1-8
夕暮れ時、オレンジ色の西日に照らされてカナタが目を覚ました時、その前に黒狼の姿はなかった。
「あのでかい黒狼がいない。……で、僕も死んでない」
地面に座り込んだままで負傷した体をあちこち触れたことで、意識を失う前に黒狼から一撃を受けた状態から傷は増えていないことを確信し、カナタはそれによって状況がわからず困惑する。
「魔獣が獲物を前にして止めを刺さずに立ち去るなんて聞いたこともないし、ありえないよな……」
負傷の確認を終えたカナタは続いて周囲を見回したが、戦闘の痕跡などは無くやはり黒狼のみが忽然と消えていた。
別の魔獣が乱入したのであればカナタが無事であるはずがないし、誰かが助けてくれたのであればさすがに意識の無いまま放置していくことはしないはずであった。
「何もないか。もう少し調べたほうがいいのだろうけど、さすがに怪我の治療を優先して町へ帰ろう」
致命傷ではないが大きなダメージを負っていたカナタは、重い動作で立ち上がると遠くに見える円状山脈を背にして町の方角を向いて歩き出す。
二、三歩ほど進んだところで、ふと、背中に視線を感じたカナタは無言のまま立ち止まった。人の気配など無かったはずの遺跡内での明らかに獣のものではない意思のこもった視線の気配に、全身の汗腺が開き産毛まで逆立つような悪寒を感じながらカナタはゆっくりと後ろを振り向いた。
腕があった。
病的に白く細い腕。
この様な遺跡には似つかわしくないきれいに爪が整えられ傷ひとつ無い指先。そんな美しくも恐怖心を喚起するような女性の腕、二の腕から先が崩れた住居の角から壁に沿って存在していた。
曲がり角の向こうに女性が立っていて、左腕だけがこちらからみえるように壁にしがみついていれば、ちょうどあのような感じであろう。
だからきっとあそこには色白で薄着の女性が立っているだけだ。そう考えていたカナタは間違いなく現実逃避をしていた。
つまりは逃避をしなければ正気を保てないほどの恐怖を感じている。己の身の丈をこえるほどの怪物と身一つで渡り合う剛の者たる便利屋のカナタが、ただの腕一本に恐怖し、曲がり角の先を確認しに戻ることも逃げるために先へ進むことも出来ずに硬直し立ち尽くしていた。
「(な……んだ、これ。怖くて近づけないっ! 逃げようにも目も逸らせない!)」
目を見開き、立ったままただその腕を凝視することしかできないままに数分が経過する。
すでに時間の感覚などなく、ただただ恐怖に震えていたカナタの耳に、遠くまでよく響く野鳥の声が飛び込んできた。
……その瞬間、寒気しか感じなかった全身の感覚が戻り、あまりの精神的疲労にカナタはその場に崩れ落ちる。
「っはぁ、はぁ、げほっ、ごほっ、はぁ、はぁ、っかは」
大げさにむせながらも息をついたカナタは、四つん這いの姿勢のまま恐る恐る顔を上げた。
「ははっ。だよな、気のせいだよな、あんなの。でかい魔獣に襲われて死に掛けたから動転してたんだな。気配も無いし何もいるはずないよな」
その曲がり角に遺跡の壁以外には何も無いことを確認して、自分に言い聞かせるようにことさらに大きな声で言ったカナタが、改めて立ち上がろうと膝立ちになった瞬間、背後そして顔のすぐ右横になにかの気配がした。
――ここにいるから
きれいで、儚くて、そしてなによりも怖ろしい声音がカナタの耳元で囁いた。
硬直するカナタの頬をひと撫でして背後からなにかが遠ざかり、今度こそ本当になんの気配もしなくなる。
しかし、恐怖のあまり完全に思考停止に陥ったカナタは傾いていた日が完全に暮れるまで身じろぎもできずに固まっていた。
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