第3話 水深一万メートルのピクニック
「……正気なの? 佐藤君」
数日後。神代財閥が所有する、太平洋上の巨大掘削プラットフォーム。
神代凛は、眼前に置かれた『それ』を見て、こめかみを押さえた。
そこにあるのは、康太が数日で作り上げたという『深海作業用スーツ』……のはずだった。
だが、その外見はどう見ても、ホームセンターで売っている安いウェットスーツに、透明なプラスチックのヘルメット、そして背中に『家庭用の室外機』を背負わせたような、お世辞にも格好いいとは言えない代物だった。
「神代さん、見た目で判断しちゃダメだよ。これでも構造は最新なんだ。あ、その室外機みたいなのは『水分子分解式・永久酸素供給装置』ね」
「……酸素ボンベもなしに、どうやって一万メートルの水圧に耐えるつもり?」
「耐えるんじゃなくて、中和するんだよ」
康太は当然のように説明する。
彼がスーツの表面に施したのは、異世界の防御魔法『水神の拒絶』を電子回路に置換したコーティングだ。
このスーツの周囲数ミリには、あらゆる流体圧力をゼロにする『絶対領域』が展開される。
「理論上は、これで太陽の表面に行っても平気なんだけど、流石にそこまでは試してないから、まずは深海でね」
「さらっと怖いこと言わないで!」
現在、神代財閥が直面している問題は深刻だった。
マリアナ海溝付近での海底資源採掘中、最新鋭の無人探査機が『未知の地殻変動』により岩盤に閉じ込められたのだ。探査機には、数千億円規模の研究データが詰まっている。
「いい? あなたはあそこの遠隔操作室で指示を……ちょっと、何してるの!?」
凛の制止も聞かず、康太は「よいしょ」とヘルメットを被ると、そのままプラットフォームの縁に立った。
「指示も何も、僕が行った方が早いし。健、カメラの録画回してる?」
「おう! バッチリだぜ康太! 世界初の『生身で深海1万メートル』動画、バズり確定だな!」
傍らで高性能カメラを構える親友・工藤健がサムアップを送る。
康太はそのまま、真っ逆さまに太平洋へと飛び込んだ。
「佐藤君!!」
凛が悲鳴を上げて覗き込む。しかし、水しぶきが上がった次の瞬間、モニターに映し出されたのは信じがたい光景だった。
康太は沈んでいくのではない。
まるで重力がないかのように、深海に向かって『加速』していた。
水深5000、7000、そして10000メートル。
本来なら、一平方センチメートルにつき一トンという、猛烈な水圧で人間など一瞬で肉塊になる領域。
「……うわ、深海魚だ。あ、光ってる。綺麗だなあ」
通信機から聞こえてくる康太の声は、まるで近所の公園を散歩しているかのように軽やかだった。
プラットフォームの管制室では、技師たちがモニターを見て凍りついている。
「馬鹿な……水圧計が『ゼロ』を示しているだと!? 彼は今、真空中にいるのと同じ状態なのか!?」
「心拍数……65。寝てるのか!? この状況でリラックスしすぎだろ!」
モニターの中の康太は、岩盤に挟まった巨大な探査機を見つけると、ひょいと手をかけた。
「あ、これだね。ちょっと岩が邪魔だな……よし。『質量等価交換』……じゃなかった、超振動粉砕機能、スイッチオン」
康太が岩盤に手を触れた瞬間、巨大な岩塊が音もなく『砂』へと変わった。
異世界の錬成術による分子構造の組み換え。現代科学が何十年かけても到達できない『物質の分解』を、彼は指先一つで行ってしまった。
「よし、回収完了。せっかくここまで来たんだし、底にある変な石も拾っていこうっと。これ、新しい電池の材料になりそうなんだよね」
数分後。
康太は海面から弾丸のように飛び出し、プラットフォームの上にふわりと着地した。
ウェットスーツは一滴も濡れておらず、彼はヘルメットを脱いでぷはーっと息をつく。
「ただいま。神代さん、これ探査機のデータチップ。あと、これお土産」
康太が手渡したのは、深海にしか存在しない超高密度の結晶体だった。
凛はそれを受け取る手さえ震わせながら、目の前の『化け物』を見つめた。
「……あなた、自分が何をしたかわかってる?
この石一つで、世界のエネルギー勢力図が書き換わるのよ?」
「え、そうなの? 僕はただ、スマホの充電が1ヶ月くらい持つ電池が欲しかっただけなんだけど」
康太の無邪気な言葉に、凛は確信した。
この少年を自由にさせておけば、世界は数年で『未来』に到達してしまう。それも、既存のあらゆる常識を置き去りにして。
「佐藤君……。もう、あなたを一人にはしておけないわ。正式に『神代技術顧問』として契約してもらうから。拒否権はないわよ」
「えー僕、放課後はゲームしたいんだけどなあ」
こうして、一人の錬成師による『現代文明の強制アップグレード』は、加速していくことになった。
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