第二章 脆弱性(バルネラビリティ)と真夜中のログ

 栞の脳裏から「水原=柴犬」というイメージは離れなかった。会議中でも、ふとした瞬間に思い出しては、一人で笑ってしまう。

 そして、業務の一環――そう言い訳しながら(脆弱な言い訳だと自分でも分かっていた)、彼のPCのログを覗くことと、社の共有サーバーに保管されている彼のレポートを読むことが日課になっていた。


 ある日、不可思議なログを見つけた。水原が何かを書いている。内容は分からない。

 更新時刻は二三時三五分と表示された。おかしい。彼はいつも定時で帰る。残ったとしても、十九時を過ぎることはほとんどない。さらに奇妙なのは、そのファイルの履歴だった。書いては消し、消しては書く――まるで何かに憑かれたようだった。


 栞は推理を始めた。何を作っているのだろう。


 水原は、従来の方法では見抜けない企業の隠れた弱点、本当の成長力を高精度に見抜くための人工知能を開発していた。

 ――プロジェクト「オーバーサイト」

 この人工知能が扱うデータは、ライバル会社の未公表データや、監査法人が密かに準備している報告書等、会社の命運を左右するほどの超極秘情報を扱う。

 水原は情報漏洩を防ぐために、完璧な「鍵と防御システム」を作ることに、文字通り必死で傾注していた。


 室内を照らしているのは、デスク周りだけの円形な明かり。その外側には、底知れない闇が広がっている。 時計の針は、とうに翌日へと踏み込んでいた。


(デッドロック……。行き詰まった)


 水原は確かに規格外の異能を持っているが、強すぎる責任感を持つことを除き、中身は至って普通の男だ。同僚の研究員達は彼のよき理解者だった。水原の才能を心から尊敬し、そして畏怖していた。それが、水原を逃げ場のないところへと追い詰めていた。


(「……セキュリティの問題なら、セキュリティ課に聞いてこいよ。あちらさん、専門家だぞ」)


 同僚の助言が、耳の奥で虚しく反響する。

(……わかっているさ。でも、形にすらなっていないものをどうやって質問する? ……それは無責任じゃないのか? ……問われる相手からすれば、丸投げにされても答えに困るだろうし、そもそも失礼ではないか。人に教えを乞うなら、問題点を特定してからだ。……それなのに、俺には問題点を特定することさえできない)


 水原は思考できなくなった。同じ場所を、何度も、何度も回り続ける。完全に迷走しているようだった。

 耐えかねてパソコンの電源を落とした。だが、暗転したモニターの奥で、なおもとりとめのないイメージが、ノイズのように高速で明滅し続けている。 その時、どこからか、コーヒーの香りが漂ってきた。

(……彼女のコーヒーは、どんな喫茶店でも再現できない。彼女はまず、水からこだわっていた。……あのコーヒーをまた飲みたい。彼女が居た場所に帰りたい。……今の俺には、その資格がない……)

 突然、じっとりとした腐肉の臭いがした。

(……消えてくれ! もうこれ以上、俺にまとわりつかないでくれ! )

 鼻をつく腐臭をはらうように、激しく頭を振った。


 不意に、熱いものが一筋頬を伝い、デスクに落ちた。それが自分の涙だと気づくまでに、数秒を要した。

「考えがまとまらない……もう、帰らなきゃ」

 漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。

(最近、眠れない。眠れたのなら、もう起きたくない)

 焦点の合わない目で、彼は闇に向かって祈るように呟いた。

(……誰か……誰か、俺を殺してくれないか。痛みも苦しみもなく、甘美に。……もうたくさんだ。……俺を終わらせてくれるなら……どれほど救われるだろう)


 ――汝、何者かによる甘美なる死を願うことなかれ。自ら彼の女の甘美なる罠に墜つべし――


 その時、背後から突き刺さるような懐中電灯の光。

「……お疲れ様です、水原さん。まだ残ってたんですか」

 警備員の声の響きが、自らの思考の檻に閉じ込められていた水原を、無理やり現実に引き摺りだした。


「……えっ。……あ、もう帰ります」

 水原は立ち上がり、おぼつかない足取りで庶務の机へ向かった。 タクシーチケットを一枚抜き取り、管理簿に「水原」と記す。その文字はとても丁寧だが、今にも消え入りそうに細かった。

 照明を落とし、研究室を出る。

  コツ、コツ、コツ――。

  その規則正しい響きは、夜へと吸い込まれ消えていった。


 栞は、覗き込むうちに胸がざわついた。

(――この考え方じゃ、いつか大きな穴が開く。普通じゃない)

 真鍋栞だけがその脆弱性(バルネラビリティ)を見抜いていた。


 翌日、室長から定時で退庁するよう強く言われ、水原は家路についた。歩きながら、思考の断片が次々に浮かんでは消えた。ふと、足元にうごめく影を感じる。均整の取れた姿の大柄な三毛猫だった。

 猫は彼の両足の間を、無限大の記号を描くようにくるくると回り、蠱惑的に鳴いた。心に直接訴えてくる愛らしさのため、水原は立ち尽くした。彼は腰を下ろして、繰り返し全身を撫で、顎の下から喉をくすぐり、尻尾の付け根を優しくポンポンと叩いた。エサをやっていないのに、猫は離れない。貪欲に「もっとかまって」と言うかのようだ。

(ほんとうに可愛い、いつまでも撫でていたい……)

 気付けば一時間が過ぎていた。未練を残しながら猫から離れ、歩き出す。

 そのとき、ふと思った。

(――OSエラーのときに研究室に来たSEの声、あの三毛猫に似ている)

 甘い声の持ち主だった。名前は何といったか。――そのときは思い出せなかった。


 三毛猫と戯れてから数日後、研究室に栞がやってきた。誰かのPCに異常が検知されたようだった。

 栞は処置を終え、マルウェアに感染した端末を即座にネットワークから隔離した。水原は栞に近付き、低い声で尋ねた。

「不具合が起こる前に来られましたが、これほど早く分かるものなのですか? 」

 栞は微笑んだ。

「もちろんそうです。ネットワーク上の挙動はすぐに分かります」

 彼女はマルウェア感染を起こした研究員を一瞥し、水原の懐に入るように、少し身をかがめるようにしてひそひそと告げた。

「彼、アダルトサイトを見て、こうなりました」

 そしてさらに声をひそめる。

「例えば、水原さんが業務に関係ないウェブサイトを閲覧したとしても、常識の範囲内ならば、私は何とも思いませんよ」

 一拍置いて、栞は目を細め、唇に笑みを浮かべた。

「でも、水原さん――何か面白そうなものを作っていますね。私、知りたいです」

 水原の心臓が跳ねた。表面上は平静を装う。「真鍋」のネームプレートが目に焼き付いた。

 栞はその反応を見逃さず、静かに自分の席へ戻っていった。

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2025年12月28日 18:00
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比翼連理のアルゴリズム 真崎 一知 @MASAKIICHI

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