赤坂の地下BAR

rhythm

『昼には見せない、夜の顔』

言葉が少ない夜ほど、心はよく話す。


赤坂の地下BAR「夜灯(よとぼし)」 – 深夜二時


赤坂の路地裏。昼の顔を脱ぎ捨てた街の、その地下に店はある。


重い扉の向こうでは、音が沈む。湿った空気と、冷えた時間だけが残されている。


扉が、静かに開いた。


中央の男


野宮誠は足を踏み入れた瞬間、わずかに息を止めた。誰もいない。いや、正確には――誰も騒いでいない。


地下特有の冷気が、コートの隙間から忍び込む。背後で扉が閉まる音がして、外の世界が切り離された。


彼は数秒、立ったまま店内を見渡す。カウンターは三席。棚に並ぶボトルが、淡い光を返している。


中央の椅子に腰を下ろし、グラスに触れる。氷が鳴った。「カラン」という乾いた音が、店の奥まで届く。


「今日は……長い夜になりそうだ……」


自分に言い聞かせるような声だった。深く息を吸い、吐く。そしてほんの一瞬だけ、隣の席に視線を投げる。


「……誰もいない夜の店、好きなんだ」


ジャズが、かすかに流れ始める。


初めての客


扉が再び開く音。蒔田真希は足を止め、店内を見渡した。初めての場所のはずなのに、胸の奥がわずかにざわつく。


視線が、すでに座っている男と、端の席にいる誰かに触れる。真希は何も言わず、二席分の距離を空けて腰を下ろした。


グラスの縁を指でなぞる。冷たい感触が、過去の記憶を静かに呼び起こす。


「初めての場所……でも、懐かしい……」


声は、ほとんど独り言だった。


深夜の私


三度目の扉の音は、少しだけ軽かった。山柳梓は店に入ると、空気を確かめるように立ち止まる。そして三人の位置関係を一瞬で読み取った。


中央の男。少し離れて座る若い女。


梓は二人の中間に腰を下ろし、柔らかく微笑む。


「深夜の空気が……少し違う……」


視線が順番に巡る。


「こんばんは……もう、こんな時間ですね」




静かな夜


「夜は静かで、落ち着きます」


真希がそう言い、野宮は短く応じる。


「……こんばんは」


沈黙が落ちる。氷が鳴る。


「この店、静かだから好きなんです」


梓が続けた。


「誰も騒がない。誰も、大声で笑わない」


返事はすぐには来なかった。代わりに、グラスが置かれる音がする。


「……笑い声が、ないのは少し寂しいけどな」


野宮の声は低い。


「でも……静けさが、救いになる夜もある」


真希が目を伏せたまま言う。


「……あなたは、そんな夜、ありますか?」


答えを待たず、視線を戻す。


「……ありました?」


真希はしばらく黙っていた。グラスの中で、氷が静かに溶けていく。


「……ひとりで泣いた夜があった」「誰にも見られたくなかった。だから……ここに来た」


梓の微笑が消える。


「……私も」「あの夜、何も言えなくて……言わないまま、終わった」


ジャズが少しだけ音量を上げる。


記録されない夜


「……彼女の静けさが、心に残る……」野宮の声は、ほとんど息だった。「……誰も何も言わない……」「でも、少しだけ……あの時の私が、顔を出す……」真希が続ける。


それ以上、言葉はなかった。三人の呼吸だけが、店を満たす。


時間が、ゆっくりと進む。


夜の灯り


野宮はグラスを置き、縁に触れてから手を離した。


「……また、この夜に会えるだろうか……」


真希は立ち上がり、どこか遠くを見る。


「誰にも見せない時間……覚えていたい……」


梓はグラスを回し、私に視線を向ける。


「夜は長い……気をつけて」


カウンターの奥で、マスターがグラスを拭いている。椅子を整えながら、低く語った。


「深夜二時……街の喧騒を忘れた人が、心を確かめる時間……ここを作ったのです……」


誰に向けた言葉なのかは、分からない。


終わりの余韻


三人の視線が、静かに集まる。


「……でも、少しだけ……この夜に来てよかった、と思える」「……ね」梓が頷く。「誰かと黙って座っているだけでも、救われる夜がある」

「……孤独も、悪くないかもしれないな」野宮の声は穏やかだった。


ジャズが、わずかに明るくなる。氷が、最後に一度だけ鳴る。


三人の表情が、ほんの少し緩んだ。その空気は、同じ夜を共有した誰かにも伝わる。


「そう……」マスターが言う。

「夜は長くても、人の心には灯りがある。静かに……でも、確かに」


ジャズが消える。呼吸だけが残り、やがて闇がすべてを包んだ。


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