第3話
季節は巡って夏。
空は高く、風は熱を含み、土の匂いが濃くなる。
「視察に行くって? 冗談じゃない!」
アデルが声を荒げた。
珍しく、感情を露わにしている。
「悪阻もなくなったし、領地を見たいの。
春に撒いた種がどうなったか、見届けたいのよ」
寒く乾燥したこの地でも育つ作物の種を、私は来たばかりの昨年秋に大量に仕入れた。
冬を越え、春に撒かれたそれらが、実を結び始めている。
「僕も行きます」
アデルは、すっかり過保護になっていた。
くすぐったいような困るような、呆れるような気持ちで肩を竦めた。
視察は数日にわたった。
各地を回り、畑を見て、民の声を聞く。
畑は順調だった。
収穫量は、従来の5倍になる見込み。
けれど──
元々、この地の食料自給率は3割。
畑作が1、家畜が1、残りの1が狩猟という、むちゃくちゃな構成だった。
だから、畑の収穫量が5倍になっても食糧自給率は7割にしかならない。
これでは、備蓄に回す余裕がない。
「万一攻め込まれてる時に、国や他領が裏切って補給が途切れたら──と、考えなかったの?」
私の問いに、アデルは少しだけ紺の眉をひそめた。
「ここは国防の要。
裏切れば、自分たちの首を締めます。
殿下が兄の処刑を公表しなかったのもグランツ家以外に、この地を治める人間がいなかったからでしょう」
それは全くもって、その通りだった。
けれど──
女は、男と違って保守的だ。
命を宿す側だからこそ、備蓄の必要性を強く感じる。
この地の男たちは、備蓄の大事さがわかっていない。
食糧が尽きたら、狩りをすればいい。
軍馬を潰せばいい。
敵から奪えばいい──
そんな考えが女性を遠ざけ、治安を悪化させてきたのだ。
私は、腹に手を当てた。
この命を守るためにも、私は備えなければならない。
女性が生きられる未来を、作ろう。
「次は娼館に行って」
馬車の御者に地図を見せると、アデルが即座に反対した。
「そんな危ないところ、ダメです!」
「なぜ危ないの? むしろ、あなたが“真面目すぎる人”に任せたせいで、イマイチ流行ってないそうよ?」
「真面目なくらいで、いいですよ。
油断すると、破落戸の溜まり場になりますから」
半年ほど前、各地でオープンさせた娼館。
けれど、どこも盛況とは言えないという報告が上がっていた。
「とにかく、行くわよ」
アデルは渋々頷いたが、顔は明らかに不満げだった。
娼館に到着すると、女主人が目を丸くした。
「りょ、領主様! ……王女殿下が、こんなところに……!」
「驚かせて、ごめんなさい。
あまり店が流行ってない、と聞いたのだけど?」
女主人は深く頭を下げ、少し困ったように答えた。
「はい、まず会員制で、身分を証明できない者は入れません。
次に、入館してすぐ入浴し、石鹸で体を洗わねばなりません。
“風呂に入ると病気になる”と信じてる人が多く、抵抗があるようです。
さらに、入浴の際に簡単な性病のチェックがあります。そこで脱落する人も多くて……。
最後、娼婦のもとに行く前に避妊薬を飲まされるのですが、それで体調を崩す人もいます」
私は顎に手を当てた。
「では、住民登録の義務化を徹底しましょう。そして、身分証を発行すればいい」
「殿下、それは……あまりやると、住民が減ります。ここは、ワケアリの人間が多いですから」
女将の言葉に、私は頷いた。
それも、確かに一理ある。
「ならば──誓約書にしましょう」
「え?」
「"犯罪行為をしない"という誓約と引き換えに、仮の身分証を渡すの」
「それは……しかし……治安が……」
「兵士が余ってるの。大量に派遣すれば、抑止力になるわ」
戦時中に活躍した兵士たちも、今は手持ち無沙汰だ。
平和な今こそ、内政に力を注ぐべき時。
「……そうですね。
殿下がいらしてからは、平和ですから」
女将が、ぽつりと呟いた。
私が“嫁入り”したことで、敵勢力は侵攻に慎重になった。
王女が来たということは、国王がこの土地を見捨てないという意思表示。
──表向きは、ね。
実際は、貧困で反乱を起こされると面倒だから、私に持参金を山ほど持たせた。
これで大人しくしていろ、と言いたいのだ。
でも、それでもいい。
私はその金で畑を増やし、娼館を建て石鹸を配り、この地に“生きる場所”を作っている。
夏の陽射しが、石畳を白く照らしていた。
今日は、娼館主催の“納涼イベント”。
私の発案で、娼館の集客を目的に開催した。
ステージには、ずらりと並んだ風呂桶。
その中に人気の娼婦たちが、透けない水着のような布を身にまとって入っている。
子供たちも見学できるよう、露出は最小限に抑えた。
それでも、会場の熱気はすさまじい。
「さあ、次の問題です! “グランツ領の食料自給率は、現在およそ何割でしょうか!”」
「えーっと……6割?」
「ブッブー! 正解は“まだ4割”! 熱湯、追加ーっ!」
司会者の声と同時に、湯気がもうもうと立ち上る。
観客がどっと沸き、子供たちが笑い転げる。
娼婦たちも、キャーキャー騒ぎながら楽しそうだった。
優勝者には、香り付きの入浴剤。
娼婦たちの間でも人気の品で、これを目当てに皆、真剣だった。
クイズが終わると、巨大な鉄板がいくつも運び込まれた。
ジュージューと音を立てながら、ホルモンうどんとレバニラが焼かれていく。
ニラは手に入らなかったので、代わりにチャイブを使ったが──
香りは十分。食欲をそそる。
これを食べるには入浴剤か石鹸を買って、食事引換券を貰わなければならない。
娼婦たちが先に食べ始めると、若い男たちがそわそわし始めた。
石鹸の売れ行きが、目に見えて伸びていく。
「うめええ! いくらでも食える!」
来場者の歓声が上がる。
「このホルモンうどんに使われてる“味噌”という調味料は、王都の貿易商に輸入してもらったの。
私たちが設置した娼館と、その周りの食堂に行けば、いつでも食べられるよう手配してあるわ」
私は壇上から、来場者に向けてそう告げた。
王都では貴族が多い分、臓物は捨てられる。
だから、それを氷嚢に詰めて冷凍し、こちらに運んでもらえば──下処理代と輸送費くらいしかかからない。
食材は無駄にならず、食糧難も緩和される。
このイベントが成功すれば、臓物を大量に買い取る予定だ。
──来場者を見るに、成功したらしい。
それから、スポーツドリンクも配布した。
肉体労働者の多い土地だから、きっと流行るはずだ。
これも好評で、子供たちが笑顔でおかわりをねだっていた。
イベントは、無事に終わった。
私は、ほっと息をつきながら会場を見渡す。
そのとき──
人混みの中に、見覚えのある後ろ姿があった。
高い身長、鋭い肩の線、無造作に跳ねた紺の髪。
……ライガ?
けれど、次の瞬間には見失っていた。
見間違いかもしれない。
彼は今も領内で暮らしているけれど、屋敷には近寄らないし、会ってもいない。
エリセは、どうなったのだろう?
あの子の笑顔を、ふと思い出した。
パンを焼いて、籠を抱えて、執務室に来た日。
──2人の物語は、もう終わったのか。
それとも、まだ始まってもいないのか。
「どうしたの?」
私室に戻ると、アデルがすぐに寄ってきた。
腕を絡め、頬を寄せ、まるで猫のように甘えてくる。
「いいではないですか。僕もイベント、頑張って準備したのです。ご褒美をください」
「グランツ領は、元々あなたの領地じゃない」
「う……そうでした」
しゅんとした顔を見て、少しだけ罪悪感がよぎる。
けれど、すぐに彼は何かを取り出した。
「そういえば、これ」
差し出されたのは、小さな箱。
開けると、繊細な細工のネックレスが入っていた。
淡い青の石が、月の光を受けてきらりと揺れる。
「殿下にプレゼントできる品質ではないのですが……」
「ありがとう。
私の嫁入り道具は高級品だけど、それは王室の体面のためで──
後宮に閉じ込められてた時は、高品質なものなんて与えられなかったのよ」
ルシーナの記憶があるから、私は知っている。
この世界で、気持ちを込めた贈り物をくれたのは──
この人くらいかもしれない。
「どこで買ったの?」
この土地に宝石店は1軒しかない。
デザインは古く、品も限られている。
けれど、アデルがくれたネックレスは、洗練されていた。
「実は、王都に行った時に……。
なかなか決められなくて、3週間もかかりました」
「え?」
王都は、馬車で3日なのに、なかなか帰ってこなかった。
あの、爵位の継承を認めて貰いに行った時だ。
私はてっきり、タウンハウスで両親と暮らしながら、観光や社交していたのだと思っていた。
まさか──私へのプレゼントを探していたなんて。
しかも、帰ってきてから半年近く経っている。
なぜ、今まで渡さなかったのだろう。
……多分、乙女的なメンタルの何かだろうけど。
「ありがとう。毎日つけるわ」
私がそう言うと、アデルは真剣な顔で言った。
「このネックレスに誓います。
この先、殿下とお腹の子を、一生守っていきます」
私は微笑んで、そっと頷いた。
「……嬉しい」
その瞬間、彼の顔がぱっと明るくなった。
「ならば、子供が産まれたら──デートしてください。
妊娠中は、外に出したくないので」
「どこに行くの?」
「それは……」
この土地に、デートスポットなんてない。
一応、寂れた劇場はあるけれど、有名な劇団は来ない。
今は、素人の発表会に使われているだけ。
「作ってしまえば?」
「え?」
「デートスポット。あなた、領主だもの」
「……ど、どういうところに行きたいですか?」
「うーん……植物園は、まだ早いから──
プチタウンに“ぬいぐるみ館”か“ガラス館”を作っては、どうかしら?」
「ぬ、ぬいぐるみ……?」
「内職を求めてる人に石鹸を作らせたけど、今は在庫が余ってるから。
次は、ぬいぐるみとアクセサリーにしましょう。
余れば、輸出できるものよ」
アデルはしばらく黙ってから、ぽつりと呟いた。
「……殿下は、逞しいですね」
……やっぱり。
この人は、私みたいな“バリバリ働く女”は好きじゃない。
ただ今は、私の見た目と地位が好きなだけ。
エリセに一目惚れしたのが、アデルだったら──
……やめよう。
寝る支度、しなくちゃ。
冬の始まり。
外はもう、白く霞んでいた。
吐く息が白くなるたび、私は腹を撫でる。
この子が、無事に生まれてくるよう祈っていた。
それでも、じっとしていられないのが私という人間で──
今日は、たくさん採れたオーツ麦を使い、オートミール料理の試作に没頭していた。
「もうすぐ出産なんだから、じっとしていてください! お転婆すぎます!」
アデルが、紺の眉をひそめて言ってくる。
「そうだけど……編み物してるのも暇だし」
彼の言うことは正しい。
でも、私は止まれない。
この土地を変えるには、手を動かし続けるしかないから。
娼館と、その周囲に開いた商店街──“プチタウン”は夏のイベント以来、好評を博していた。
兵士の巡回で、治安も保たれている。
今まで軍の上層部しか入れなかった娼館とは違い、下級兵士や民も利用できるようになった。
古くからある娼館の娼婦は、ほとんどが年配の女性。
若い者が集まる新しい施設は、まさに時代の転換だった。
ホルモンうどんの噂を聞きつけて、外から行商人や腕に覚えのある者が訪れるようになった。
観光施設を整え、治安をさらに良くすれば──
助成金を出さずとも、人口を維持できるかもしれない。
ぬいぐるみ館も、予想通りの滑り出し。
女子供が少ないから、すぐには流行らないけれど、来年にはプチタウン全体の赤字が回収できそうだった。
そして今は、オートミールのレシピ作り。
この地の冬を乗り切るために、保存が利いて栄養価の高い食材は貴重だ。
兵糧にもなるし、王都でも流行るはずだ。
「その辺にして、寝ますよ」
アデルが、私の手から木匙を取り上げた。
「アデルって、母親みたい」
「母親に子作りできるんですか?」
「それは……ううっ」
突然、腹の奥がぎゅうっと締めつけられた。
私は思わず、その場にしゃがみ込んだ。
「殿下!」
アデルの声が、遠くで響いた。
「産まれます! 分娩室に運んでください!
私は、侍医を呼んできます!」
メイドのフレアが叫んだ。
アデルは一瞬、固まったようだったが──
「……ああ、どうしよう。分娩室……医療室のことか。行こう!」
彼は、すぐに私を抱き上げた。
その腕は、震えていたけれど、しっかりと力強かった。
私は彼の胸に顔を預けながら、この冬の始まりが、新しい命の季節になることを祈った。
目を開けた瞬間、天井が滲んで見えた。
白い天蓋の向こう、誰かの泣き声が聞こえる。
……いや、笑っている? どっち?
「殿下! 気がつかれましたか!」
フレアの顔が、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
その後ろに、侍医の安堵した顔が見える。長年グランツ家に、勤めてる中年の医者だ。
「……何日……寝てたの?」
「3日です。難産で……意識が戻らなくて……本当に、良かった……!」
私は、ゆっくりと首を動かした。
身体が重い。
けれど、まず確かめなければならないことがある。
「……子供は?」
「無事です! 女の子ですよ!」
布に包まれて運ばれてきた小さな命を見た。
小さな手。
ふにゃりとした頬。
私に似た、まつげの長い目元。
「……無事で……良かった」
私はそっと、娘の頬に指を添えた。
この子が生きている。
それだけで、今は十分だった。
「……アデルは?」
その名を口にした瞬間、部屋の空気が変わった。
メイドも侍医も、奥に控える産婆と看護士も顔を曇らせる。
「……何が……あったの?」
「戦地に向かいました」
「ずっと……平和だったのに?」
嫁いで(入籍はしてない)来て、1年と2ヶ月。
この地は、ずっと静かだった。
それが、なぜ今──
「ブレン国とクレーラ国の連合軍です。
王室にも援軍要請を出しました。
しかし、返事がまだ……」
ブレンとクレーラは、隣接する国だ。長年いがみ合って来たが、最近は静かだったのに……。
「兵の数は?」
一気に、意識が覚醒した。
メイドに代わって侍医が、重い声で答えた。
「1万対2千、だそうです」
「バカな……」
手にしていた水差しが、指から滑り落ちた。
床に砕ける音が、やけに遠く聞こえた。
「む、娘を、すぐに王宮にやって! すぐに!」
「産まれたばかりで、そんな長距離移動はできません!」
「籠城戦に切り替えて、時間を稼がないと。すぐに負けて、蹂躙されるわ!
アデルがその兵力差で打って出たのは、この子を守るためよ! ここを戦場にしないため! だから、急いで!」
私は指から、パープルダイヤモンドの指輪を外した。
父王が、母に贈ったもの。
王宮の門を開く鍵。
「──これを。
この指輪を見せれば、王宮に入れる。
……お願い。どうか、娘を守って」
産婆と看護士が、無言で頷いた。
赤子を見送って、しばらく何も言えなかった。
喉が焼けるように乾いて、声が出ない。
再び差し出された水を、震える手で受け取り、少しずつ喉を潤す。
ようやく、かすれた声が出た。
「……まず、伝令にアデルへの言付けを。
『子供を逃がしたから、籠城戦に切り替えるように』
これは──王族としての命令です」
メイドが、震える手でメモを取る。
その横顔を見ながら、私は続けた。
「次に、兵の徴収。
敵を1人倒せば金貨10枚、大将なら白金貨10枚。
働きに応じて、階級もつける。
万一負傷しても、内職で暮らせるよう保証する──
そう公布して」
メイドの手が止まる。
顔が青ざめ、唇が震えていた。
「しっかりしなさい。文官は、どうしたの?」
「お、男手は、ほとんど残っていません。
護衛兵以外、出兵しました……」
「なら、私が直接徴収に行く。時間がない。
車椅子を出して」
「危険です!」
侍医が声を上げた。
「私が代弁してきます!」
「この際、強制徴収で構わない。最速で1万人を集めるの。
それと──刑務所の鍵を開けるから、女子供は避難させて」
メイドが顔を上げた。
その黄色い瞳に、恐怖と驚きが浮かんでいる。
「囚人の顔に焼き印を入れて。
参戦し、最後まで戦えば──牢屋には戻さない。
領内での生活を許し、差別は禁止と発令する。
ただし、逃走したり犯罪行為をすれば即、死刑。
──逆らえば、斬りなさい」
侍医が、無言で頷いた。
そして音を立てないよう、急いで出ていった。
「籠城戦に備えて、あるだけ食糧と武器を集めて」
私の声に、ずっと近くにいたメイドのフレアが、廊下へ飛び出していく。
この城の隅々まで、命令が波紋のように広がっていく音が聴こえる。
「ペンと紙と、王族の印を持ってきて」
「そんなに、あれこれしては倒れます!」
茶髪のメイド・アンペが、泣きそうな顔で私を止めようとする。
「死ぬよりマシだわ。早くしなさい」
私は震える手で紙を受け取り、筆を走らせた。
近隣の領主たちへ──援軍と兵糧を即時送らなければ、王族の名において処刑とする。
そう書き記し、王女印を押す。
アンペが震えていた。
私への心配か、戦の恐怖か。
けれど、迷ってる暇はない。
彼女が手紙を運んでいくと、さすがに目眩がして、私はベッドに沈んだ。
緑髪のメイド・ヨーキが、そっと布団をかけてくれる。
「……限りなく細かくした、ひき肉を加熱して持ってきて。飲むわ」
「はい?」
サプリも輸血もないこの世界で、貧血から最速で回復するには──血を摂るしかない。
けれど、生の血は危険すぎる。
だから、加熱した赤身のひき肉を飲む。それが最善。
「出血したのだから、肉を飲むのが早い。
赤身にして。急いでちょうだい」
ヨーキは戸惑いながらも、頷いて部屋を出ていった。
「殿下、伝書鳥が戻ってきました。
城主様が、グランツ城まで撤退するそうです。
まだ全滅はしていないと──」
フレアの声で、目を覚ました。
どのくらい経ったか。窓の外が、もう暗い。
喉が乾いている。
けれど、まず確認しなければならない。
「……寝てしまっていたわ。
集めた兵は、どうしたの?」
「護衛兵が率いて行きました。
ただ、その……先発は2,500人で、しかも素人なので……」
この町の“素人”は、鍛えられた肉体労働者ばかり。
狩人、荷運び、鍛冶、伐採、石工。
戦場に出れば、戦力になるはず。
しかし、それでも訓練された兵の方が動けるだろう。
「次の隊が準備できたら、砦にいる兵と交代して」
「わ、わかりました! そのように伝えます!」
フレアは、黄色いツインテールをはためかせて走っていった。
最初に目覚めたのが、午後──
ということは、徴兵されてきた部隊は夜に戦地へ向かった。
この寒さでは、追撃されにくい。
本部隊と合流できれば、アデルは逃げきれるかもしれない。
私は、胸に手を当てた。
この鼓動が止まるまで、私は止まらない。
空が白み始めたばかりの頃、扉の向こうから慌ただしい足音が響いた。
「殿下、本隊が──帰ってきました!」
その声に、私は目を開けた。
胸が高鳴る。すぐに尋ねた。
「アデルは?」
フレアの顔が、曇った。
「それが……」
私は、息を止めた。
胸の奥が、冷たい手で掴まれたように固まる。
「追撃されたため、囮になったそうで…… 安否が、わからないと」
愕然とした。
視界が、ぐらりと揺れる。
アデルが──いない?
大将が捕まれば、士気は崩れる。
「で、殿下……ど、どうすれば……?」
フレアの声が震えていた。
私は、ゆっくりと頭を振った。
「……兵の数は?」
「こちらは、帰ってきた本隊が300。
合流した先発が1,700。
先程、砦に向かったのが2,000。
残っている後発が1,000です」
合計で5,000──
まだ、半分。
けれど、よくここまで集めた。
「カークスは、まだ徴兵してる最中よね?」
カークスとは、中年侍医の名前だ。
「はい。昨日の今日なので、1万集めるには、まだ時間が……」
「そうね。この短時間で、よくやってるわ」
フレアが、少しだけ笑った。
「殿下の好感度と信用が高いから、すぐに徴兵できたのです。
普段は、もっと時間がかかります」
それでも、足りない。
このままでは、持たない。
「近隣の領主は?」
「まだ、返事がありません」
時速100キロ以上で飛ぶ渡り鳥に、伝書を託した。
すでに手紙は、届いているはず。
それでも返事がない、ということは──時間稼ぎしている。
私たちが、どう出るかを見ている。
勝ち目があるか、ないか。
「敵の状況は? どこにいる? 人数は?」
「それは……ジーク様でないと」
「呼んでちょうだい。
動けないなら、車椅子を出して」
私は、布団を押しのけた。
まだ身体は重い。
けれど、今は動かなければならない。
すぐに扉が開く音がして、ジークが入ってきた。
長身を、灰色の外套で包んでいる。
目元に、深い疲労と悔恨が滲んでいた。
「申し訳ありません……アデルを……」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
けれど、今は感情に呑まれている場合じゃない。
「今は、それどころじゃないわ。敵は、どうしたの?」
私の声に、ジークが顔を上げる。
アデルと同じ紺の髪が、揺れた。
「夜間に追撃してきたのは、およそ3,000。
我らが援軍と合流したことで、撤退しました。
今は敵本隊と合流して、こちらに進軍してきているはずです」
「敵総数は?」
「現在は合計で8,000ほど。
更に援軍が来る可能性もあります」
私は、深く息を吸った。
この空気の冷たさが、肺に刺さる。
1万対2千で、それだけ健闘したのだからグランツ軍本隊は、かなり強かったと言える。
しかし、ここからが本番なのだ。讃えている暇はない。
「籠城戦の準備はしてあるわ。
動ける兵士で、刑務所から囚人を出して前線に配置しなさい。敵の進軍を遅らせるの。
囚人には、すでに顔に印をつけてあるはず。
抵抗したり逃走したら、容赦なく斬りなさい」
ジークが静かに頷く。
彼の黒い軍装の肩には、まだ血の跡が残っていた。
「それから──この城には今、女子供たちが避難している。
手の空いている者には、アルディア王国軍の紋章を作らせて。兵士の軍服に縫い付けるのよ」
「はっ?!」
「籠城戦に耐えうる数の兵が揃ったら、 その紋章をつけた兵と共に、私は隣領へ行って公開処刑を行う。
そうすれば、他の領主たちはすぐに援軍を出すわ」
ジークの太い喉が、ごくりと鳴った。
「あ、先に林から賊を連れてくるべきかしら。囚人と同じようにして、戦力にするの」
「わかりました」
その声は低く、けれど確かだった。
アデル従兄である彼は、どんな命令でも遂行する。
それが、どれほど血を流すことになっても。
「敵は、何時間で来る?」
「追撃部隊が本隊と合流して、こちらに向かうのに……早ければ10時間ほどかと。
我らは強行軍で戻ったので、敵も同じ距離を強歩で来るはずです」
この真冬に──
その距離を、兵を率いて走ってきたのか。
アデルも……。
「兵士を休ませなさい。
敵が市街地門まで来たら、壁上から攻撃する。
まず、眠れるだけ寝ておきなさい。
これ以上、士気が下がれば危ないわ」
私は、深く息を吐いた。
「新しく加わって、体力の残ってる者たちは、火炎瓶を作るなどしていて。
……私も、眠れるだけ寝る。
ひき肉を用意しておいて」
ジークが深く頭を下げ、部屋を出ていった。
私は、目を閉じた。
戦うためには、今は休まなければならない。
夕暮れの光が、薄くカーテンを染めていた。
目を開けると、部屋の空気が少しだけ温かい。
蝋燭の灯りではなく、窓から差し込む橙色の光。
私は、ゆっくりと身体を起こした。
「お食事を用意してあります」
フレアが、そっと声をかけてくる。
銀の盆の上には、湯気の立つスープと、加熱された赤身のひき肉。
「……状況を」
私は、スプーンに手を伸ばしながら尋ねた。
「敵は、近くまで来ているようですが──」
「うん?」
「かなり数が減って、進軍を足踏みしているそうです」
私は、スプーンを止めた。
「まさか……囚人が?」
「はい。顔に焼き印が入っている以上、 逃げてもいずれ捕まります。戦うしかなかったのでしょう。
何割かは、それでも逃走したようですが」
「敵の数は?」
「約5,000だそうです」
「そんなに減ったの?」
8,000と言っていたのに。
「はい。あの刑務所は、凶悪犯専用ですので、戦闘力は下級兵よりあります」
逃げた凶悪犯たちの動向に、警戒が必要だ。
とはいえ、今はそちらに人員を割く余裕はない。
「囚人と共に出陣した数は?」
「3,000で、2,500戻ってきました。
囚人は、1,200です」
……刑務所にいた囚人は、2,000。
つまり、1,300の損失で、敵を3,000減らしたということ。
脱走者の数を考えれば、味方の死者はもっと少ないはず。
これは──確かに、敵は進軍をためらう。
同時にゾッとした。
もしも囚人が敵と戦わず反乱していたら、3,000の我が軍が0になっていた可能性がある。
そうなると、砦から兵が到着しても間に合わなかったかもしれない。
今頃この部屋にも、敵兵がいたかもしれない。
思わず、自分の腕を握る。
「他の兵は?」
「夜に砦から2,000と、郊外からの徴兵がいくらか」
こちらの兵は、今3,700。
夜になれば、さらに2,000以上が加わる。
敵は5,000。
数では、もう互角に近い。
しかし、問題は士気の低さ。
領主は行方不明。
私は出産したばかりで、まともに立てない。
備蓄は残り1ヶ月分。援軍は来ない。
敵は二国連合。
囚人まで解放したこの城に、誰が希望を見出せる?
──だから、私が動くしかない。
「最終兵器を出すしかないわ」
私の言葉に、フレアが顔をこわばらせた。
「え、あれは……死ぬかもしれませんよ?」
「いいえ。勝つためよ」
フレアが、地下倉庫から持ってきた小瓶。
黒く濁った液体が、瓶の中でゆらゆらと揺れている。
スッポン、ハブ、マカ、高麗人参──
ハレオン国から取り寄せた滋養強壮素材に、西洋ウコギと渡り鳥の胸エキスを混ぜた。
スポーツドリンクが売れた勢いで作らせたものの、あまりのまずさに誰も飲めず、地下に封印されていた。
私は鼻をつまみ、一気に飲み干した。
──ゴクリ。
「殿下! み、水を! 早く!」
フレアの叫びが遠くで響く。
「あああああ……っ」
胃が、焼ける。
喉が、裂ける。
目の奥が、熱で滲む。
私は踞り、震える手で胸を押さえた。
けれど──
「……顔が、熱くなってきた」
血が巡る。
心臓が、戦鼓のように鳴り響く。
視界が、冴える。
「打って出ましょう」
フレアが絶句する。
「このまま籠っていても、士気は崩れるだけ。
私が立てば、兵たちはまだ戦えると信じる。
これは、命を賭ける価値がある戦いよ」
私は、車椅子を引き寄せた。
まだ足は震えている。
けれど、心はもう、戦場に立っていた。
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