第2話 飲み会、七年ぶりに四人で。
「そりゃ」
「実は」
アオの声と俺の声が重なった。俺はツバサの「カズト、なんでウーロン茶? 酒駄目なんだっけ?」という言葉に返すところで、アオはリュウセイと何か会話して、答えたところのようだった。一瞬顔を見合わせた後、譲り合うのも面倒だと思ったので続けた言葉も重なった。
「明日仕事だからな」
「記憶喪失になっちゃって」
ツバサの箸から、唐揚げが落ちる。
「嘘だ。カズトが、仕事? まっさかぁ。カズトに勤労なんて概念あるわけないないない」
リュウセイが横から舌打ちを飛ばす。
「おい。もったいねえな、それちゃんと食えよ」
「え~、リュウセイ知ってたワケ? カズトが、働いてるって。リアクション薄~」
「あぁ? 俺だって頭おかしくなったのかと思ったに決まってんだろ。俺じゃなくてカズトの」
「あのカズトが仕事とか。あ、ガチでショック受けてるわ俺。カズトって無職の申し子ってイメージだったからさぁ、つっら~」
「お前らは俺をなんだと思ってるんだよ」
ツバサが落ちた唐揚げを拾わないので、俺が箸で突き刺して口に入れた。旨い。少し冷めている。
このグループがいつできたのかは覚えていない。なんとなく何かのきっかけで出会った同い年が集まるようになって、四人で飲んだり遊んだりするようになった。
「ま~じで時間の流れを感じたわ~。俺も老いるわけよ」
「何歳って設定で生きてるんだよ」
「実際さぁ、脂もんとかきつい日ない? 俺ある~。厚切りステーキ余裕だったのに、チキってロブスターサラダとか言っちゃったりしてさぁ」
「おい、カズト、ツバサのいらねぇ話拾うな。このアホ永遠に世迷い言やめねえぞ」
「ってかさ~。俺たち、最後に集まったのいつだっけ?」
「ツバサがアメリカ行く前だから……七年ぶりとかじゃないか?」
「七年! って事は俺達二十八! やべ~、時間の流れって残酷だよなぁ!」
「うっせーよ、声抑えろ」
「だって驚きじゃ~ん? なんか予想外過ぎて何食ってたか忘れたわ。追加でなんか頼も~」
「自分の歳に驚くなよ、頭おめでてぇな」
久しぶりだなと思った。都内の安居酒屋で、唐揚げや枝豆をつまみながら話していると、それぞれのあまりの変化のなさにタイムスリップをしたような気分になる。
「その、俺の記憶喪失の話にももうちょっと興味持って欲しいんだけど」
俺のはす向かいで、アオが困り面をしていた。こいつと会うのも久しぶりだ。気弱そうな下がり眉の顔は、酒を飲めるようになったばかりの頃とほとんど変わりなく、むしろ幼くなった感がある。
「ごめんてごめんて。え~、記憶喪失とかやばいじゃん、おもしろ~」
「テメェは元からボーッとしてんだから変わんねえだろ。気合いでなんとかしろ」
「あ、アオがハマってたゲーム教えてやろうか! 記憶を消してもう一回やりたいってアレがリアルでできるじゃ~ん!」
「うるせえっつってんだろ九官鳥野郎。喰いながら喋んなカス」
「あの、俺、ホントに困ってて」
辛辣なリュウセイと適当なツバサに一方的にやり込められているアオが、俺に視線で助けを求めてくる。
ウーロン茶のジョッキを置いて、俺はアオの目を見つめた。
「そうだな。ところで、お前に貸したままだった五千円のことだが」
「おいカズトもそっち側行ってんじゃねえ! ふざけんな!」
「あははははっ、あ、おねーさん。生中く~ださい! あと茶碗蒸しね!」
「てめえだけ頼んでんじゃねえぞ。全員分だ」
「じゃ、生中と茶碗蒸し四つでオナシャ~ス!」
俺が飲まない分一杯ビールが余るが、ツバサに二杯飲ませればいいだろう。
「で、記憶喪失って大丈夫なのかよ」
「それが、本当に困ってるんだよ。俺、なんだか引っ越しするところだったみたいでさ。家具とかも全然ないし、さっさと立ち退いてくれってマンションの管理会社から通知も来てて」
「え~、でも俺達の顔とかわかるんしょ?」
「何にも覚えてないってことはないよ。でも二十歳くらいからの記憶がぐちゃぐちゃ。カズトの髪が黒くなっててびっくりしたくらい」
「はぁ? アオ。テメェ、医者には行ったんだろうな」
「脳の輪切り写真とったよ。問題ないって」
「CT? めっちゃ怖いよな~。うるさいし。掃除機に吸い込まれるアレってこんな気持ちなんだろうなぁって感じするじゃん?」
「飲食店でその虫の話すんなよゴミ野郎。アオ、そんなんじゃ生活していけねえだろ」
「実際そうなんだよね。スマホも見当たらないし、びっくりする日付のカレンダーにこの店の名前が書いてあったからなんとなく来たら、この飲み会だったって感じです」
ビールが来た。一緒に料理も来たが、茶碗蒸しではなくてだし巻き卵が一皿、四等分されてきた。混んでいるから仕方がないが、会計の時にもめる気もする。だが店員に告げる前にツバサが箸をつけたので、ままよ、と俺も自分の取り分を確保した。
「なら、うち来いよ」
卵を口に入れながら言うと、うつむいていたアオが勢いよく顔を上げた。
「い、いいの?」
出汁が口の中であふれて、飲み込むのに時間がかかった。
「おう。部屋狭いけどな」
「あ、カズトさ~。結局仕事って何やってんの? 合法? 合法? この居酒屋で言えるレベル?」
「そんなヤバい仕事じゃない。俺の仕事は」
最後のだし巻き卵をツバサがかっさらうのを、リュウセイが箸で阻止している。確かに、二十一歳の時の俺なら、自分が働いているなんて信じられないだろうなと思った。
「トラックドライバー」
飲み会から三日後の休日、合流場所に車を走らせる。新宿と中野の境目、アパートとビルと個人宅が密集しているエリアだ。少しのスペースも余すまいと、どの建物もジャングルのように舗装路から生えていて、都庁のツインタワーが間近にあることさえ忘れそうになる。商店街に入ると、スーパーマーケットやコンビニの中に、個人商店がちらほらと見えた。
東京は、汚い。昔ラジオで聞いた何かの台詞を思い出す。無計画に都市が大きくなった結果、機能性とモラルが失われた。美しいネオンは暗がりに汚れを隠しているからだ。水面が輝くのはプラスチックごみが浮かんでいるからだ。腐敗臭の中をネズミとアライグマが走り抜けていく。東京都のイチョウのマークは美しい上部と大地を覆う糞尿のメタファーである。ここから先は覚えていない。多分配送先について、オフにしたからだ。
交差点でアオを見つけた。角度が悪く顔は見えないが、あの雰囲気はアオだ。ブレーキ、半クラッチでパーキングに。降りて声をかける。
「よ、待たせたな」
「うわぁ、本当にトラックだ。カズト、働いてるって、嘘じゃなかったんだね」
「どういう意味だよ。荷物、それだけか?」
アオの所持品らしいものは、リュックサックと、海外旅行客が持っているくらいの大きさのスーツケースだけだった。
「う、うん。何日か分の服と貴重品だけ。食器とか買っておいた方がよかった?」
「わからん。足りなきゃ足せばいいだろ」
トラックの後部ドアを開けて、スーツケースを担ぎ込んだ。
「ラッシングは、この軽さならいらないか」
「ラッシング?」
「固定のこと。普段はそこのベルトとかで、積み荷が動かないようにしてる」
「へぇ。専門用語だ」
俺は運転席に乗り込み、少し遅れて助手席にアオが上ってきた。
「こんな背の高い車、乗ったの初めてだよ。ステップに上がるとき股関節が危なかった」
「ちょっとした登山だろ。出るから、シートベルトしてくれ」
「あ、ごめん。マニュアルなんだね、免許とったんだ」
「おう。普通と中型」
「そうなんだ、あの、その、あー」
エンジンをかけて、サイドミラーの位置を確認。アオが載ったので、少し調整。発進する。
「あの、俺、記憶喪失だからかもだけど。なんだかあんまり舌が回らなくて。最近、俺たちって、会ってたっけ?」
「いや、ご無沙汰だったな」
「だよね。だからかな。うまく口が動かなくて。おかしいなぁ。記憶の中の俺は、カズトとしゃべりたくて、しゃべりたくて、いつも時間が足りないって思ってたくらいだったのに」
「別に、無理して話す必要ないだろ」
アオは助手席のサイドガラスに顔を向けている。覗き込めば反射で表情が見えたかもしれないが、運転中なのでしなかった。高井戸インター手前の赤信号で、ラジオをつける。
ドライバーズアプリの音声ガイドに重なって、男女の会話が流れ始めた。
『でね、そのとき思ったんだよね。桜に対する日本人の情熱を舐めてたな! って』
『主語がデカすぎですよぉ。お花見に行って隅田川に落ちる人なんて、世界でロアンさんだけですからねぇ』
『ミカちゃんこそ根拠なしでしょ。まあ、さすがにその酔っ払いもまずいと思ったのか、助けに飛び込んでくれたんだけどね。今度は二人で溺れそうになっちゃって』
『やめてくださいよぉ、水質汚染じゃないですかぁ。それでそれで?』
『通行人がペットボトル投げ込んでくれて、それ服の中に入れてプカプカ浮いてたら消防の人が助けてくれました。すごく怒られたし帰り道ドブ臭いし、とっても後悔した。つまり、歩きスマホはやめましょうってことだね』
『遠回りして教訓を得ましたねぇ』
『これ、昔の話だからね。今はそんなバカしてないから。この季節になるといつも思い出す、お花見のエピソードでした。さて、教訓といえば、えっと、そう三十年前にそんな名前のドラマがありました。この曲はそのオープニング。若い人は知らないのかな。アーティストはバッドエンドアルバトロス、刻まれた爪痕。どうぞ』
落ち着いた渋い中年の男声と裏声の混じるハスキーな女声が消え、音楽が始まる。BPMは八十。スローだが攻撃的なキーボードのイントロの後、転調してドラムとベースとギターが一気に主張してくる。
「ラジオって聞くの、すごく久しぶりかも。よく聞くの?」
「おう、眠気覚ましに」
「あ、居眠り運転防止ってこと?」
「眠気は運転の敵だからな」
「ラジオで眠気覚める?」
「内容と疲れ具合による」
「コーヒーとかじゃないんだ」
「尿意も敵だから。カフェインはとりたくない」
「じゃあ、ガムとかは?」
「ガムは捨てるタイミングがわからないから食わない。永遠に噛んでる」
「あはは、言ってたね」
「小技はいろいろあるらしいけど、俺はルート配送だから、ラジオが一番の眠気覚ましってところ」
「ルート配送って?」
「ローカルなドラッグストアとか、個人の小売店に商品を運んでる。うちは食品で、主力は冷凍とチルド」
「そういうことか。あ、歌うのも良さそうだよね。一人カラオケ」
不意に、胸に黒いものが詰まった。丁寧に呑み込んで腹に入れる。
「そうだな。同業だと運転中、歌ってるって人、多いって聞くな。俺はしないけど」
Bメロに入る直前、音楽が途切れた。
『臨時ニュースです。先ほど、東京都新宿区のマンションにて死体が発見されたとの発表がありました』
先ほどまで笑い話をしていた男性パーソナリティの硬質な声を、女性パーソナリティが引き継ぐ。
『遺体は死後三日程度、四十代から五十代の男性とみられ、頭部が切断された状態で管理会社社員に発見されました。現場から刃物のようなものは見つかっておらず、警察は事件性が高いと見ています』
「猟奇殺人かぁ。怖いね」
「そうだな、事件は毎日ってくらい起きてるが、首切りってのは」
インパクトが強いな。そう続けるのは不謹慎のような気がして、俺は言葉を探した。
『続報です。先ほど東京都教育委員会は、事件の起こった新宿区および、隣接する中野区の小中学校で帰宅待機を実施すると発表しました。この措置は二十三区全体でとられる可能性があります』
『急な帰宅待機で混乱されている保護者の方もいらっしゃると思います。こんな時、施設と一度にコンタクトをとろうとすると必要な回線がつながらない恐れがあります。落ち着いて、続報をお待ちください』
「先生も大変だよね。もう犯人が近くにいるかもわからないし、自分達にだって子供がいるかもなのに。突然の時間外労働で」
「そうだな」
東京の、よくあるニュース。パーソナリティたちは少し間を置いた後、また明るい話題に戻り、何事もなかったように車は中央道を西に走る。春は花見客で混雑している道だが、昨日の雨の影響か今日はガラガラだ。
被害者には気の毒だが、交通規制に巻き込まれなくてよかった。
国立府中インターチェンジを下りて、アパートの前でアオを降ろした。車を会社に返して部屋に戻ると、フローリングの上にアオが正座で座っていた。
「クッション使えよ。足首に悪いぞ」
「いや、家主に許可なく触っていいのかなって、っていうか、その」
目をさまよわせ、手のひらをこすりあわせた後、アオは口を開く。
「狭くない?」
「狭いって最初に言っただろ」
「同居させてくれるって言うからさぁ、さすがに1Kは想定外だったよ」
「寝れればどこでも同じだろ」
「えっと、本当にこの部屋で二人暮らし?」
「おう」
俺のベッドをしばらく見つめた後、アオは天を仰いだ。
「本当にカズトって子供の頃から。そういうとこだよね」
「そういうとこって何だよ。ほら、手伝え」
会社から担いできた金属の骨組みを部屋の中に運び込む。
「何これ、パーテーションの残骸?」
「会社のいらん備品もらってきた。これとカーテンで部屋を仕切るぞ」
「よかった。完全に同じスペースで生活する気なのかと思った」
「そっちの方が部屋は広く使えるが」
「あ、今の発言は忘れてください。組もう」
二人がかりで部屋に金属枠を設置して、窓から剥がしたカーテンをかけた。洗濯ばさみで固定する。二部屋になった。
「このむきだしの窓ガラスはどうするの?」
「残りのカーテンでカバーする」
「どう見ても足りないけど」
「どうすっかな。あ、古い市報があるな。これ張っとくか?」
靴が濡れたときなどに何かと便利なので溜めておいた新聞紙サイズの紙を見せると、新しい同居人はこの世の終わりのように眉をひそめた。
「居候させてもらう立場で言いにくいんだけど、窓にガムテープで市報が貼ってある家って、不審が過ぎるよ。一階だから外から丸見えだし」
「なら、夕方から雨戸閉めとくか。昼間はレースのやつがあるから平気だろ。次の休みにちゃんとしたもん買いに行くぞ」
「布団はどうするの?」
「俺はベッド、お前は下に敷くウレタンのマットレス。シーツは洗い替えがあるから、しばらくはこれで間に合わせてくれ」
アオが、再び天を仰ぐ。
「なんか緊張して損しちゃった。カズトは社会人になっても全然カズトだった」
「どういう意味だよ」
「そのまま。カズトだったなって意味」
中身のない言葉を残して、アオは荷ほどきを始めた。一段落して部屋の案内が終わったら、役割決めだ。自分のスペースの掃除は各自。トイレと玄関はアオ。風呂と台所は俺。洗濯は俺。ゴミ出しはアオ。
「家事って不思議だよね。すごく大変で毎日げんなりするのに、書き出してみるとこれだけって感じだ」
「生活しないとタスクがわからないから。気づいたら、その都度分担な」
「居候だからね。料理はするよ。食器も洗う」
「あー、それはない」
「え? カズト料理するの?」
「いや、料理ってもんがこの家にはない」
台所の収納を開けると、アオの口角がヒクヒクと動いた。
「カズトくん。この大量のブロック食品はなんですか?」
「メシ」
「まさか、三食これだけで生活してるってこと?」
「ちがう、ほら」
冷蔵庫の中身を見せる。野菜と牛乳が入っている。
「よかった……このピーマンで何作るの?」
「洗って生でかじる。ピーマンって種も食えるから」
「牛乳は?」
「飲む」
「そっかぁ」
「会社がサバ缶くれるから、そんときだけ空いたの洗ってくれ」
アオは、しばらく天を仰いだ後、死んだサバのような目で冷蔵庫の扉を閉めた。
「やっぱり料理は俺がするね。いや、決定、します。包丁とまな板はどこ?」
「ない。かなり前に捨てた気がする」
初日から居候が強硬に買い出しを主張してくるので、近所のスーパーに出向く。
「本当に信じられない食生活だよね。体壊すよ。っていうか、食事に喜びが感じられないでしょ」
「時間ないんだよ。特に不満もないし」
「本当に信じられない食生活だよね」
「さっきから十回くらいそれ言ってるぞ」
「本当に信じられない食生活だからだよ」
カートに乗ったバスケットに、調理器具と、食料品やら食器やらが放り込まれていく。トマトの段ボールは明らかに二人では多い気がする。トマトは冷凍できただろうか。
アオが、ブリと書かれた魚のトレイを手に取ったので、意識が現実に戻った。
「まてまてまて、丸の生魚はやめろ。っつか、そんなデカいモン食いきれないだろ」
「大丈夫だって、二人だし」
「お前捌けるのか?」
「動画とか見ればできるよ、きっと」
「実績ないのに言ってるのかよ。ダメだ」
店内で見苦しく揉めていると、背後から若い女声に話しかけられた。
「サクラくん?」
振り返ると、見慣れた制服を着た女性が台車の傍らに立っていた。ユイさんだ。
「あ、お疲れ様です」
俺が軽く頭を下げると、ユイさんも同じ動きをした後、首をかしげた。
「偶然、なんてわけないよね。このあたり住みなんだ」
「俺、そこの公園のところの角のアパートなんですよ」
「わぁ、会社から徒歩五分だね。そんなに直近だと便利に呼び出されない?」
「しょっちゅうっすね」
「気が滅入りそう。って、私もいつもお世話になってるのに失礼か。随分奮発してるね、買いだめ? 今日特売とかあったっけ」
「そういう情報はないですね」
買い物カートを覗き込んだユイさんは、周囲に目を配った後、顔を寄せて小声になる。
「ここ、最安値じゃないよ。少し遠いけど、一割くらい安いところ教えようか?」
「あー、ですね。でも、ここはBGMがいいんで」
「え、BGM?」
俺も声を潜める。取引先には聞かせなくていい話だ。
「選曲のセンスがいいって言うか、広告ソング流れないじゃないですか。アレ、疲れるんで」
「あー、わかる。寝るときにフレーズが頭の中で響くとうんざりするよね。雰囲気重視かぁ。でも、価格帯もギリギリ入れるラインだしね」
ユイさんは頷いたあと、アオに目を向けた。
「あ、引き留めてごめんね、お友達と一緒なのに。またね、会社で」
「はい、ご安全に」
台車を押して去って行く彼女の背中を見送る。
「魚はお前の料理の腕を見てからだからな」
「今の人、仕事先の人?」
「おう、ユイさん。同僚って言うか後輩ってところ」
「カズトの方がですますだったけど」
「職場だと、基本あのくらいの温度の敬語」
「きれいな人だったね。いい感じだったりする?」
「普通」
「カズト、本当に仕事してるんだねぇ。いよいよ嘘じゃない可能性がでてきたな」
「そんな嘘つく必要ないだろ。おい」
「なんとかなるって!」
「ならなかったらどうするんだよ。腹壊すからだめだ」
押し問答の末、結局巨大魚を買ってスーパーを出た。エコバック一枚では足りず、レジ袋も購入した。持ち合わせが足りるか不安だったが、アオがカードで払った。
帰り道。
「つうかお前、金あんの?」
「聞くの遅くない? 口座見たら結構あったよ。自分の生活費は出せるくらい」
「なら、家賃は折半だな」
「はーい。いくらですか?」
「今の払いの十倍」
「一人で? 二人で?」
「計」
隣を歩く友人が、眉をひそめた。
「格安なのかもだけど、あのアパートのぼろさを考えるとなぁ。物価、上がったよね。お菓子我慢しちゃった」
「これ以上買っても持って帰れないだろ、っつうか、まずそのブリ? の処理を考えてくれ」
「ごめんごめん。ちゃんと料理します。なんとかなるよ」
途中でアオの持つビニール袋の持ち手がちぎれたので、俺が抱えて、アオがエコバッグを持って歩いた。冷たい。
「明日なにしよう。記憶喪失じゃ、仕事も難しいだろうし。図書館にいくとかかな」
確かに、家に閉じこもりってものよくないだろう。ふと、ちょうどいいと思った。
「俺の横乗りしないか?」
「えっと、横乗り?」
アオが驚いた顔で振り返る。
「おう、横乗り。俺が運転中、助手席にお前が座んの」
「それをすると、何かいいことがあるの?」
「トラックって、視界が効かないんだよ。特に左側。だからお前が注意して、自転車とか来たら教えてくれ。あと、積み下ろしも手伝ってくれ」
「それ、仕事中ってことだよね。大丈夫?」
「給料は出ないだろうな」
「会社的には?」
「明日社長に聞いてみる」
「そんないい加減でいいのかなぁ」
「この間一人辞めて、頭数カツカツなんだよ。人手が足りない。お前が他にやることがあるなら無理にとは言わない」
「うん、ちょっと考えさせてください」
家に帰り、食事をした。湯を溜め、風呂に入り、頭と体を洗っている間に湯を抜き、裸のまま浴槽を磨いた。換気扇をつけた時に、今日から同居人がいるのだと思い出す。
「悪い。つい湯抜いた。また溜めてくれ」
「今日はシャワーでいいよ。お風呂、入った後にすぐ掃除するんだ」
「湯垢、放置すると後がつらいから」
アオと交代で浴室を出て、髪を乾かし、歯を磨く。ストレッチ。
「アオ、スマホの充電器は?」
「スマホなーい」
「そうだったな」
「タオルどこー?」
「今、出す」
スマホのアラームを設定し、予防線の目覚まし時計もセットした。歯を磨き、水を一杯飲んで、用を済ませたら寝る準備は終了。
「先に寝る。電気はお前のタイミングで消してくれ」
「え、早くない? まだ十時前だよ」
「明日三時起きだから」
「何かあるの?」
「仕事」
「仕事で三時起き?」
「俺のシフトは早いんだよ。じゃ、寝るから、おやすみ」
「あ、待って待って!」
アオが濡れた髪を拭きながら顔を出す。
「俺も行く。カズトの横乗り、させて!」
翌日、日の出前にアオと事務所に向かった。
「横乗り? いいよいいよ。もちろん。ただ働きしてくれる人、大歓迎」
社長は一瞬だけアオを見た後、すぐに書類に目を戻した。
「あー、ここの数字も間違ってる。ユイちゃん、ハンコどこだっけ。大きい方のやつ。あ、ちょっと! ハンドル握らせるのはだめだからね!」
「そりゃそうっすよ、免許ないし」
「カズトちゃんが面倒見るんなら心配ないだろうけど。ブロークンには気をつけてよ」
「わかってますって」
「たのんますよ、ホントに。アオ君だっけ、よろしくね」
「あ、はい……」
事務所でアルコールチェックを済ませる。一応アオにもやらせた。
「お疲れ様、サクラ君。あと、よろしく。アオ君? さん」
「あ、はい! よろしくお願いします!」
「お疲れっす」
ユイさんに片手をあげて挨拶を返して、事務所を出た。
伝票とバーコードチェッカーを持って駐車場に行って、トラックの鍵を開ける。
「じゃ、まずは荷受けに行くぞ」
「社長さんってさ、男性なのかな、女性なのかな」
「知らん」
「聞いたことない?」
「ない」
「でも、トイレでわかるよね」
「うちは共用が一個だけ。大きくなったら分けたいって話してるけどな。この話、社長に失礼だから」
「うん、だね。ごめん。深掘りはやめる。あと、ユイさんがいた気がするんだけれど」
「ユイさん半分内勤みたいな感じ。ドライバーやりつつ、平日は社長と交代で事務所に詰めてる」
「そうなんだ。で、荷受けって?」
「チルド食品の倉庫にいって、運ぶ荷物を受け取る。そんで、運ぶ」
「毎日この時間なの? 鶏だって寝てると思うけど」
「今日の朝シフトは、配送先の開店前に足の早い食品を届けて回る感じだから。特に今回はバラ積みだからきつい」
「バラ積み?」
「手で積むってことだ。やってみればすぐわかる。ラッシングは俺がやるから」
「そっか。よくわからないけど、なんとか頑張るよ。よろしくね、カズト」
「おう。手伝ってくれて助かる。こっちこそ、ありがとな、アオ」
エンジンをかけ、出発する。
凍てついた涙がぜんぶ乾いたら、夜明け一つとともに旅せよ トウジョウトシキ @toshiki_tojo
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