍するしかなかった。
でも、ここで止まる。
私は、兵たちの食事を見守る。
ライ麦と小麦を混ぜた皮に、チキンとキャベツをのせ、マスタード入りのマヨネーズをかけて巻く。
「うめええよ、うめええよ!」
1人の兵士が叫ぶと、もう1人が頷いてカップを手にする。
「ふう、冷えるからスープも飲もう。ミネストローネ、暖まるなあ」
「うっめええええ!」
兵たちの声が、城壁に響く。
その音が、敵の心を削っていくのがわかる。
私は、声を張った。
「みんな、それで満足してはダメよ。ラーメンができたわ」
「ズズズズズーッ!」
「さあ、チャーシューを炙って。
手が空いてる人は、餃子を焼いてちょうだい」
「うまいよー! うまいよー!」
敵陣がざわつく。
飢えた目が、こちらを見ている。
「……あ、あの、投降するので……一口ください……」
敵兵の1人が、震える声で叫んだ。
すぐに、城壁の上からロープが降ろされる。
「1人ずつ登れ」
投降兵がロープを掴み、登り始めた──
その瞬間、味方の矢が彼の背を貫いた。
「バカやろう! 食いもんなんかにつられやがって!」
敵の大将が怒鳴る。
その隣で、副将が低く呟いた。
「門を破る前に、飢え死にする者が出てきます……」
「丸一日食べないくらいで、何だ?!」
私は、城壁の上から声を投げた。
「籠城する側の兵が多いと、門は破れないわよ?」
大将が、こちらを睨み上げる。
けれど、言葉を返せない。
ぐ、と唸るだけ。
敵軍の背後に、土煙が上がった。
ようやく、来た。
あれは、侍医カークスが郊外で集めていた兵たちだ。砦の兵と合流してきた。
「やっと来たわ」
私は、城壁の上から声を張った。
「我がグランツ軍は、8,000になったけど──どうする? 戦う?」
敵の大将が、目を細めた。
「……時間を稼いでたのか」
「そうよ。壁を壊されたら、その分、直さなきゃいけないじゃない」
敵将が、ふっと笑った。
その笑みが、嫌な予感を呼び起こす。
「お前らの領主アデル・グランツは、こちらにいる」
その言葉に、兵たちがざわついた。
空気が一瞬で凍りつく。
「降伏するなら、返してやる」
私は、目を細めた。
その手に握った軍扇が、冷たく感じる。
「“いる”というなら、連れてきて見せるはず。もう死んでいるのでしょう?」
敵将の顔が、わずかに歪む。
「生きていたとしても──領主1人の命と、領民の生活。
天秤にかけるまでもないわ」
沈黙。
敵将は、何も言い返せなかった。
「全軍、構え」
私が命じた瞬間、背後から声が飛んだ。
「待て! 待ってくれ! 早まるな、取引を!」
ジークだった。
紺の髪を乱し、額に汗を浮かべている。
「アデルの身柄を返してくれるなら── 投降兵を受け入れ、これを虐待せず。敗走兵は追撃しない」
敵兵たちがざわつく。
そのとき、別の声が響いた。
「バカが。敵の罠に嵌まるな」
ライガだ。
1年半ぶりに姿を表した。
裏地の赤い外套を翻し、城壁の影から手勢を連れて現れた。
「ここで殲滅しなければ、またすぐ攻めてくるぞ。
援軍が50キロ先にいる。1万だ。
投降するふりをして、内側から反乱する気だ」
再び、門前がざわつく。
兵たちの視線が、私に集まる。
私は、静かに息を吸った。
「落ち着きなさい」
声は、冷たく、けれど確かに響いた。
「カークスが、郊外に兵を集めに行っている。兵は、まだ増える。
城には兵糧もある。地の利もある。
山賊の投入も、まだしていない。
そして──王女である私が、ここにいる」
私は、軍扇を高く掲げた。
「それに、逃亡囚人が敵の援軍をまた襲うでしょう。
恐れるに足らない!」
兵たちの顔に、光が戻る。
槍を握る手に、力がこもる。
「守壁兵──矢の雨を降らせよ!」
私の号令とともに、城壁の上から無数の矢が放たれた。
黒い雨のように、敵陣を覆い尽くす。
逃げようとする敵兵を、砦や郊外から来た兵たちが斬る。
雪の上に、赤い筋が走った。
私は、軍扇を握りしめたまま燃えるような気持ちで、戦場を見下ろしていた。
しばらくして矢の雨が止んだ。
静寂が、戦場を包む。
鉄格子が軋みを上げて開き、主軍が一斉に突撃した。
敵は、あっという間に崩れた。
飢えと疲労、そして士気の崩壊。
もはや戦う力など残っていなかった。
──決着がついた。
「息のあるものは捕虜に。
死体は援軍に“プレゼント”した方がいいわ。
このまま放置しておいて。
矢と武器、鎧は回収して」
私の声に、兵たちが動き出す。
勝利の余韻に浸る暇はない。
次が、来る。
ジークと家臣団が、戦場を駆け回っていた。
「アデル! アデル!」
その声に、兵たちが振り返る。
そして──
「いた! 武器箱の中だ!」
アデルは、血まみれの布に包まれ、折れた槍の下に埋もれていた。
「まだ息がある! 医者を呼べ!」
ジークの叫びが、空に響いた。
私は、すべてを見届けたあと、ふっと意識が遠のいた。
気づけば、誰かの腕の中。
これは……ライガだ。
彼の肩越しに、空が揺れていた。
「ま、待て! どこに行く!」
聖騎士ミレスの声が、追いかけてくる。
「城で寝かせた方がいいだろ」
ライガの声は、低く、静かだった。
すでに空は暗く、蝋燭の灯りが揺れていた。
私は、ハッと目を覚ました。
「気がつきました? 気絶されたのです」
メイドのフレアが、そっと水を差し出す。
──いつもの療養室だ。
難産を経験したばかりの体で4時間以上、冬空の下にいれば倒れるだろう。
……実際に倒れた。
「──戦況は?」
「敵軍は、2キロ先に陣を張りました。
明日、攻めてくるようです」
私は、眉をひそめた。
「それは……おかしいと思わない?」
「え?」
「本隊が負けたら援軍は普通、撤退するのよ。
なぜ、撤退しないの?」
フレアが言葉に詰まる。
「兵数が多いから、勝てると思ってるのでは……?」
「今朝のが先鋒隊で、こっちが本隊なら……。
“最新の攻城兵器”を持ってるから、引かないのでは?」
フレアの顔が、青ざめていく。
「夜襲をかけましょう。
朝が来る前に、やった方がいい。
城下町を戦場にされたら、たまらない」
「す、すぐにジーク様に知らせてきます!」
フレアが駆け出していく。
私は、まだ冷えの残る身体を起こし、戦の続きを見据えた。
──まだ終わっていない。
療養室の扉が開き、2人の影が差し込んだ。
ジークは、額に巻いた包帯が血で滲んでいる。
その隣に立つライガは、獣の毛皮を肩にかけていた。
王の風格に一瞬、見とれかけたが、それどころではない。
「殿下の案は、最もですが……兵が疲弊しています」
ジークの声は低く、苦しげだった。
それも、そうだ。
この数日で、何度も戦い、何度も死を見た。
兵たちは、限界に近い。
「林の賊は?」
「捕まえに行くにも、距離と労力が……」
私は、唇を噛んだ。
時間がない。
「夜襲に乗じて、私が隣の領に行ってくる」
「いや、俺が行こう」
ライガが1歩、前に出た。
「姫さんは書状をしたためてくれ」
「敵に見つかって追撃されたら、どうするの?」
「俺を捕まえるのに、敵は全軍で移動はしない。
2、3千なら返り討ちにするさ」
その言葉に私は一瞬、息を飲んだ。
「そう、頼もしいわ。……アデルは?」
「意識不明です」
ジークの声が、静かに落ちた。
「だったら今、あなたが居なくなるより大将として指揮をとった方がいい。
やはり、私が隣領に──」
「俺が大将なら残りの兵で勝つから、行かなくていい」
ライガの声は、揺るがなかった。
その背に、戦場の匂いが染みついている。
「おそらく、最新兵器を持ってると思う」
「だから、夜襲だろ? わかってる」
「……どうするつもり?」
「俺たちは狩猟犬を、たくさん飼ってる。狩猟がライフラインだったからな。
犬は夜も鼻と目が利く。夜襲は得意だ」
私は、静かに頷いた。
「……あれを」
フレアが、ぎょっとした顔で振り返る。
「あれですか?」
「ええ。疲労の強い兵に、あれを」
「すぐ用意します」
フレアが走り去り、しばらくすると、 あちこちから呻き声が上がり始めた。
──例のスッポン・ハブ・マカ・渡り鳥エキス、西洋ウコギ。
飲んだ者は、皆、顔を真っ赤にしてのたうち回る。
「……突撃前に兵を殺すなよ?」
ライガが、呆れたように言った。
私は肩を竦め、作戦を伝える。
「真夜中に奇襲に成功したら、そのまま全軍で決着を。
市街地門から1キロ以上離れてるなら、燃やしてしまえばいいわ」
「わかった」
ライガは頷くと、従弟であるジークを連れて出ていった。
先の戦が終わって、僅か半日。
夜の帳がまだ残る空に、赤い火の手が立ち上った。
城壁の上、私は双眼鏡を握りしめ、遠くの炎を見つめる。
黒煙が、空を裂くように昇っていく。
門が開き、残った兵たちが一斉に駆け出した。
夜が明けた。
空は薄青く、風が冷たい。
私は、民を率いて城を出た。
彼らの手には包帯と水袋、背には炊き出しの荷。
戦場では、あちこちに兵たちが転がっている。
泥にまみれ、血に濡れ、眠るように。
「状況は?」
声を張ると、斥候が駆け寄ってきた。
「敵の援軍はありません!」
別の兵が、血のついた布を巻き直しながら報告する。
「敵2,000近くが逃亡、1,800が投降。
残りは全滅です。
味方は、城に残っている負傷兵が2,000。こちらに生き残っているのが3,000」
「ご苦労様。武器を回収して、城に戻るわよ」
辺りは、焼けた草の匂い。
血の乾いた風。
その中に、彼の姿があった。
──ライガ。
肩に傷を負いながらも、まっすぐ立っていた。
獣の毛皮が風に揺れ、紅目が私を捉える。
聖騎士ミレスに合図して、地面に降ろして貰う。
出産以降、移動は車椅子かミレスだ。
私は、迷わずライガの胸に飛び込んだ。
逞しい腕が、私をしっかりと抱きとめる。
「……終わったのね」
「ああ……終わった」
「お帰りなさい」
「……いいのか? 帰って」
「もちろん。……そのつもりで来たくせに」
彼が、少しだけ目を伏せた。
「俺は……ただ……姫さんに危険がないよう、手下に見張らせてただけだ。
……来るのが遅くなって、すまなかった」
私は、驚いて彼を見上げた。
その瞬間、彼の顔が近づいて──
唇が、触れた。
「……っ!」
驚きで声も出ない。
けれど、胸の奥が熱くなる。
「帰ろう。とりあえず……腹、減った」
「大量に作ったチャーシューが、まだあるわ」
「それが1番、食べたかった」
「嘘つき。チャーシューが何か、知らないくせに」
ラーメンは作り置きできない。
だから、普及させてこなかった。
自軍の兵士に振る舞うに留めていた。
長らく不在だったタイガーが、チャーシューを知るはずがない。
彼が笑った。
──美しい顔に浮かぶ、少年のような無垢。
それを見て私は、ようやく笑い返した。
……帰ってきた、私の元に。
「止まれ。この城は、俺たちが占拠した」
勝利の余韻がまだ空気に残る中、その声は、まるで氷のように私たちを凍らせた。
見上げると、囚人兵が血の滲む包帯を腕に巻き、城門の上に立っていた。
顔には焼き印の跡。目はギラついている。
「っ……!」
一般兵たちがざわめく。
ライガが太い腕を組み、声を張る。
「お前たち少数で、何ができる?」
その瞬間、囚人が意識のないアデルを、片腕で抱えて見せつける。
「アデル!!」
ジークの悲痛な叫びが、空に響いた。
「何が目的?」
私が問うと、囚人はにやりと笑った。
「俺たちが、ここの城主になる」
「はっ、そんなもん! いずれ国軍に鎮圧されるのが、オチだ」
ライガ鼻で笑った。
「王女を人質にすれば、手が出せまい。
──こっちへ来い」
私は、すぐに口を開いた。
「あなた、勘違いしてる。
父王は、私を切り捨てるくらい、何とも思わないわ。
母の身分が低くて、私は婚約が決まるまで認知すらされてなかったのよ」
沈黙。
囚人の顔に、戸惑いが浮かぶ。
「あなたたちは長い間ムショにいて、外の情報が遮断されてたから、知らなかったんでしょう?
私が冷遇されてたのは、有名よ。
だから今回も侮られ、近隣の領から援軍が来なかった。それで、あなたたちを、戦場に出さざるを得なかったの」
再び、沈黙。
しかし──
「と、とにかく来い! 人質だ!」
私は、わずかに足を踏み出す。
けれど、心が揺れる。
「迷わなくていい」
ライガが低く言った。
「王女と領主の命、どちらが重いかなんて、分かりきってる」
そのとき──
「ぐわっ!」
「あーっ!」
背後で、悲鳴が上がった。
振り返ると、こちらにいた囚人兵たちが、疲れきった味方の兵を襲っていた。
「裏切ったな!」
ライガが剣を抜く。
「違う!」
別の囚人が叫ぶ。
「アイツがああやった以上、関係ない俺たちも、どうせ罰せられる。
それなら、ここで物資を奪って逃げた方がいい!」
「やめて! そんなことしない! 落ち着いて!」
私は声の限り叫んだ。けれど──
「信用できない!」
「そうだ!」
囚人たちは、聞く耳を持たない。
混乱が広がる。
兵たちは疲弊し、動きが鈍い。
このままでは、崩れる。
「下がってろ。目立つな」
ライガが私を庇うように立つ。
そのとき──
泥にまみれて戻ってきた狩猟犬たちが、低く唸りながら駆けてきた。
牙を剥き、囚人たちに飛びかかる。
悲鳴と怒号が交錯し、ようやく制圧が進む。
けれど、まだ──
城内に立て籠もっている。
「一旦引いて、立て直すの。撤退しましょう」
「嫌だ! 俺は1人でも行く!」
ジークが、血走った目で叫ぶ。
「だったら、さっき奪ってきた攻城兵器を、城に向かって撃ちなさいよ!」
「はあ?! 何言って──」
「兵士は限界なの! このまま戦うなら、それしかない」
ジークが、拳を握りしめた。
そんなことすれば、城内にいる負傷兵や民も死ぬ。
「くそっ……撤退だ! 戻れ!」
プチタウンにある娼館の一室。
薄いカーテン越しに、朝の光が差し込んでいた。
ベッドの上、私はライガと並んで横たわっていた。
互いに疲れて動けずにいる。
住民の女性が、そっと毛布をかけ直してくれる。
「チャーシュー、取られたか?」
ライガが、ぼそりと呟いた。
「それより、機密文書でも見られたらどうするのよ」
私が眉をひそめると、彼はふっと笑った。
「……なによ?」
「あいつらに、字が読めるわけないだろ」
囚人のプロフィールに目を通した私たちは、知ってる。
彼らの中には、元高官が多いこと。
つまり、彼は私の不安を和らげるため気休めを言ったのだ。
けれど、それは本当に気持ちを軽くしてくれた。
気づけば、昼になっていた。
私は、まだベッドの中。
隣には、ライガがいた。
端正な顔が近い。
大きな手が、私の額に触れる。
「……熱はない」
「例の“あれ”飲んだから」
「あれは……ヤバイな」
苦笑する彼の声に、私も思わず笑いそうになる。
そこへ、食事が運ばれてきた。
温かいスープと、焼きたてのパン。
私たちは、静かに食べ始めた。
「それで?」
「そろそろ、最後の新兵が来るわ。たぶん2,000くらいね」
「グランツ城を陥とすには、少ないな。
今残ってる兵は、ほとんど使いものにならん」
兵士の多くが、連戦と移動と怪我で、ダウンしている。
「抜け穴を通れば、確実に勝てるはずだわ」
「抜け穴は、どこにある?」
「あなたが知ってるんじゃないの?」
「俺は身内じゃないんだよ。ジークは知ってるだろう」
そのとき、扉が開いてジークが入ってきた。
鎧の隙間から覗く傷跡が、まだ生々しい。
「それは、城主家族しか知らない。
親父なら知ってるけど……早馬で往復4時間はかかる」
「なら、早馬を出して」
「しかし、少しでも早くアデルを救出しないと──」
「城に残されてるのは、アデル1人じゃないのよ。慎重にやらないと」
私の言葉に、ジークが口をつぐむ。
ライガが、静かに言った。
「姫さんの言う通りだ。伝令を出せ」
ジークは渋々、手紙を書き始めた。
私は、長く息を吐く。
身体中がギシギシしている。
ライガが、呆れたように言う。
「ボロボロのくせに、動き回るからだぞ」
「ねえ、どうして、私が出産したこと知ってるの?」
「一応、あいつ(アデル)の兄だから」
「……そう」
私の知らないところで、内部と密に連絡を取り合っていたようだ。
元々彼はグランツ家の次男なのだから、おかしいことじゃないけど。
大きな手が、私の頬に触れる。
そして──キス。
唇が触れた瞬間、私は目を見開いた。
──なぜ?
どうして彼は、私にキスするの?
問いかける前に、彼の額が私の額にそっと触れた。
その温もりに、言葉が消えていった。
私は、薄いカーテンを指で押しのけ、 城下町の小さな屋根の連なりを見下ろした。
空は茜色に燃え、遠くの山並みが黒く沈んでいく。
思わず溜め息が、こぼれる。
「あまり、根詰めるな」
背後から、低く落ち着いた声がした。
振り返ると、ライガが壁にもたれていた。
「敵の城を落とすなら、焼き払うなりできるけど……。
中には、負傷兵も、使用人も、避難民もいるのよ。
どうしようもない……囚人を使うべきじゃなかった」
私は、窓の外に目を戻した。
あの城の中に、まだ人がいる。
私たちの民が。
「あの状況では、仕方ない」
ライガが、低く呟いた。
「俺が、もっと早く来ていれば……。
用があって王都に行ってたんだ。
開戦の知らせを聞いて引き返したが、敵は電光石火だった」
そのとき、扉が勢いよく開いた。
「伝令が帰ってきた! 出陣しよう!」
ジークだった。
鎧の隙間から覗く腕には、まだ血が滲んでいる。
紺の目は血走り、焦燥に燃えていた。
「まだ新兵が到着していない」
ライガが、静かに言った。
「そんなの、待ってる場合ではない!
そもそも、敵は多くて300! しかも負傷してる! 1,000あれば充分だ!」
「こちらの兵も、疲れきっている。
これ以上、酷使するのはダメだ。
新兵の到着を待て」
「うるさい! 俺たちは、何が何でもアデルを救う!」
ジークは、怒鳴り返し、そのまま出ていった。
「おい!」
ライガが追いかけようとする。
私は、頭を抱えた。
「どうして辺境の男は、みんな短気なの?」
ライガが、私の方を振り返る。
その顔に、苦みが浮かんでいた。
「姫さんは、ここで寝てろ。俺が行ってくる」
「待って。徴兵に行った侍医に、伝書鳩を飛ばして。どのくらいで来るか、聞きましょう」
「待ってる場合じゃない。
ジークがいなくなると、俺がいない時に総大将をやる人間がいなくなる。連れ戻す」
私は、またため息をついた。
けれど、止めることはできなかった。
ライガが部屋を出ていく。
その背中を見送りながら、私は胸の奥を押さえた。
「フレア、お願い。伝書鳩を」
「はい、すぐに!」
メイドが駆け出していく。
私は、再び窓の外を見つめた。
夕陽は、もうすぐ沈む。
夜が来る。
そして、また──戦が始まる。
窓から城を見続けた。
夕闇に沈みかけた空を背に、あの石の城が、静かに佇んでいる。
そのとき──ドンッ!
空気が震え、窓が揺れた。
グランツ城から、黒煙が立ち上る。
「……何が……っ! 火薬?!」
私は思わず立ち上がった。
胸がざわつく。嫌な予感が、背筋を這い上がる。
扉が開き、フレアが駆け込んできた。
「最終の兵が到着しました! しかし…… 指揮をとる人間がいません。
家臣団は皆、領主様を救出に行きました!」
私は、すぐに外套を羽織った。
その瞬間、聖騎士ミレスが現れ、私を抱き上げた。
「くれぐれも無理は禁物です。
──では、急ぎましょう」
城に着いたとき、すでに火の手が上がっていた。
石壁の隙間から、炎が噴き出している。
空は赤く染まり、煙が空を覆っていた。
「中に女性と子供、負傷兵がいるのよ!
救出を優先して! 残りは消火活動!
井戸は、あそこ……と、あそこよ!」
兵たちが動き出す。
けれど、ミレスが私を抱えたまま言った。
「火の勢いが強い。井戸の水では間に合わないと思います。
今は冬ですから、乾燥している」
「……わかった。
地面の雪と土をかけて! その方が早い!」
兵たちが、雪をかき集め、土を掘り、火に投げかける。
煙が舞い、咳き込みながらも、皆が必死だった。
そのとき、窓から顔を出した兵が叫んだ。
「囚人たちは、領主様を人質に逃げました!
ジーク様たちは、後を追ったとのことです!」
「ライガは!?」
「救出活動をしています!」
私は、ほっとして胸を押さえた。
火の勢いが、徐々に弱まっていく。
そして──
女子供と負傷兵たちが、次々と抱えられて出てきた。
煤にまみれ、咳き込みながらも、生きている。
私は、膝をついた。
胸の奥が、きしむように痛んだ。
「……私の判断が、いけなかったの?
民を、城に避難させなければ……」
そのとき、ミレスも隣で膝をついた。
「囚人を使わなければ、もっと早く敵が到着して市街地門を破られ、民家が襲撃されていました。
あなたの判断は、間違っていません」
私は、彼の灰色の瞳を見つめた。
その中に、責める色はなかった。
あるのは励ましだけだった。
一段落ついて戻った娼館の窓から、城が見えた。
火は鎮まり、兵たちが瓦礫を運び、焦げた壁を洗っている。
煙の匂いはまだ残っていたけれど、空はもう穏やかな冬の青に戻っていた。
「チャーシュー、囚人どもに食われたってさ」
戻ってきたライガが、ぼそりと呟いた。
私は、目を細めて彼を見た。
「……そのうちまた作るから、今は忘れて」
いつまでチャーシューに、こだわるのよ。
でも、そう言ってくれるのが、少しだけ救いだった。
「そうだな。今は余計なこと考えず、復旧を優先だ」
彼の赤い瞳が、真剣に揺れていた。
私も、そっと頷いて、ベッドに戻った。
そのとき──
「ジーク様の軍が、全滅しました!」
伝令の声が、部屋を切り裂いた。
「……全滅? 敵は、多くても300。
しかも、負傷してるはずじゃ……」
そんなことあるはずない、と私は首を振った。
「最初に逃亡した囚人と、合流したのです。
予め、計画していたようです」
「怪我が酷いふりしてたんだろうな」
ライガの呟きに、呆然となり言葉が漏れる。
「……まさか……」
「それと、食糧の備蓄をほとんど奪っていきました。
残りは、1週間分です」
私は、目を閉じた。
すべての民が避難することを想定して、領内から食料をかき集めてしまった。
「城の地下の金庫に、持参金がまだ残ってる。
それで、王都に食糧を買いに行ってほしいの。
カークスと、あなたの部下で。
1週間あれば、間に合うはず」
「隣領からブン獲ればいいだろ」
ライガの声は、いつも通りの無骨さだった。
「今、動ける兵は2,000。しかも、素人よ。
近隣の領には、予め『援軍を送らなければ死刑』と伝えていたのに、送ってこなかったということは、迎撃体制なのよ」
沈黙が落ちた。
そのとき、聖騎士ミレスが口を開いた。
「殿下、食糧なら教会に依頼したほうが確実では?
我々は戦争に参加はできませんが、復旧作業なら手伝えるはずです。
今、兵力を割くのは危険です。
近隣の領主が結託して、殿下を狙う可能性もあります」
私は、しばらく考え、頷いた。
「わかったわ。
どちらにせよ、お布施が必要だから城に戻りましょう」
私は、立ち上がった。
焼けた石の匂いが、まだ空気に残っていた。
私は、崩れかけた階段を上り、城の中庭を見下ろした。
斥候が、地図を広げながら報告する。
「裏口から裏門、そして正面入口──
この3箇所が特に火の勢いが強かった模様です」
「……逃げるためね」
私は、地図の焦げ跡を指でなぞった。
火の流れが、まるで計算されたように見える。
隣で、ライガが頷いた。
「火を撒き出入口を同時に制圧して、備蓄を奪い、撤退ルートまで整えてた。
奴らを、まとめる“ボス”がいるはずだ」
「そうね。統率力があるみたい」
「……面倒だ」
ライガが、肩を落とす。
でも、その紅目は鋭く光っていた。
「まだ兵を入れ替えてない3つの砦から、500人ずつ兵士をこちらに向かわせて。
到着したら、素人の兵士を代わりに500人ずつ送って。入れ替えるの」
「承知!」
伝令が駆けていく。
「負傷兵が回復しても、恐らくトータルで4,000ちょっと……。ジークたちが率いていった1,000が全滅というのを考えると、全軍で行っても、かなり減るでしょう。
もう1万、徴兵するしかないわね」
ミレスが、不安げに言う。
「財政破綻しなければいいですが」
「人口10万人の領で、すでに1万徴兵してる。
もう1万は……難しいぞ」
ライガも、腕を組んで唸る。
「他の地域ならね。
でも、ここは若い男──しかも、肉体労働者ばっかりじゃない」
私は、ライガの整った横顔を見た。
彼は広い肩を竦めて、黙った。
「とりあえず、人事の再生をしないと。
戦後処理が間に合わない。
家臣団の仕事を手伝ってた使用人で、構成しましょう」
私は気を取り直すように言った。
家臣団が全滅した以上、政務をする人間が必要。
「王宮と違って、ここの使用人たちは平民だぞ」
「わかってるわ。
でも、今は“できる人”が必要なの。
フレア、執事に伝えて。
人員の再配置と、仮の役職割り振りを早急に。
明日から、城に拠点を戻すわ」
「わかりました!」
フレアが、制服のスカートを翻して走っていく。
その背を見送りながら、私は深く息を吸った。
教会の礼拝堂は、冬の光に満ちていた。
高い天井から差し込む光が、白い石の床に柔らかく広がっている。
1年半前にライガの兄カスパルと、ここで結婚式を挙げた。
牧師が、私に深く頭を下げた。
「この度は、本当に災難でしたな」
「まるで、私の出産を狙ったような……」
私がそう言うと、牧師は目を細めて微笑んだ。
「狙ったのだと思いますよ」
その言葉に、ミレスが静かに続けた。
「前辺境伯カスパル様は、戦においては抜け目なく好戦的で、戦績も良かった。
ですが、アデル様は戦を好まれぬ上、代替わりしたばかり。
そこに殿下が、出産で動けないとなれば……」
「そうね。もっと準備しておくべきだった」
私が俯くと、ライガが首を振る。
「それは本来、城主の仕事だ。姫さんは嫁に来ただけだろう」
「殿下は、これ以上ない対応をされました」
ミレスの声が、私の背を支えるように響いた。
「情けないのはバカなカスパルと、無謀なアデル、ジーク。
そして、肝心な時にいなかった俺だ。
……辺境の男は、駄目だ」
ライガの懺悔に、私は何も言えなかった。
翌日。
城の執務室に戻ると、まだ焦げた匂いが残っていた。
「焦げ臭いわね」
「馴れますよ」
メイドのフレアが、明るく笑った。
「みんなポジティブで助かるけど……なんで、そんなにポジティブなの?」
「この土地に生まれたら、戦や侵入者はしょっちゅうですし。
まず、治安悪いじゃないですか」
「スタート地点が、ハードモードなのね」
「そういうことです」
私は、思わず笑ってしまった。
この土地の人々は、強い。
だから、私も立っていられる。
そこへ、伝令が駆け込んできた。
「復旧作業が、一通り終わりました!
本格的な柱の替えなどは、春になって雪が溶けてからでないと、とのことです」
「ご苦労様。休憩するよう言って。
丸3日休んだら、林に賊狩りに行って欲しいの。
捕まえた賊は、空になった刑務所に入れて。
ついでに獣も狩ってきて。
教会を疑うわけじゃないけど、輸送部隊が襲撃される可能性もあるから。念のため、干し肉を作りましょう」
「承知!」
伝令が去っていく。
その背中を見送ったフレアの黄色い瞳に、涙が溜まる。
「殿下がいなかったら、この領はもう取られてましたね」
「そうしたら、連合軍が隣領に進行しただろうにね」
「近隣の領主たちは、舐めてますね。ギッタンギッタンにしましょう」
私は、思わず笑う。それから、立ち上がった。
窓の外には、まだ瓦礫が残る城壁と、 その向こうに広がる、白く凍った大地。
「まずは士気を上げないと、賊に負けてしまう」
油のはねる音が、城のキッチンに響いていた。
ここは幸い燃えなかった。
いや、食料を運び出すため燃やさなかったのだろう。
私は袖をまくり、鉄鍋の前に立っていた。
鶏、豚、牛レバー、軟骨──
ありったけの肉を、唐揚げにしていく。
香ばしい匂いが立ちこめ、嗅ぎ付けた兵たちが列をなして待つ。
「んめえええ! この領の兵になって良かった!」
少し冷めてきた、それを口に入れた兵が叫ぶと、他の兵が懇願する。
「ラーメンが食べたいです!」
「賊をたくさん捕まえてきたら、作るわ」
私は笑顔で答える。
「100万人捕まえてきます!」
笑い声があがる。
この数日で、ようやく兵たちの顔に笑みが戻ってきた。
「じっとしてろと言ってるのに……」
ライガが、呆れたように言いながら、唐揚げをひとつ口に放り込む。
「んまい」
「言っておくけど、獣を捕ってこないと、しばらく肉は食べられないからね」
「は?」
「今の唐揚げと、夕飯用に取ってあるチャーシューで、この城にある肉、終わり」
「おい! 犬を集めろ! すぐに行くぞ!」
彼の声が、焦りで裏返った。
私は、思わず笑ってしまった。
5日後。
城門が開き、ライガが戻ってきた。
鎧は泥にまみれ、肩には深い傷。
その背後には、負傷した兵たちが列をなしていた。
「一体、何が……?!
動ける2,000の兵士を率いて行ったのに……山賊に、こんな……」
私は駆け寄り、彼の腕を支えた。
「敵は、約3,000」
「何ですって?」
聞いていた話と、違いすぎる。
敵は、多くて2,000。
しかも、バラバラの小集団が複数だと聞いていたのに。
「囚人と合流していた。
というより──元々、仲間だった。
初めから知っていたら、どうにかなったが……不意を突かれた」
「こちらに、攻めてくる可能性は?」
「あり得る。
囚人兵は、こちらの軍にいたから、人数も配置も把握している」
私は、唇を噛んだ。
新たに徴兵かけた隊は、いずれ戻ってくるけど……素人の集まり。
砦から来た訓練済みの兵は、ライガと共に負傷してしまった。
城の空気が、また重くなる。
ミレスが、静かに口を開いた。
「こうなっては、もうA級ランク以上の傭兵を雇うしかないのでは?」
「A級レベルは、王都にいるのでしょう?」
私がそう返すと、ライガが腕を組んで言った。
「いいや、辺境にも少しいるさ。
要人警護したいやつが王都に行くんだ。
ただ……厄介だぞ?」
その言葉に、ミレスが頷いた。
何故か、いつもサラサラなシルバーブロンドも一緒に揺れた。
「王族でも、やりたくない仕事は断られます。
ギルドは治外法権ですから」
私は、黙って天井を見上げた。
A級傭兵──
契約金だけで、白金貨100枚。
白金貨1枚で、小さな民家が1つ買える額。
成功報酬も別に必要。
ただでさえ、今は大赤字。
しかも、断られるかもしれないなんて。
──ため息が、こぼれた。
「……フレア、増税と徴兵を急いで。
それと、傭兵ギルドに連絡して。責任者に、ここまで来させて。
依頼の内容は、護衛と処刑よ」
「かしこまりました!」
フレアが、すぐに走り出していった。
応接室。
重厚な扉が開き、ギルドの責任者が現れた。
黒い外套に、銀の留め具。
目元に深い皺を刻んだ男は、私たちを一瞥して、椅子に腰を下ろした。
「隣領の制圧ですか……」
彼は、指を組みながら言った。
「動ける兵士が2,000いるなら、A級傭兵は5人で充分でしょう」
「たったの? そんなに少なくていいの?」
私は、思わず聞き返した。
最低でも──50人は必要だと思っていた。
「隣領は、兵数3,000程度ですよ。
S級なら、1人で充分です」
男は当然のように言った。
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