おわりに

 本編をお読みになった読者の方は、私の犯したふたつの罪に気づいただろうか。ひとつは比較的わかりやすい。透がベッド下に隠した黒い封筒を、私が開けてしまったことだ。


 領収書の日付は彼が姿を消す三日前。彼は自分の手で荷物をまとめ、杏さんが仕事に行っている間に出ていった。スーツケースを引いて、電車に乗り込んだところまでは足取りが掴めている。杏さんは透と連絡がつかなくなると、会社や実家、他にも思いつく限り関係者に連絡をとり、マンション管理会社に長期不在を伝えて家を出た。杏さんが手がかりを掴んだのかどうかはわからない。電話応対した管理会社職員によると、彼女の受け答えにおかしなところはなかったそうだ。


 これは私の憶測に過ぎないが、杏さんはあの封筒を見つけていたのではないだろうか。それを、敢えてそのままにして出ていった。マンションは完璧に片付けられてベッド下にも埃ひとつなく、見逃したとは考えにくい。


 しかし、その封筒は私の手で開けられてしまった。金額欄に「Fluctuation」という文字が刻まれ、私は、親友からゆらぐ心を奪ってしまった。ゆえに、未だ彼らが音信不通でいるのは、彼らにとってそれが正しい選択だということを意味する。正しい道に生きるふたりなら、いずれ戻って来るだろう。しかし、私はその時どう接すればいいのか。親友は、おそらく私の知る親友ではなくなっているはずだ。


 そろそろ、もうひとつの罪についても打ち明けねばならない。妻に関することだ。その罪ゆえに、私は透と杏さんに起きたことを全て知ることができた。私と妻は、ふたりと同じ体験をしたのだ。


 私は親友の消息を探るため、何度かEricを訪れ、地下小劇場にも通った。妻が見知らぬ男と仲睦まじく歩いているのを見かけたのは、そんな時のことだ。家を空けがちにしたのが良くなかったと反省した。しかし、妻の不貞はもっと前からだった。私はそれを、Ericのバーテンダーから聞いた。茶髪の癖っ毛、童顔の天使から。


「奥様とあの男の関係は一昨年くらいからでしょうか。寂しかったのだと思いますが、体の関係に溺れても虚しさが募るだけです。今の奥様は、寂しい夜道をひとり彷徨っている。迷える仔羊には、道を照らしてあげないといけません」


 この先は説明するまでもないだろう。家庭は平穏だ。妻は自分の犯した罪を悔い、私に一途な愛を注いでいる。恐ろしいくらいに平穏な日常がここにある。しかし、かつて恋した妻の片鱗を、私はどこにも見つけることができない。それでも私は妻を愛し続ける。完璧に調律され、二度と狂うことのない平穏の中で、カオスを胸に抱きながら。

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The Quantum of the Opera 砂東 塩 @hakusekirei89

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