「鈍いって誰の事? 」(2)
3.回想・バレンタインと世界史
その頃から、直哉の周囲で小さな波紋が起き始めた。
高一の二月。郵便受けに入っていた小さな包み。白い紙に赤いリボン。中にはカードが一枚。『君へ』。
「その字、前に見たことあるわね」
母は不思議そうに首をかしげたが、直哉には心当たりがなかった。
名前のないチョコは、謎のまま直哉の胃袋に収まった。
高二の春、世界史の授業終わりに直哉の席に近付く女子の影があった。
背が高くスレンダー、ポニーテールがよく似合う。
古谷遥(ふるたに はるか)だ。
圧倒的な美貌を持つ彼女は、学校という生態系の頂点にいた。彼女から告白された男子が「からかってるのか」と怒って帰ったという伝説すらある。
自分とは無縁の世界の住人。――平たく言えば高嶺の花。――いや異世界のナニカ。
しかし、本心では、こう思っていた。
(安易な形容を拒む、俺の語彙力の及ばない美女)
遥は「なんで、そんなに憶えられるの? 」と言った。
直哉はボロいシャープペンシルを置き、少し笑った。
「好きだから。古いハリウッド映画がきっかけで、歴史劇にハマった。『ベン・ハー』とかさ。面白くて、覚えようとしなくても勝手に頭に入る」
「へえ、相沢君らしい」と遥は言って微笑んだ。
その笑顔は、どこか特別に見えたが、直哉はそれを「日常的に相手を替えて無数にやりとりされる、社交辞令の定型文」と解釈した。
4.回想・カチカチするところ
高二の冬。
放課後の教室。窓際の光は夕陽に変わり、机の影が長く伸びていた。
直哉が職員室から戻ると、教室にはまだ数人の女子が残っていた。
陸上部に行こうとした直哉の背中に、よく通る澄んだ声が飛んだ。
「相沢君、この問題……さっぱり分かんない。教えてくれない? 」
数学の課題プリントを差し出す古谷遥。
バレー部の練習中に抜け出したのか、ジャージ姿だった。ポニーテールが夕陽を受け煌めく。
直哉はちらりと問題文を見た。『次の数列の一般項を求めよ……』
(自分で解かないと身につかないだろ……でも)
直哉は彼女の真剣な目を見た。
(そんな顔しないで。……立ち止まって、顔を合わせて、頼まれたなら、後には引けない。やるしかないか。逃げるよりもそちらが早いし……特に彼女からは嫌われたくない……やるか! )
「古谷さん、何時までに解けばいい? 」
「……え? いいの! ? 」
「聞いてしまったからね。五分程度待ってもらえる? 」
「制限時間はなし! ……時間、測ったげる」
直哉は自席に戻り、カバンから古びたノートを取り出した。あいにくその問題は解いていなかった。
(これは今、この場で自力で解かないと……五分でいけるか? )
心臓がわずかに速くなる。解けなかったときの敗北感など御免だった。彼はいささか意地になっていた。
(……負けるかよ! 絶対に解いてやる! 俺ならできる! ……いや、できるまでやってやる! )
遥は直哉の前の席に横座りで腰を下ろした。ジャージ姿で足を組み、プリントと白いページを見つめる。
午後四時を少し過ぎた冬の教室は、薄暮の静けさだった。直哉は眉間に皺を寄せ、古いシャープペンシルを握り、右親指の関節で額をこつこつと叩きながら考え込む。フローラルな香りでも集中力を削ぐことは出来ない。
彼の深い呼吸音しか聞こえない教室。そのペン先が紙の上を泳ぐ様子を、遥は黙って、食い入るように見ていた。試行錯誤で汚くなるノート、突破口を見つけようとして思考の断片を書いては取り消し、取り消しては書くその過程に興味があるかのようだった。汚れていくノートに彼女の視線が走る。
ペンの「カチ、カチ」という音が数回響き、すぐに静寂に吸い込まれる。直哉はふと腕時計に目を落とす。
(五分経っちまった! ダッせー……しかし、こいつなかなか尻尾が見えない)
焦りが喉を締める。だが、諦める選択肢はない。
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