比翼連理のアルゴリズム

真崎 一知

第一章 特異点(シンギュラリティ)と観測者

 姫様は仰いました。

「ふたりの愛が真実ならば、この天の川をどうして越えられないものでございましょうか」

 今宵、この大雨。姫様の愛しい御方に逢えますでしょうか。

 これまで、幾度も川の水嵩が増しては、涙を飲んでこられたのですから。

 本当に本当に心配でございますね。


 ――それでは、このようなお話は如何でしょう。

 語らせてくださいませ。



 水原峻(みずはら しゅん)――証券会社に勤務する金融工学のスペシャリスト。

 新人時代、研究室の会議で彼は先輩社員のコードに違和感を覚え、正直に指摘した。

「修士風情が何を言う! 」

 先輩の怒号が響く中、彼は迷いなくキーボードを叩き続けた。

 数分後、画面に現れたコードを見て、研究室は沈黙した。――美しく、圧倒的に正確だった。

 その日を境に、彼には次々と難題が投げられた。誰も解けなかった課題に挑み、ついに解を示したとき、上司は驚愕し、査読した全員が息を呑んだ。――一点の疑念なく「正」だった。

 彼は社内で三度、最優秀社員として表彰された。しかし、それ以降は一度も表彰を受けていない。噂によると、本来なら、新人のときからずっと彼がナンバーワンだけど、彼一人だけをずっと表彰することはできない、という社内政治が理由だという。

 その噂を、水原と同じ会社の情報セキュリティ推進課第二グループの真鍋栞(まなべ しおり)も耳にした。彼女は思った。

(そんな人が本当に居るのだろうか)


 ある日、セキュリティアラートが出た。研究室のPCからだった。ほぼ同時に電話がかかり、応対する声がした。

「研究室でOSエラー? 誰か来て欲しい? 」

 対象者は水原峻。噂で聞いた名前だった。どんな人なのか、少し見てみたい。そう思って、栞は彼の席に向かった。

 研究室に近付くと声が聞こえてきた。失敗した子供に言い聞かせるような、愛のある言い方。

「水原、何やってんだよ。取説読んだのか? この取説で間違うって、抜け作過ぎだよ。お前」

「え? こんなことを? 誰にもできないことはバッチリできるのに? こんなこと誰でもできますよ。水原さんでもこんなミスするんですねぇ。居合わせてラッキーかも。スーパーレアってか」

 栞が入室した。「失礼します。OSアップデートのときのエラーと伺いました」

 三人の男が振り返った。真ん中の職員が「水原」のネームプレートを提げていた。その顔を見て、栞は思わず息を呑んだ。

(――あれ、実家の柴犬に似てる)

 実家のデコだ。叱られてしょんぼりしていたあの顔だ。不意に温かい気持ちになった。

 エラーの原因は、栞の書いた取扱説明書記載の手順を飛ばしたことだった。

 栞は即座に修正し、軽く言った。

「取説をちゃんと確認していれば、こんなことにはなっていませんよ」

「すみません……」

「水原さんらしくもないですね」

 彼は本当に困り果てていた。凹んだ表情でPCから振り返った。その瞬間、栞は自分でも驚くほど、彼を抱きしめたくなる衝動に駆られた。

(――何、この感じ)


 その出来事以降、栞は彼の噂に敏感になった。

「孤立しがちなんだって」

「責任感、決断力と実行力が特に優れていると評価されていると聞いた」

「優しい性格で物わかりもいいけれど、優柔不断とはまったく違うとも聞いた」

「彼女は居たけど、うまくいかなかったらしい」

 ――そんな断片が、栞の中で少しずつ形を作っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る