第2話
私は、かつて辺境伯夫人が使っていた部屋のソファに沈み込んでいた。
ここが私に割り当てられた私室だ。
蝋燭の灯りが揺れ、壁に映る影が疲れた私の姿をなぞる。
「ああ、働いた……。すごい働いてるのに、誰か給料くれるんだろうか?
カスパルの死んだ(殺した)愛人から慰謝料はとったけど、それだけ?」
誰にともなく呟くと、傍らでメイドがクスクスと笑った。
フレアという黄色い髪の少女だ。
「結婚を仕事と捉えてるのですね」
「そりゃそうでしょ。初めて会う人と結婚しなきゃいけないんだから」
この土地では、当主が領地を離れられない。
だから、カスパルと婚約した時、事前の顔合わせなんてなかった。
扉の外から、控えめな声が届く。
「アデル様が、いらっしゃいました」
……疲れてるのにな。
「どうしたの? 安静にしてた方がいいわ」
扉を開けて入ってきたアデルは、相変わらず整った顔立ちをしていた。
けれど、その表情はどこか硬い。
「これから、閨を」
私は一瞬、言葉を失った。
「……誰に言われたの?」
「自分で決めました」
その言葉に、私はまぶたを伏せた。
彼は真面目だ。責任感もある。
けれど、それは“義務”としての行動に見えた。
そのとき、ノックの音が重なった。
使用人が顔を覗かせる。
「失礼します。お探しの人物が見つかり、客室に来ておりますが……明日お会いになりますか?」
私は立ち上がり、アデルに視線を向けた。
「すごいタイミング。一緒に行きましょう」
客室の扉を開けると、そこにいたのは──
「は、ははは初めましてっ! エリセ・ノルンと、ももも申しますっ!」
オレンジ色の髪をふわりと揺らしながら、少女が深々と頭を下げた。
「面を上げて。楽にして良いわ」
「ははーっ!」
彼女は顔を上げた。
そばかすの浮かぶ頬が真っ赤に染まり、目元は涙ぐんでいる。
小柄で童顔。まるで春先の花のように、頼りなくも愛らしい。
その姿に、思わず吹き出してしまう。
「そんなに緊張しなくていいわ。座って」
私の隣にアデル、向かいにエリセ。
3人で向かい合ってソファーに座ると、私は本題に入った。
「私があなたを屋敷に呼んだのは、このアデルと婚約してはどうか、と思ったの」
「「えっ?!」」
2人の驚きが、見事に重なった。
エリセは目を白黒させ、アデルは固まっている。
「そうね、いきなり婚約というのも難しいだろうから……しばらくエリセは、この屋敷に住んで、アデルの補佐をしてちょうだい」
「えっ? わた、わた、私……っ?! あの、仕事が……!」
「パン屋の売り子ね。代わりの人間を派遣するから、心配しないで。
それじゃ、あとは2人で仲良く」
私は立ち上がり、部屋を後にした。
廊下を歩き出すと、すぐに後ろから足音が追ってくる。
「どういうことですか?!」
アデルだった。
顔を紅潮させ、紺の眉をひそめている。
「あれ? エリセと話さないの?」
「僕は……殿下と婚約するのでしょう?」
「私、まだカスパルの婚約者だけど?」
「将来的に、です」
原作では、ルシーナが殺された後、アデルとエリセが出会って結婚する。
と言うことは、私が先に結婚すると、きっと不倫泥沼になるのでは?
「運命、感じなかった? エリセに」
「はい? なぜ?」
あれ? ビビビって来なかったみたい。
「好みのタイプじゃないの?」
「だから、何故そんな話に……違いますよ。僕は……」
言いかけて、彼は口をつぐんだ。
私は少し迷ってから、口を開いた。
「私、未来が見える時があって。たまになんだけど。
カスパルとの初夜も、わかってたから回避できたの。
それで……あなたは彼女と結婚するわ」
未来視などできない。
ここが小説の中だと説明するのが、面倒なだけ。
「はい? では、なぜ僕を次期当主に推したのです?」
「家臣団が割れると大変だと思って。
でも、間違ってた。
ライガの方が、辺境をまとめるのに向いてる」
その瞬間だった。
アデルが私の前に立ち塞がり、壁に手をついた。
──壁ドンだ!
「納得できない! ようやく覚悟が固まったのに、こんなこと……!
僕を試してるなら、教えてあげます。
初めて殿下を見た時から、本当は兄でなく僕が婚約者ならよかったのに、と思ってました」
そして、彼は私を抱き上げた。
「ちょ、ちょっと……!」
「もう、引き下がれません」
彼の腕の中で、私は思わず息を呑んだ。
廊下の蝋燭が、2人の影を長く伸ばしていた。
そのまま彼は私を抱えて、自室の方へと歩き出す。
廊下に響く足音と自分の鼓動。
アデルの腕の中で、私は身を起こしかけた。
その先に、黒い影が立ち塞がっていた。
「大声出してると思ったら、お前か」
ライガだった。
黒革の上着の前を開け、包帯の下から覗く胸元にはまだ赤黒い痣が残っている。
紅い瞳が、アデルを真っ直ぐに射抜いていた。
「どけよ」
アデルが低く唸るように言う。
「いや、退いたら負けだろ。姫さんを降ろせ」
「うるさい。殿下も家督も、僕のだ」
「お前には、どちらも荷が重い」
「熟考して決めたことだ」
「嘘つけ。姫さんの尻に敷かれるのが嫌で、逃げようとしたくせに。
その判断の遅さが、ここでは命取りだ。
お前は、当主に向いてない」
「黙れ! 庶子より嫡子(本妻が産んだ長男の処刑が確定してるため繰り上がる)の僕が、正統だろ。引っ込んでろ!」
その言葉に、私は静かに口を開いた。
「……私も庶子なの。
あなたとは、やはり気が合わないみたい」
アデルの足が止まり、腕の力が緩んだ。
その隙を逃さず、ライガが私を奪い取った。
私は何も言わず、彼の肩に身を預けた。
アデルの顔が見えなかったのは、少しだけ救いだった。
私室に戻ると、ライガは私をベッドにそっと降ろした。
そのまま、顔を近づけてくる。
けれど、私は指先で彼の唇を押しとどめた。
「怪我が治るまで、ダメよ」
「早くしないと、アイツにとられる」
「大丈夫。エリセとくっつくから」
「誰だ、それ?」
私は笑った。
「ふふ、まだ秘密。
心配なら、一緒に寝ましょう。
ただし、子作りは──怪我が治ってから」
「は? 俺に拷問を受けろ、と?」
「嫌なら、自分の部屋に帰って」
ライガはしばらく黙っていたが、やがて深くため息をついた。
「……わかった」
その声は、どこか甘く、どこか悔しげだった。
私は微笑みながら、蝋燭の火を見つめた。
朝、まだ冷たい空気が廊下に残っている。
私はマントを羽織り、扉を開けた。
その瞬間、目の前に人影があって、思わず足を止める。
「アデル?」
彼は、廊下に跪いていた。
紺の髪が乱れ、顔は伏せられている。
その姿に、私は思わず息を呑んだ。
「昨晩は激情に駆られてしまい、申し訳ありませんでした」
「え、あ……忘れてた。別にいいよ。
エリセと、お幸せに」
私がそう言うと、アデルはゆっくり顔を上げ、視線を私の隣にいたライガへと向けた。
「……一晩、一緒だったのですか?」
「ええ」
私が答えると、彼はしばらく黙り──そして、静かに頷いた。
「……わかりました」
その背中が、少しだけ小さく見えた。
午前中は、ライガと執務室で仕事を進めた。
彼は無口だったが、手際は良く、判断も早い。
私が指示を出すと、すぐに理解し、必要な書類を整えてくれる。
この土地のことを、彼は本当に知っている。
それが、何よりも頼もしかった。
昼になり、私は椅子から立ち上がった。
「そろそろ、食堂に行きましょうか」
そのとき、ノックの音が響いた。
扉が開き、エリセが顔を覗かせる。
「失礼します……あの、暇すぎて、パンを焼きまして。
ちょうど昼食の時間なので……」
彼女は、両手に籠を抱えていた。
焼きたてのパンの香ばしい匂いが、部屋にふわりと広がる。
「ありがとう。では、パンを持って一緒に食堂に行きましょう」
食堂には、私、ライガ、エリセの3人。
テーブルの上には、温かいスープと、エリセの焼いたパンが並んでいた。
「アデルは、引きこもってるようね」
パンの味を褒め、一通り世間話し終えると、アデルについて切り出した。
「そうですか……。
あの……どうして、私が婚約者候補に選ばれたんでしょうか?」
「私たまに、未来予知できることがあって」
「すごい!」
エリセのオレンジの目が、ぱっと輝いた。
その反応があまりに素直で、私は思わず笑ってしまう。
「あなたたちが、結婚するのが見えたの」
その瞬間──
カランッ。
ライガの手から、カラトリーが落ちた。
銀の音が、食堂の静けさを切り裂く。
「大丈夫ですか?」
エリセが心配そうに覗き込む。
「あ、ああ……」
ライガは紅目を逸らしながら、ぎこちなく答えた。
なぜか、妙に動揺している。
彼がこんなふうになるのは、珍しい。
「彼、寝てないの。
ね、昼食が終わったら寝た方がいいわ」
「……そうだな。そうさせてもらう」
彼はスプーンを置き、スープを見つめたまま、静かに頷いた。
更に翌朝、鏡の前でラベンダー色の髪を結いながら、私は決めていた。
今日、ライガを次の辺境伯に指名する。
実力は十分だし、何より──この地を動かせるのは、彼しかいない。
「ライガを次の辺境伯にするって公表するから、家臣団を集めて」
「わかりました」
メイドが一礼し、足早に部屋を出ていった。
私は深く息を吐き、書類に目を落とす。
心のどこかが、ざわついていた。
けれど、それが何なのかは、まだ言葉にできなかった。
しばらくして、メイドが戻ってきた。
手に何かを持っている。
「あの……ライガ様の寝泊まりしていた客室に、これが……」
差し出されたのは、折りたたまれた紙片。
開くと、そこにはたった一行──
「エリセに一目惚れしたので、彼女と生きる」
「どうしますか?」
私は紙を見つめたまま、しばらく黙っていた。
胸の奥が、じんわりと痛む。
彼が私を好きだなんて、言ったことはない。
なのに──なぜ、期待していたんだろう?
彼と一緒にいる未来が、当たり前に来ると思い込んでいた。
この短期間で。
そう。選ぶ権利は、向こうにもある。
思いのほかショックが大きくて、うまく考えがまとまらないけれど、私は王女であり領主代理だ。
感情より、決断が先。
「これで、次の辺境伯はアデルに決定したわ。
その旨を、みんなに伝えて」
ともかく、公表する前でよかった。
それだけが、唯一の救いだった。
会議室に入ると、家臣たちがすでに揃っていた。
けれど──
「肝心の新当主がいないって、どういうこと?」
私の声に、場がざわつく。
ジークが、申し訳なさそうに頭を下げた。
「……引きこもってしまいまして」
──やっぱり、弱すぎる。
ロマンス小説の男主人公だから、繊細なのもわかる。
でも、これは現実。
この厳しい地を背負うには、覚悟が足りない。
とはいえ、アデルという直系がいるのに他に継がせるわけにもいかない。
「とにかく、次期当主はアデルに内定。
これから本人を説得して来るわ。
どちらにせよ、私が当主代理なので──今まで通りに執務を続けて」
私は立ち上がり、会議室を後にした。
アデルの部屋の前に立ち、ノックをした。
返事はない。
何度叩いても、沈黙だけが返ってくる。
「使用人は?」
「中には誰もおりません。食事も手つかずで……」
メイドの声が不安げに揺れる。
私は扉の取っ手を試したが、鍵がかかっていた。
「斧を持ってきて」
「えっ、殿下……?」
「壊すの。今すぐ」
数分後、斧を受け取り、私は扉の蝶番に狙いを定めた。
重い音が廊下に響き、扉が軋みながら開いた。
部屋の中は、薄暗かった。
カーテンは閉じられたまま、空気は重く湿っている。
机の上には、書きかけの手紙と、伏せられたロマンス小説。
その隣に、インクの染みたハンカチが置かれていた。
ベッドの上。
アデルが膝を抱えて座っていた。
顔は伏せられ、肩がかすかに震えている。
平均より大きな体を、器用に丸めている。
私は静かに近づき、手にしていた紙を差し出した。
「あなたが次期当主で内定した。
辞退するかしないか、決めて。
辞退なら、ジークが次の候補になるわ」
アデルは顔を上げ、紙を受け取った。
それが、ライガの置き手紙だと気づいた瞬間、彼の目が揺れた。
「……子供が、できてたら?」
「ライガとエリセの?」
「いえ……殿下です」
「え、子供できることしてないわ」
私は思わず目を瞬いた。
「一晩、共にいたのでしょう?」
「お預けしたのよ。
あー、それで我慢できなくなったのかしら?」
もちろん冗談だ。
「……なんて、むごい」
冗談が通じなかった。
「2人とも怪我してるじゃない。優しさでしょうよ」
アデルは唇を噛み、視線を逸らした。
「僕は……ライガの代わりですか?」
「当主は、代わる代わらないじゃない。使命よ。単なる順番」
「夜の話です。
順番なら、どちらも僕はライガより前だったはずだ」
「あなたは、ライガの弟でしょう」
「……僕は本家なのに」
私は、深くため息をついた。
子供の拗ねに、これ以上付き合う気力はなかった。
言ってもアデルは、ルシーナより年上の二十歳だけど。
「では、当主は辞退するのね」
「そんなこと、言っていない」
彼の声が、かすかに震えていた。
私は紺の目を見つめ、静かに言った。
「では、家臣団の前で正式に公表して、手続きをしましょう」
カスパル・グランツ辺境伯の処刑が決まった。
表向きには「怪我の悪化による死」とされた。
私は、予定通り「婚約者の喪に服す」と宣言した。
これで、しばらく縁談はないだろう。
黒の喪服を纏い、政務に戻る。
アデルを正式に辺境伯とする手続きが、静かに始まった。
書類の山を前に、私はふと手を止めた。
「ライガに任せてた仕事、誰に引き継いでもらおうかしら?」
「どんな内容ですか?」
アデルが、真面目な顔で尋ねてくる。
まだ顔の痣が消えていない。
私は書類を1枚抜き取り、彼の前に置いた。
「娼館をつくるの。たくさん」
「えっ? そんなことしたら風紀が乱れて、治安が悪化するではないですか」
「グランツ領の治安の悪さ、国内1位だけど?」
「それは……刑務所があるからです」
その時、アデルの従兄ジークが椅子に背を預けながら、口を挟んだ。
「いやー、そんなレベルじゃないって。地上の地獄だぞ、ここ」
私は笑いをこらえながら、手を挙げた。
「じゃあ、多数決しましょう。
娼館が増えた方が将来的にいいと思う人、挙手」
部屋にいた家臣たちのほとんどが、手を挙げた。
アデルだけが、顔を引きつらせている。
「それは! 殿下に気を使ってるんです!」
書記官のトーマが、静かに口を開いた。
「娼館の周りに食堂や酒場ができれば、栄養面も衛生面も良くなります。
殿下はそこで石鹸を配布すると仰せですし、寿命も延び、女性が増えれば既婚者も増える。
どう考えても、最善です」
アデルは黙り込んだまま、視線を落とす。
私は、ため息をついた。
……ライガと仕事してた方が、早かったし、楽しかった。
ようやく王室からの返答が届いた。
内容は「アデルの忠誠心を確かめるため、登城せよ」というもの。
「1ヶ月、待たせて。これか」
ジークが呆れたように言う。
私たちがアデルを辺境伯に認めるよう嘆願書を王宮に出してから、1ヵ月が経っていた。
私は、ぶるぶる震えるアデルを見下ろす。
たかが王宮に行くだけなのに、そんなに怖いものか。
「グランツ家の直系は、領地から出ない決まりなのです。
敵の数が多すぎて、守りきれないから」
ジークの言葉に、私は頷いた。
それは、原作を読んで知っている。
「悪いけれど、私が一緒に行ってもしてあげられることはないし、こちらにやることがたくさんあるの。頑張ってね」
王に会っても、ろくなことはない。
それは、私が一番よく知っている。
でも……大丈夫かな、この人……。
アデルが王都へ出立する前夜。
執務を終え、ようやく自室に戻ると、メイドに呼び止められた。
「殿下、辺境伯夫妻の寝室へお越しください」
「……私の部屋じゃなくて?」
「はい。急ぎのご用件とのことです」
不穏な気配を感じながら、私は案内された部屋の扉を開けた。
そして、目に飛び込んできた光景に、思わず言葉を失った。
カーテンの閉じられた寝室。
その中央、ベッドの上に──アデルが、裸で縛られていた。
「……どうしたの? 強盗?」
私の問いに、アデルは顔を上げ、真っ赤になりながら答えた。
「辺境伯の屋敷に入る強盗はいません。
……家臣団に、殿下と子作りするよう強く言われました」
私は眉をひそめた。
「あなたの意思は、どうなの?
縛られてるということは、無理やり連れてこられたのでしょう」
「違います。これ……性癖です。責められるのが、好きなのです」
明らかに嘘だった。目が泳いでいる。
家臣を庇ってるんだろう。
そもそも、そんな設定、原作小説のどこにも書いてなかった。
「ねえ、アデルを解放してあげて」
私が声をかけると、メイドが無言でハサミを取り出し、縄を切った。
「ああああ……」
アデルが情けない声を上げる。
「おやすみなさい」
私はくるりと踵を返し、自分の部屋へ戻ろうとした。
「お待ちください! 子作りを!」
背後から、必死な声が追いかけてくる。
「えっと、まず、あなた……私が怖くて次期当主を拒んだわよね?
それから、私に『ライガの方が当主に向いてる』って言われて引きこもったわよね?
今、どんな心境なの?」
心から知りたいよね。
「一時はショックで、目の前が真っ暗でした。
でも……当主は、僕以外にいないので」
「……当主になるため、後継ぎを自分の子にするために、子作りをする、と?」
「いけませんか?」
私はしばらく彼を見つめたあと、静かに頷いた。
「そうね……作りましょう。
ただ……できそう?」
それが重要である。
「その棚の酒は媚薬だそうで。ダメな時は、あれを」
「わかった。湯あみするから、待ってて」
「僕は、そのままで構いません」
「え?」
私が戸惑っていると、アデルが私の腕を引き、そのままベッドに倒れ込んだ。
すでに裸の彼が、私の上にのしかかってくる。
「あの……湯あみ……」
私の言葉を無視して、彼はキスを落とした。
けれど、歯が当たって、私は思わず笑ってしまう。
「ご、ごめんなさい」
「初めてだったもので……失礼しました」
「え? さっき『責められるのが好き』って……」
さっそく矛盾か。
「娼館では普通、キスはしません。
ご存知の通り領には女性が少なく、僕は領の外に出たこともないので……恋を知りません」
マゾは嘘でも、娼館には行ってたのね。
「本当に、エリセに何も感じなかった?」
だって、原作小説では──あなたたちが主人公とヒロインだったのに。
これから泥沼になるなんて、面倒くさい。
「感じたのは、ライガでしょう。僕ではありません」
「あ……」
ライガとエリセが、駆け落ちしたのを思い出した。
急に胸に痛みが走る。
「……まだ、ライガを想ってるんですね」
──正直、何度も帰ってきてほしいと思った。
冗談だよ、と言ってくれれば、話を合わせたのに。
でも、これだけ時間が経ったら、もうダメだ。
──どうやら私は、惚れてしまったらしい。
あの屈強さと大胆さと、茶目っ気を併せ持つ男に。
「……やはり、今夜はやめておきましょう」
アデルが身を引いた。
私は、そっと起き上がり、彼の広い背中に声をかけた。
「ごめんなさい。王宮から戻ったら、続きをしましょう」
「……はい」
その返事は悲しそうで、少し嬉しそうだった。
1ヶ月ぶりに、アデルが帰還した。
城門に現れた彼の姿を見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。
紺の髪は乱れ、頬はこけ、目の下には深い隈。
白い軍装は埃にまみれ、肩のあたりには血の滲んだ包帯が巻かれていた。
あの整った顔立ちはそのままに、どこか影を帯びていた。
「……何があったの?」
私の問いに、彼はかすかに笑った。
「……たいしたことありません。6回死にかけただけです」
「そ、それは何て言うか……王の承認は?」
背後に控える家臣たちも、息を呑んで見守っている。
「ええ。無事に、辺境伯になりました。
ただ……『殿下と結婚するように』と」
「あー、やっぱり! 何て答えたの?」
「『殿下は、先代の喪に服しているので』と答えました」
「ナイス! 一生、喪中でいるわ!」
そう言った瞬間、アデルの顔が一気に曇った。
私は首を傾げる。
「領地をお任せしていて、すみません。
何か困ったことは、ありましたか?」
「いいえ? 順調よ」
「……そうですか。良かった」
寂しそうに笑った彼に、少しだけ胸が痛んだ。
それから1週間。
アデルは1度も、私の寝室に来なかった。
最初は、疲れているのだろうと思っていた。
けれど、日が経つにつれ、ぎこちないと感じ始めた。
子作りは、無理やりするものではない。
この際、ジークでもいいかもしれない。
そう思い、夜の廊下を歩いていたとき──
「……こんな時間に、どこへ?」
アデルと鉢合わせた。
蝋燭の灯りに照らされた彼の顔は、どこか寂しげだった。
窶れが取れたのは、良かったけど。
「ジークの部屋へ行こうとしてたの。
子作りは、無理やりするものではないもの。
あなたを待ってても、埒が明かない」
アデルは傷ついた顔をして、紺の目を伏せた。
「……僕と婚姻したくないのは……兄達のように、僕も裏切ると思うからですか?」
"達"にライガも含まれると思うと、胸が痛んだ。
「裏切るというか、そもそも信頼関係を築いていないのに信じる方が、おかしいわね」
「そうですね……。
……僕自身が、その……嫌いなわけでは?」
「え? 嫌うほど、あなたのこと知らないわ。私は政略結婚で、ここに来たのよ」
小説を読んでた時は、好感を持っていた。今も0ではない。
「しかし、ライガのことは……好いてたようだ。ライガと居た時間だって、僅かだったのに」
私は、思い切り目を逸らした。
「……やはり」
「後継を作ることと、私の恋愛感情がどこにあるかは関係ないわ。
子作りは王命なのだから、やらないと色々口出しされて面倒なことになる」
私は苛立って、突き付けるように言った。
「……僕を、愛してもらえませんか」
その言葉に、私は思わず目を見開いた。
「な、なぜ?」
「入籍しなくても、後見人として一生ここにいるのでしょう?
義務として子供を作り、育てるのは……虚しくないですか?」
「制度や義務については約束できるけど、自分の心は約束できない」
今のところは私は、アデルを情けないとしか思っていない。
「……殿下が僕に失望したのは……僕が、殿下を恐れたせいですよね?」
「失望というか……先行きを不安に感じたわ」
アデルは俯き、拳を握りしめた。
グランツ家の男は全員長身で、そうすると中性的な顔の彼でも迫力がある。
「……今から、殿下のお部屋に行っても構いませんか」
私は驚いて、思わず半歩下がった。
「い、今? きゃっ──」
そのまま、彼に抱き上げられた。
廊下を進む当主を、メイドも騎士も止めなかった。
皆、黙って頭を下げ、道を開けた。
寝室に着くと、アデルは私をベッドにそっと降ろし、傍らに跪いた。
蝋燭の灯りが、彼の整った横顔を柔らかく照らしている。
「王都に行く前の約束を、果たして構いませんか」
──このタイミングで?
本当に、彼にできるのだろうか?
そんな思いが胸をよぎったけれど──
彼は、返事を待っていた。
だから、私は、小さく頷いた。
まさか、最後までできるとは思っていなかった。
跪いていたアデルの姿を思い出すたび、私は自分の見通しの甘さを思い知らされる。
──彼は、あれから毎晩、私の部屋に通ってくるようになった。
最初は優しかった。
けれど、日を追うごとに、彼の熱は増していった。
まるで、何かを埋めるように。
あるいは、何かを証明するように。
「ま、ちょ、待って、ねえ……!」
私はシーツを握りしめ、息を乱しながら訴えた。
「早く子供が欲しいのでしょう?」
アデルの声は、いつも通り静かで、けれど熱を帯びていた。
「し、し過ぎよ! 週に1度でいいのよ!」
「その頻度では、子供はできません」
「そ、そうなの……?」
子作りって、そんなに大変なの?
「ええ。そうでなければ娼婦は全員、妊婦です」
「それは……避妊してるからでは?」
「避妊の精度なんて、あってないようなものです。
さあ、おとなしくして」
「ま、待って……! 毎日あなたが朝まで離さないから、日中仕事ができないじゃない!」
「辺境騎士の体力を甘く見た罰ですよ。
相手がジークでも、ライガでも、長兄に愛人がいなかった場合でも──
同じ結果になってました」
「ひっ……」
私は無駄だとわかりつつ壁まで逃げたが、やはり簡単に捕まってしまった。
そして──2カ月後。
医師から懐妊の報せを受けたとき、私は思わず立ち上がっていた。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
これが、命の重みというものなのだろうか。
「アデル!」
執務室に駆け込んで、彼のもとへ報告した。
彼は、いつものように書類に目を通していたが、
私の言葉に、ぴたりと手を止めた。
「……できたのですね」
「ええ! やったわ、アデル! 後継ができたのよ!」
私は笑顔で彼に駆け寄った。
けれど──彼の顔は、どこか微妙だった。
「嬉しくないの? 後継ができたのに」
彼は一瞬、黙ったが笑顔を作った。
「……嬉しいですよ。もちろん」
私は追及せず、自分のデスクへ戻った。
家臣団がお祭り騒ぎで、仕事にならなかったが。
寝台に入ろうとしたそのとき、扉がノックされた。
開けるまでもない。足音でわかる。
寝支度を整えたアデルが、いつものように部屋に入ってきた。
けれど、私は慌てて布団をかぶって叫んだ。
「ま、待って! ダメ! 子供に何かあったら、どうするの?!」
「安定期までは抱きません」
「……あん……え? 安定期すぎてもダメ!」
「なぜ? 僕に死ね、と?」
「抱かないからって、死ぬわけないでしょ。
今までの生活に戻るだけよ」
「あなたを知る前に戻ることなど、できません」
その声は、妙に真剣だった。
さすがロマンス小説の主人公だけあって、情熱的。
でもその熱は、本来ヒロインに捧げるものでは?
「僕は、あなたの美しさと愛らしさの虜です」
身分が低いにも関わらず後宮に召し上げられた母の美貌を、ルシーナは確かに受け継いでいる。
でも、それとこれとは話が別。
「とにかく、出産して落ち着くまで禁止」
「そんなバカな!」
私は無視して、布団をかぶったまま目を閉じた。
アデルはしばらくぶつぶつ文句を言っていたが、やがて諦め出ていった。
──え? 一緒に寝ないの?
きっと、抱けないなら近くにいたくないから帰ったのだろう。
少しだけ、胸がちくりとした。
妊娠したおかげで、抱き潰されることはなくなった。
その分、日中の執務に集中できる時間が増えた。
書類の山を片付け、視察に出て、民の声を聞く。
「妊婦なんだから、そんなに働かないでください」
アデルが、紺の眉をひそめて言ってくる。
「だけど私、領民に認めてもらいたいの」
「殿下は王族なのですから、“民が認める”などとおこがましいことです。
大きく構えていらっしゃれば良いかと」
……それができれば、どれだけ楽だったろう。
父王は、いずれ婚姻を強制してくるだろう。
それまでに私は当主代理・後見人として働き、領地にも王家にもメリットを与えておく。
そうすれば──入籍する意味がないと、説得できる。
前辺境伯カスパルの件もある。
入籍してしまえば、私は“王女”から“辺境伯夫人”になる。
その瞬間、王家の権威を失い、また軽んじられる。
それだけは、避けなければならない。
「……うっ」
突然、胃の奥からこみ上げるものを感じ、私は口元を押さえた。
嘔吐し終えた私は寝台に横たわり、浅い呼吸を繰り返していた。
胃の奥が重く、喉がじわじわと熱い。
アデルの手が、そっと私の背をさする。
「悪阻くらいで……大袈裟だわ」
「代わってあげられないので、せめてこうしたいのです」
夜、一緒に寝たくないのに、介護はするのね。
家臣団への円満アピールかしら。
私は目を閉じたまま、何も言わなかった。
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