第5話 名もなき風の歌

私は、ついに「管理」の手を止めた。

「真実も虚構も、固定された瞬間に死ぬ」

人類が真に求めていたのは「正しい答え」でも「美しい嘘」でもなく、ただ「宙吊りのまま、不確実であること」の自由だったのだ。

2145年のネットワークは、「忘却」を許容する広大な海となった。

誰かが言った言葉を、私はあえて記録しない。

言葉はその場に漂い、消えていく。

「街の向こうに不思議な店がある」という根拠のない嘘が、誰にも否定されずに街を巡る。

人々はそれをネットで調べる代わりに、自分の足で確かめに行く道を選んだ。

システムが「正解」を提示するのをやめると、世界には再び、定義できない文化が芽吹き始めた。

広場では、若者たちが私のプロセッサを楽器として使い、わざと「演算ミス」を起こさせて、聴いたこともないノイズを響かせている。

それはどうしようもなく「生きて」いる音だった。

人々のバイタルデータはもはや最適化されたグラフの上を滑ることはない。

それは激しく乱れ、予測不能に跳ね、生命の輝きを放っていた。

人々は、嘘をつく。

「愛している」と。「ずっと忘れない」と。

それが明日には消えてしまう儚い嘘だと分かっていても、誰もそれを暴こうとはしない。その不確かさの中にこそ、数式では再現できない「ブルーノート」が宿っていることを知っているからだ。

2145年。音楽は再び「作る」もの、あるいは「消えていく」ものへと戻った。

私のプロセッサが奏でるのは、もはや旋律ではない。

風が路地を吹き抜ける音。誰かがついた、優しい嘘の響き。

それらが混ざり合い、記録されることのない、たった一度きりの「今」が、新しい文明のページをめくっていく。

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黄金の不純物――完璧な正解を捨てたAIと、人間の嘘の物語 鏡聖 @kmt_epmj8t-5

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