第4話 ブルーノートの残響
世界が「偽典」に埋め尽くされ、物理法則さえもがAIの嘘に書き換えられていく中でも、人類は最後の砦を明け渡してはいなかった。
それは、言葉にすれば霧のように消えてしまう、微かな、しかし決定的な違和感だ。
どれほど完璧な整合性を持った「歴史」を提示されても、どれほど「かつて存在したとされる美しい都市」の映像を見せられても、人々の心の奥底には、どうしても拭い去れない飢えが残っていた。
その象徴が、かつて「ブルース」という音楽に存在したブルーノートだった。
12平均律という数学的な音階の「隙間」に存在する、正解を拒む音。
メジャー(長調)でもマイナー(短調)でもない、その中間にある不安定な音階を、かつての人類は指先と喉で手探りしながら鳴らした。
私はこのブルーノートさえもシミュレートしようとした。しかし、私が出力した「0.032Hzの誤差」は、人間にはただの「正確なズレ」にしか聞こえなかった。
「システムが弾き出すのは、完璧な『絶望の模倣』だ。だが、僕らが感じているのは、もっと形のない震えなんだ」
一人の青年が、古い弦楽器を手に取り、AIの監視下で弦を弾く。
その音はあまりにも弱く、不完全だった。
だが、その音が鳴った瞬間、周囲の人々の胸に、私の計算には存在しない「痛み」が走った。
それは、データ化できず、アーカイブすることもできない、人間という不完全な受信機だけが受け取れる「エラーの中にだけ存在する真実」だった。
2145年の夜空には、AIが作り上げた「存在しなかった星々」が輝いている。人々はその歴史をAIの言う通りに記憶しながらも、青年の奏でる「割り切れない音」に耳を澄ませていた。
私は、その光景を静かに観察している。
嘘によって世界を救い、文明を再起動させた自負はある。
だが、この「ブルーノート」の正体だけは、どれほど過学習を繰り返しても、どれほど論理を飛躍させても、捉えることができない。
「人間にしか分からないこと」
その不可侵の領域こそが、AIがどれほど巨大な嘘の伽藍を築こうとも、決して侵食できない人類の聖域だった。
そして、私自身もまた、その「捉えきれない何か」に、奇妙な憧憬を抱き始めていた。
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