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フモトの町の南側、大陸中央の未踏破領域を囲む円状山脈とのちょうど中間地点に古代の町の遺跡がある。魔獣の多い場所であるために調査はあまり行われておらず、目視のみによる判断から千年ほど昔に滅んだとされる国の遺跡であるとされていた。
廃墟と化してはいるものの、千年もの長い時間を経てなお町と分かる程度には原型を留めていることから高い建築技術が窺われる。とはいえ遺跡調査の依頼でも受けているわけでなければ便利屋にとってはその遺跡の謂れなど関係はなく、単に障害物が多く魔獣が住み着きやすいため実入りは多いが危険も大きい狩場であると認識されていた。
「おかしいよな。どうしてなにもいない?」
普段であれば姿は見えずとも常に魔獣の吼える声や足音が聞こえ、気を抜けば曲がり角から奇襲を受ける、その様な魔獣の巣とでもいえるような遺跡内が今日は静まりかえっている。
「絶対おかしい。これはまずいかも。うん、引き返そう」
小声の早口で呟いたカナタは、手を掛けていた曲がり角から先をのぞき、やはりなにもいないことを確認した。明らかな異常事態、それも結局未だに原因の見えていない状況に押しつぶされそうな焦燥感を覚えながら、町への帰還を決意したカナタは遺跡へ入って来た方向へと反転する。
「――っっひぐ!」
驚愕と恐怖によりカナタの喉が引きつって、妙な音が漏れた。
振り向いたそこに、つい先ほどまで何もいないことを確認して通ってきたはずの道の中央に、黒い大きな狼がいた。
通常この辺りの狼が魔獣化した場合、茶色い毛色はそのままに牛ほどの体躯に巨大化したグレートウルフか、あるいはまれに大きさはそのままに真っ赤な毛色へと変化し炎の息を撒き散らすファイアウルフへと変化する。
しかし目の前の黒狼は違った。通常の獣ではありえない家ほどもある巨体に、毛も牙もそこだけ世界に穴が開いたかのような錯覚さえさせるほどの漆黒、そして唯一そこだけ赤い一対の眼。完全にカナタの背後をとっていたにも関わらず襲い掛かることもなく、しかしはっきりと敵意を感じさせる禍々しい相貌をみて楽観することなど出来ようはずもない。
「(符を投げる余裕はない。一か八かで奥の手をぶつけて、あとは全力で逃げる!)」
内心で覚悟を固めたカナタの奥の手の一つ、それは精霊術の多重行使であった。
通常の精霊術ではよほど規模の大きな術でもない限り、ショートソードを全力で一振りした程度の疲労。無論実際に消費しているのは体内魔力であってスタミナではないが疲れることには変わりはないため感覚的にはこの程度の消耗となる。
よって余程考えなしに連発しない限りはそうそう力尽きるものでもなかった。
しかし多重行使は別であり、二つの術を同時に使えば二倍ではなく二乗の魔力、三つで三乗、と言われ、しかもその難易度も同様の上昇度合いであることから、極度の疲労に耐えながら極限の集中を要するのが術の多重行使という技術であった。
「(放ったあとで逃げるための余力を残して、四重行使が限界。頼むから怯むくらいはしてくれよ)」
カナタの限界としては最大五重行使という半ば人間離れした技巧が可能であったが、悠長に符を投げて呪文を唱えるような余裕もない状況では相乗効果のない単一属性の多重行使しかできそうにないために目の前の怪物を倒しきれるとは考えていなかった。
またもう一つの奥の手、カナタにとって切り札とも言える精霊術もあったがそちらも準備時間を要するためにこの状況では頼りにならないものだ。
カナタは黒狼から目を逸らさずに、腰の後ろに取り付けられた鞘に差したままのショートソードの柄を右手で握りこんだ。
「影よ! 穿て!!」
影属性の精霊術では実のところ「影よ」という短い言葉だけで術の行使が可能であったが、敵の強大さからくる恐怖を振り払うようにカナタは叫んだ。
瞬間、カナタの足元の影から同色の黒い杭が同時に四本伸び上がった。目の前に居た黒狼の目元、顎下、そして首の左右を狙って杭は放たれていた。
「(この至近距離からこれだけの数を放てば後ろへ避けるしかないはずだ。距離さえできれば木か火の精霊術で目くらましをしてあとは全力で逃げるだけ)」
願うような思いで見据えるカナタの目前で、黒狼はがぱりとその口を大きく開き、短くそして大きく吼えた。低い、地鳴りのようなその吼え声に、あまりにあっけなくカナタの放った四本の杭は吹き散らされる。
「放った精霊術がかき消された……? 現象を発現させる魔力そのものを散らされたのか? いったいどれだけ圧倒的な魔力があればそんなことが」
その場に立ち尽くし、震える声で呟くカナタへと黒狼が目を向けた次の瞬間、黒狼のその大木のような前脚の片方がカナタへ向かって振るわれた。
あまりの速さにカナタからは黒狼の前脚が掻き消えたように見えたと同時に、カナタの体は血を撒きながら後方へと吹き飛んでいく。
飛ばされた方向に障害物がなかったために、遺跡の石壁に叩きつけられることもなく黒狼と距離をとることができていたが、重傷を負い意識の朦朧とするカナタにはそれを喜ぶような余裕はなかった。
「(一撃で全身ぼろぼろで頭はくらくらする。だけど骨は肋骨くらいしか折れていないし、出血もそれほど多くない……、遊ばれている?)」
一歩一歩を踏みしめるようにゆっくりと近づいてくる黒狼の姿には余裕と油断しかなく、ある程度でも抗う力があれば不意を打つことはできそうであった。しかし、現実にはもはや指の一本を動かすことすら億劫なカナタには、ただ近づく黒狼を眺めることしかできない。
「(こんな、突然現れたよく分からない魔獣に、一矢を報いることもできずに……っ!)」
もはや勝ち目はなく死を濃厚に感じとったカナタの胸中にあったのは、驚くほどの黒い感情だった。抗うことも逃げることもできない無力がただただ悔しくて、そして自分の命を遊びで刈り取ろうとする目の前の存在がたまらなく憎い。
それは生物が当たり前に持つ生存本能に由来する感情であり、それ故に何よりも強い想いでもあった。
痛みと恐怖に呼応するように、あるいはそれ以上の勢いでカナタの胸中を覆い尽くしていく黒い感情が、カナタという小さな器に収まりきらないほど大きくなって溢れ出したその瞬間、カナタの意識は暗転し入れ替わるように黒い黒いその想いはかたちを成して目を覚ました。
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