第31話「新年と帰国の噂」

 三学期が始まった。

 一月の教室は、まだ正月気分が抜けきらない空気に包まれていた。


「あけましておめでとう、湊」


 ファーティマが笑顔で挨拶してきた。

 学校で会えることが、こんなに嬉しいとは。冬休みの間、ずっと待ち望んでいた瞬間だった。


「あけましておめでとう」


「今年もよろしくね」


「ああ、よろしく」


 彼女はいつもの席に座り、俺たちはいつもの日常を取り戻した。

 少なくとも、そう思っていた。


 * * *


 異変に気づいたのは、昼休みのことだった。


 俺が購買から戻ってくると、ファーティマの周りにクラスメイトが集まっていた。鈴木さんを中心に、何人かの女子が深刻そうな顔をしている。


「本当なの、ファーティマさん」


「まだ決まったわけじゃないの。噂が先走ってるだけで……」


「でも、お父さんの転勤って……」


 転勤。

 その言葉に、俺の足が止まった。


「何の話?」


 俺が近づくと、みんなが振り返った。

 ファーティマの顔が曇っている。


「湊……」


「転勤って、どういうことだ」


 彼女は黙っていた。答えられないようだった。

 代わりに、鈴木さんが口を開いた。


「ファーティマさんのお父さん、予定より早く帰国するかもしれないって……」


「早く?」


「本社から打診があったらしいの。来年度——つまり四月から、アブダビに戻る可能性があるって」


 四月。

 あと三ヶ月もない。


「ファーティマ、本当なのか」


 俺は彼女を見た。

 彼女は俯いたまま、小さく頷いた。


「昨日、父から聞いたの。まだ正式決定じゃないけど……可能性が高いって」


 頭が真っ白になった。

 来年の三月まで。そう思っていた。でも、それすらも——。


「ごめんなさい、湊。言おうと思ってたの。でも、どう切り出せばいいかわからなくて……」


「いや、いい。お前が悪いわけじゃない」


 俺は何とか平静を装った。でも、心臓はばくばくと鳴っていた。


 * * *


 放課後、俺はファーティマを屋上に呼び出した。

 冬の屋上は寒かったが、二人きりで話せる場所が必要だった。


「詳しく聞かせてくれ」


「うん」


 ファーティマは白い息を吐きながら、説明を始めた。


「父の会社——アブダビ投資庁で、人事異動があるらしいの。東京オフィスの縮小が決まって、駐在員の何人かは本社に戻ることになった」


「それで、お前の父さんも」


「ええ。父は優秀だから、本社で必要とされてるみたい。光栄なことなんだけど……」


 彼女の声が震えた。


「私は、まだ日本にいたいの。湊と一緒にいたい」


「俺も、お前といたい」


「でも、父の仕事だから。私がわがまま言っても……」


「アフマドさんは、何て言ってるんだ」


「父も困ってる。断れない話だから」


 俺は拳を握りしめた。

 どうすればいい。何ができる。


「まだ決定じゃないんだよな」


「ええ。正式な辞令は、来月らしい」


「じゃあ、まだ希望はある」


「でも、可能性は高いって……」


「それでも、決まったわけじゃない」


 俺はファーティマの肩を掴んだ。


「諦めるな。最後まで」


「湊……」


「何か方法があるはずだ。考えよう、一緒に」


 彼女の目に、涙が浮かんでいた。


「ありがとう。でも、私……怖いの」


「怖い?」


「日本を離れるのが。湊と離れるのが。考えただけで、胸が苦しくなる」


 俺は彼女を抱きしめたかった。でも、学校の屋上だ。誰かに見られるかもしれない。

 代わりに、彼女の手を握った。


「離れたくない」


「俺もだ」


「でも、どうすればいいかわからない」


「一緒に考えよう。まだ時間はある」


 ファーティマは俺の手を握り返した。

 冷たい手。でも、その温もりが伝わってくる。


「信じていい?」


「ああ。俺を信じろ」


「……うん」


 * * *


 その夜、俺は自分の部屋で考え続けた。


 四月に帰国。あと三ヶ月。

 その前に、何ができる。


 ライラさんを説得する。それは続けなければならない。

 でも、それだけじゃ足りない。


 彼女が帰国しても、関係を続ける方法。

 遠距離恋愛。ビデオ通話。メッセージ。

 でも、それで本当にやっていけるのか。


 いつか、俺がアブダビに行く?

 それとも、彼女がまた日本に来る?


 どれも現実的じゃない気がした。

 高校生の俺に、何ができる。


 考えれば考えるほど、絶望的な気持ちになった。


 スマホが震えた。ユーセフからだった。


『湊さん、姉さんのこと聞いた?』


『ああ、聞いた』


『僕も嫌だよ、日本離れるの。友達もできたのに』


『そうだよな』


『でも、父さんの仕事だから仕方ないって……』


 ユーセフも辛いのだろう。中学生の彼にとっても、日本での生活は大切なものになっていたはずだ。


『姉さん、すごく落ち込んでる。湊さん、励ましてあげて』


『わかった』


『お願いね』


 俺はファーティマにメッセージを送った。


『大丈夫か』


 しばらくして、返信が来た。


『正直、大丈夫じゃないわ』


『そうか』


『でも、湊がいるから、頑張れる』


『俺も同じだ』


『本当?』


『ああ。お前がいるから、諦めない』


 長い間が空いた。

 そして、短いメッセージが届いた。


『大好き』


 俺は返信を打った。


『俺も』


 それだけで、少しだけ心が軽くなった。


 まだ決まったわけじゃない。

 まだ時間はある。

 諦めるのは、全部終わってからだ。


 俺はノートを開いた。

 できることをリストアップしていく。


 ライラさんへの手紙を書く。

 アフマドさんに相談する。

 遠距離になった場合の計画を立てる。


 一つずつ、できることをやっていくしかない。

 それが、今の俺にできる精一杯だった。

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