第6話 月面開拓は温泉から

「……信じられない。本当に、着いちゃったの?」

 リビングの巨大な窓の向こう。そこには、漆黒の宇宙空間とクレーターだらけの荒涼とした大地が広がっていた。そして頭上には、青く輝く巨大な『地球』が浮いている。

 凛はソファにへたり込んだまま、手にした紅茶が一口も飲めずにいた。

「うん、正確には九分四十二秒。ちょっと向かい風――太陽風が強かったからロスが出たかな」

「宇宙に風なんて吹いてないわよ! ……いえ、もういいわ。突っ込むだけ無駄ね」

 康太はといえば、スマホを月面のフリーWi-Fi(彼が数分前に庭に設置した、地球と量子通信を行うアンテナ)に繋ぎ、快適にネットサーフィンをしていた。

「なあ康太、これ見てみろよ! 地上のSNS、マジで祭りどころじゃないぜ!」

 健が興奮してタブレットを突き出す。

 そこには、日本の山林から巨大な『光る家』が垂直上昇し、そのまま宇宙へ消えていく様子を捉えた無数の動画がアップされていた。

『UFO襲来!?』『新型の弾道ミサイルか?』『神代財閥が宇宙人を雇った説』。

 世界中のトレンドワードは、今この瞬間、康太の『自宅』に独占されていた。

「あー……。ちょっと目立ちすぎたかな。でも、地上だと色んな人に追いかけられるからさ、ここなら静かだろ?」

「静かかもしれないけど、ここは酸素もないし、マイナス百五十度の死の世界なのよ!? どうするつもり?」

「ああ、それならもう解決してるよ。ちょっと外見て」

 康太が窓を指差す。

 彼が庭の『スプリンクラー』を起動させると、そこから放出されたのは水ではなく、虹色に光る微粒子だった。

 異世界の環境改変術式を組み込んだナノマシン群。それが月面の砂(レゴリス)と反応し、爆発的に増殖していく。

「『大気組成錬成』。月にある資源を分解して、酸素と窒素を生成してるんだ。ついでに重力発生装置も地面に埋め込んだから、このエリア一帯は地球と同じ環境になるよ」

 みるみるうちに、家の周囲に透明なドーム状の『膜』が広がり、その内側では枯れていたはずの芝生が青々と芽吹き始めた。

「……嘘でしょ。テラフォーミングを庭の水撒き感覚でやったの?」

「せっかく月まで来たんだし、露天風呂が欲しいなと思って。地球を見ながらお風呂って、最高じゃない?」

 康太は作業着の袖をまくり、今度は「岩盤掘削」の術式を起動した。

 月面のクレーターの一部が音もなく陥没し、そこへ地下から(錬成によって水素と酸素を結合させて作った)お湯が勢いよく湧き出す。

 その時だった。

 康太の家のメインモニターに、赤い警告灯が灯った。

『不明な通信プロトコルを受信。送信元……地球、国際連合。およびNASA』

 画面には、困惑と驚愕、そして明らかな恐怖を浮かべた、白髪の老人――国連事務総長の姿が映し出された。

『……聞こえるか、未知の宇宙船、あるいは……佐藤康太氏。私は国際連合を代表して対話を求める。貴殿が現在行っている行為は、宇宙条約に抵触する恐れがある。即刻、その「家」の正体を説明されたい』

 凛が顔を真っ青にする。

「ついに来たわ……。世界中の国家が、あなたを『地球の脅威』だと認定したのよ」

 しかし、康太は鼻をほじりながら、マイクに向かってあっけらかんと言い放った。

「え、説明って言われても。ただの引っ越しです。あ、ついでに月で温泉掘ったんで、事務総長さんも入りに来ます? 気持ちいいですよ」

 画面の向こうで、世界の指導者たちが一斉に椅子から転げ落ちる音が聞こえた気がした。

 こうして、一人の錬成師による『月面リゾート開発』は、地球規模の政治問題を置き去りにしたまま、最悪の(あるいは最高の)スタートを切ったのである。

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