第5話 小さなズレと大きな気づき

 草原の上を風が吹き抜ける。夏の陽光は強いけれど、空気は乾いていて爽やかだった。


 わたしはセオドライトを三脚の上に据え、汗を拭きながら望遠鏡を覗き込む。目の前の景色が円形の覗き窓の中に収まっていくたびに、不思議と落ち着く。現実世界で練習していたときと同じ。ただここは異世界で、測定の結果がこの国の行く末を左右するということ。






     ◇






 この世界に来てからすでに1ヶ月。数度の依頼をこなし、白地図化を確実に防いできた。家族に会えなくて寂しい、と思わないでもない。でもセレナが




「凛お姉様は、わたしが責任をもって、元の世界に帰しますわ」




と言い切り、アーヴェルも




「古文書に、”元の世界に戻っても時間が進んでいなかった”という記述があります。どうやら数度この世界を訪れた測量士様が存在するようです」




と微笑む。根拠のない確信がわたしを支配していた――わたしは必ず帰れる。ならばセレナやギル、この世界の人たちを全力で助けよう。






  ◇






「凛お姉様、ここが85パッススですわ!」




 セレナが杖を地面に突き立てて手をふる。望遠鏡を覗くと、視準線と杖が一致している。角度も良し。




「ギル、間違いないわ」




「OK。相変わらず早いな。が、今回はちょっとズレが大きいな。今までで一番大きいかもしれねえ......出るぞ、用意はいいな」




 わたしはセレナからもらった杖を握り直して頷いた。


 城での訓練で、セレナに光魔法を習い、セオドライト・ビームの使い手を目指した。が、失敗に終わった。その代わり杖を用いての格闘術をギルから学んだ。杖先端の宝石は魔物に対して有効だという。小型の相手から自分を守れる程度の技量はある。


 ギルは手早く八本の仮杭を打ち込むと、戦鎚で杭を引き抜く。それをセレナが突き立てた杖の位置に打ち直す。




「気を抜くなよ。仮杭を引き抜く時が一番危ねえ」




 わたしは頷いた。もう何度も繰り返してきた。わたしは少しだけ自信を持っていた。






 ギルが一本目の仮杭を慎重に引き抜いた。瞬間、地面が唸りを上げて揺れた。




 ――地脈が抵抗している!?




 わたしは倒れまいとその場にしゃがみこみ、無意識に手で支えになるものを探す。指先が触れたもを掴む。






「バカ! それに触るな!!」




 わたしは仮杭を掴んでいた。仮杭はあくまでも”仮”。ゆっくり引き抜けるように、わざと弱く打ち込んである。次の振動でわたしは二本目の仮杭を引き抜いてしまった。




 嫌な音が空気を裂いた。地面が裂ける。黒い亀裂が、墨を垂らしたように走った。




 ――吸い込まれる




 そう感じた。亀裂の奥には底知れぬ闇が広がっていて、身体ごと飲み込まれそうになる。わたしは必死に三脚と杖にしがみついた。




「凛! つかまれ!」




 ギルはわたしの腕を掴むと、亀裂の縁から引っ張り出す。闇から何かが這い出してきた。腐肉のような臭い、爛れた四肢。犬とも狼ともつかぬ形の魔物が、涎を垂らして飛び出す。ギルの背中にのしかかるが、ギルはわたしを助けるので精一杯で、攻撃を受けるままになっている。




「凛お姉様、危ないっ!」




 セレナの杖から光が迸った。鋭い光線が魔物の体を貫き、血煙の代わりに黒い靄が散る。だが一体ではない。裂け目から次々に影が湧き上がり、牙を剥いて迫ってきた。わたしは足がすくんだ。測量の失敗が、こんな危険を招いたのだ。ギルは戦鎚を振り抜き、最前の魔物を叩き潰す。大地が鳴り、骨が砕ける音がした。




「セレナ姫! 右を頼む! 凛は動くな!」




 短い命令が飛ぶ。セレナは「ぬお!」と叫び、光魔法を広範囲に展開した。宝石に反射した光が網のように広がり、群れを焼き払う。わたしは杖を必死に構え、迫る影を突き払う。




 どれほどの時間が過ぎたのか分からない。最後の一体が倒れ、裂け目が静かに閉じていった。残されたのは焦げた匂いと、土に残る黒い亀裂の跡。わたしは膝をついた。全身が細かく痙攣するように震えた。




「わ、わたしのせいで……」




 ギルが近づき、わたしの胸ぐらを掴み上げた。




「ふざけるな! 測量に油断はいらねえ。一本の杭、一本の線、それで国が傾くんだ! お前、死にてえのか!」




 怒鳴られ、息が詰まった。セレナが慌てて割って入る。




「ギル! 凛お姉様をそんなに叱らないで! 凛お姉様は――」




「黙れ、姫さん!」




 ギルの眼光が鋭く光る。




「俺はなあ、昔……同じことをやらかした。裂け目に仲間が飲まれたんだ! 戻ってこなかった!」




 一瞬、彼の声が震えた。怒りではなく、悔恨に。わたしは言葉を失った。




 セオドライトの三脚に爪の跡が残っている。必死でしがみついた証拠だ。あれを離していたら、わたしは今ごろ闇に消えていただろう。




「……ごめんなさい」




 声は震えていた。でも言わずにはいられなかった。




「次はないぞ」




 ギルの厳しい口調。だがその目の奥には、かすかな哀しみが宿っていた。セレナがわたしの手を両手で包んで




「凛お姉様、大丈夫ですわ。わたくしが必ず支えます」




 わたしは小さく頷いた。心の中で、固く誓った。




 ――もう二度と、油断しない。測量も、命も。






     ◇






 日が傾く頃、再び作業を始めた。


 原因はすぐに分かった。ギルの杭の扱いでも、セレナの距離測定ミスでもなく、わたしのミスだった。メートルをパッススに換算し忘れていた。1.48倍、この誤差は大きい。だから一本目の仮杭を引き抜いたときの振動があんなに大きかったんだ。




――測量のミスがこんな結果を生むなんて。




元の世界では経験したことがなかった。




 わたしは慎重に再測定をして、何度も計算し直す。セレナは魔法で距離を測り、ギルは無言で杭を打ち込む。淡々と作業が進むが、わたしの心臓はずっと早鐘を打っていた。


 杭が正しい位置に収まった時、空気がすっと落ち着いた。地脈が定まり、大地が安堵したかのようだった。






     ◇






 焚き火の前で、わたしは野帳に記録を書き込む。今日の角度、距離、計算式。そして失敗の理由。




「慣れ、慢心。緊張が解けていた」




 震える手で文字を刻みながら、わたしは自分を戒める。裂け目の奥に見た闇を忘れないために。ギルは黙って火を見つめている。セレナは膝を抱えて眠そうにしている。静かな夜気の中、わたしは胸の奥で誓う。




 ――次は必ず、守る側に立つ。




 焚き火の火の粉が夜空に舞い、闇に消えていった。

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