鈍いって、誰の事?

真崎 一知

「鈍いって誰の事? 」(1)

1.現在・居酒屋

 条件が違えば、同じものでも別の形になる。炭素がそうだ。ダイヤモンドにもなれば、鉛筆の芯にもなる。

 十一月の三連休、日が落ちた地方都市の居酒屋。暖簾の向こうで子どもの笑い声が弾む。出汁と炭の焦げる匂い、座敷の笑い声、食器の当たる音。

 家族連れも多い店内の喧騒は、心地よいBGMだった。

「久しぶりに帰ってきたな。卒業して何年になるかな? もうすぐで十年か? 」

 向かいに座る村上健太が、ジョッキを置いて言った。

「早いよな。前に飲んだのはいつだったか? 前もこの店だったよね? 」

 相沢直哉は短く応じ、グラスの泡を見つめた。

 泡は、昔話への合図みたいに小さく弾けた。


2.回想・信号と噂

 直哉の記憶は、高校一年の秋、ある夕暮れに遡る。当時から直哉は学業において常に上位に名を連ねていた。

 彼は定期試験にしても、模擬試験にしても、成績上位者の一覧が高校の玄関に貼り出されることについて――

(俺は自分でもよくやっていると思う。それに自分の名前がこれに載ることを嬉しく、誇らしいとも思う。でも、これって下品じゃないか? それに晒し者にされるようだ~本人にだけ知らせればいいのに……)

 ――と思っていた。

 あの日、市役所前の警察署へ続く丁字路にさしかかったとき、横断歩道の青信号が点滅を始めていた。直哉が足を速めようとした視線の先、百メートルほど前方に、見覚えのある後ろ姿があった。

 母の美智子だ。両手に重そうな買い物袋を提げ、少し背を丸めてゆっくりと歩いている。

 直哉は一瞬、歩調を緩めかけた。

(赤信号になるまでやりすごして、見なかったことにしようか)

 照れくささと面倒くささが頭をもたげる。だが、すぐに論理的な声が脳内で響いた。

(袋を一つ提げて一緒に帰る? それとも、無視して今夜、自己嫌悪になる? ……見てしまったから、もう後には引けない)

 答えは明白だった。歩調は直ぐに駆け足になった。点滅が終わる寸前、直哉は渡り終え母に追いついた。

「母さん! 」

 母が驚いて振り返る。

「直哉? あら、早かったのね」

「一つ持つよ。一緒に帰ろう」

 直哉は有無を言わせず左手の袋を奪い取った。母は何も言わなかったが、その口元がふわりと緩んだのを直哉は見ていた。長く伸びた二人の影が、アスファルトに並ぶ。

 その様子の一部始終を、運悪く――あるいは運良く、目撃していた人物がいた。健太の母、村上典子である。

 翌日、典子は帰宅中の美智子を捕まえるなり、その感動をまくし立てた。

「ほんっと優しい! 成績優秀なだけじゃないのねえ、直哉くんは! 」

 美智子は「見ちゃったから仕方なく、って感じです」と控えめに笑ってかわしたが、典子のスピーカー性能は伊達ではなかった。噂は瞬く間に保護者会ネットワークを通じて拡散された。「相沢くんは勉強ができる上に、親思いの優しい子」という評価は、やがて生徒たちの耳にも届いた。もちろん直哉にも。

 直哉は自分の行動が、予想外の評価として還元されたことに、面はゆさとともにわずかな違和感を覚えた。

(……そんなに騒ぐほどのことかな? みんな、そんなに暇なのかな。そういうお話に飢えているのか? )

 そのあおりを食らったのは、息子の健太だ。

「直哉くんみたいに学業優秀になれとは言わないけどさ、せめて家事くらい手伝いなさいよ」

 典子の小言に、健太は夕食の席で反撃したという。

「直哉の家は共働きだろ。母さんは専業主婦だよ。何のための専業主婦なんだよ」

 結果、村上家ではさらなる雷が落ちたらしい。

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