第2話 間違えた召喚

 

 眼前に現れた素っ裸の少女は、可愛らしく両腕をばたつかせながら言った。


「誰って、私ですよ! あなたのアーイシャです! お嫁さんの顔まで忘れちゃったんですか?」


 僕は軋む身体を誤魔化すように息を整え、どうにか仰向けのまま上体を起こした。

 魔力のほとんどを使い果たしてしまったのだろう。今の僕は、生まれたての子鹿のように、情けないほどか弱く、小刻みに全身を震わせている。

 泣きたくなるほど惨めだった。


 視界も定まらない。

 もしかすると、ただ目の焦点が合っていないだけで、本当は見覚えのある顔なのかもしれない。


 そう思って、瞼を擦り、改めて少女をまじまじと見つめた。


 ――さて、何度でも言おうか。


「いや、だから誰だよお!?」


「酷い! あれだけ愛し合ったのに、カイス様のひとでなし! 短小! 包茎! 早漏野郎!」


「どうして罵倒が一貫して僕の下半身に集中するんだ。ていうか、お前こそ誰の旦那と勘違いしてる! 僕の財布より軽い尻で夜を跨いでたら、そりゃ相手の顔も判別つかなくなるだろ!」


「あー、今とんでもないこと言いましたね!? 然るべきところに訴え出て、社会的に終わらせてあげますから。私の旦那様は、生涯カイス様だけだったのに……!」


「旦那様って、そういうプレイの呼び名か? 高額なオムライスに“おいしくなる魔法”でもかけてくれるのか。もういい加減にしてくれ。押しかけデリバリーメイドめ。……これでも見てみろ」


 震える腕をどうにか伸ばし、床に散らばったガラス片を拾い上げる。

 元は姿見だったはずだが、今では見る影もない。魔術の余波で部屋は荒れ果て、壁も床も、どこか現実感を失った廃墟のようだった。


 ――これだけのことを、さっきの僕はやったのだ。


 ガラス片に映る自分の顔は、思った以上にやつれている。

 目の下の影も、乾いた唇も、誤魔化しようがない。


 それを、今度は全裸で自称“嫁”を名乗る変態少女へと、無言で突きつけた。


 変態少女は、まるで浮気の決定的証拠でも突きつけられたかのように、目を見開き、唇をかすかに震わせた。

 次の瞬間、僕の手から乱暴にガラス片を奪い取る。


「おい、そんな持ち方——危ないぞ」


 忠告など耳に入らないらしい。

 彼女は全裸のまま、身体のあちこちを映し、角度を変え、光に透かすようにして確認する。


 握り締めた拍子に、手のひらが切れたのだろう。

 指先から赤い雫が落ち、床に小さな染みを作る。


 それでも彼女は、痛みすら忘れたように、ただ呆然と呟いた。


「……そっか。

 そういう、ことか」


 ひとりで結論に辿り着いたように、彼女は小さく息を吐いた。


「勝手に腑に落ちるな」

 低く、刃のように言葉を放つ。

「お前は誰だ。場合によっては、僕はお前をあの世に還す。

 死霊術は、最愛の人のために振るうものだ。――お前は、その人じゃない」


 彼女は一瞬も怯まず、まっすぐに名を告げた。


「私は、アーイシャ・ラフティマ・レジット。

 あなたのお嫁さんですよ?」


「……ふざけるなああ!」


 喉が裂けるほどの声が、焼け焦げた部屋に反響した。

 左手を振り上げ、怒りを形に変える。皮膚の下から、幾何学が滲み出すように魔術紋が浮かび、踏み潰した柑橘のような橙色で脈動を始めた。


 紋様は広がり、円環を結び、やがて陣となる。

 空気が悲鳴を上げ、温度が跳ね上がる。

 息をするたび、喉が灼ける。


 僕は、焦熱の言葉を吐いた。


「――灰燼帰さすは、魔人の戯れ。

 在るべき者、飲みて奔流せよ。

 庭園葬フィオル・クレマ……!」


 解き放つ、その瞬間だった。


 彼女が、僕の手首を掴んだ。

 重心を奪われ、視界が反転し、背が床に落ちる。


 ——言葉が途切れる。

 彼女は、まるでそれが最初から決まっていた手順であるかのように、ためらいなく身を寄せ、自身の唇で僕の唇を塞いだ。

 

「……!」


 詠唱は砕け、魔法陣は音もなく失速する。

 残ったのは、焦げた空気と、胸の奥でなお燃え続ける問いだけだった。


 あまりに唐突で、思考が追いつかない。

 頭の中が、白く塗り潰される。


 何を考えている——。


 抗議の言葉すら見つからぬまま、彼女はさらに踏み込み、境界を失った感触が意識を乱す。

 節操がない。

 軽薄だ。

 これは愛ではない。売女のそれだ、と僕は必死に断じようとした。


 だが、その断罪と同時に。


 組み上げられていた魔法陣が、行き場を失った熱を抱えたまま、空気に滲み、輪郭を崩し、居心地の悪さを訴えるようにほどけていく。

 最後には、名残の火花すら残さず、溶けるように消え失せた。


 ……お見苦しいものを、見せてしまい申し訳ない。

 場違いな思考が、脳裏をよぎる。


 部屋にはまだ、肌を刺すような余熱が漂っている。

 ほんの数瞬前まで、僕はこの――死んでいるはずの、正体不明の女を、確かに殺そうとしていたというのに。


 今はもう、その意思さえ輪郭を失っていた。


 耳に届くのは、決して子どもたちに聞かせてはならない、湿った水音だけ。

 時間は、意味を失ったまま、わずかに流れた。


 やがて彼女が唇を離す。

 互いの間に、名残惜しそうに細い糸が引かれ、それもすぐに切れた。


 彼女はその頬に手を当て、陶然とした表情で息を吐く。


 まるで――

 すべてが、予定調和だったかのように。


「……いやん」


 今さらそんな殊勝な声色を作られても、もう遅い。

 僕の認識は、すでに一段階目で固定されている。――素っ裸の変態、である。


「お前、何てことをしてくれたんだ。このイカレクソビッチが!」


 嘆きにも似た怒声を上げると、彼女はなおも僕の上に跨ったまま、平然と言葉を継いだ。


「【庭園葬送フィオル・クレマシオス】……カイス様の最高火力魔法ですね」


 その名を、彼女は懐かしむように、正確な抑揚で口にした。


「昔、お城に近づいてきた数百人の盗賊を、一度に焼き払ったことがありました。あのとき、カイス様は笑顔で――『今宵は冷える。薪が自らやって来てくれて助かるな』って」


 背筋を、冷たいものが走る。


「……お前、どうしてそれを」


「でも駄目ですよ? ここで使ったら、辺り一面、焼け野原です」


 彼女は肩をすくめ、冗談めかして続けた。


「あ、でも。一度くらい、身をもって受けてみるのも――アリだったかも、ですけど」


 本当に、何者だ、この女は。


 アーイシャとの記憶を、正確すぎるほどになぞってくる。

 だが外見は違う。声も、仕草も、性格も。

 彼女は、もっと静かで、控えめで、笑うときも目を伏せていた――はずだ。


 前世で同じ城にいた眷属か。

 召喚の歪みで、外形だけが変質したアーイシャか。

 それとも――アーイシャの魔力を媒介に、記憶だけを宿してしまった、完全な他人か。


 どれであっても、看過できない。


 ここで、はっきりさせなければならない。

 多少、強引になろうとも。


 大丈夫だ。

 僕は、強い。


 ――そう、自分に言い聞かせながら、震える指先に、再び力を集め始めた。

 

「もう一度だけ聞いてやる」


 声は、自分でも驚くほど平坦だった。

 怒りも、焦りも、すでに沈殿している。ただ事実を選別するための温度だけが残っていた。


「チャンスは三度も与えない。お前は誰だ。アーイシャか。眷属か。それとも――」


「何度も言ってるじゃないですか」


 彼女は肩をすくめ、困ったように笑う。


「私は、あなたのお嫁さんです」


「証明できるか?」


 喉の奥で、乾いた音が鳴った。


「僕はな、花園に棲む草食動物よりも臆病で、警戒心が強い」


「どうしてそんな情けないことを、胸を張って言えるんですか」


「僕が誰よりも強いからだ」


 その言葉は、虚勢ではない。

 疑う力こそが、生き延びてきた理由だった。


「……じゃあ」


 彼女は、ほんの一瞬だけ視線を伏せる。


「証明できなければ、どうなさるんですか?」


「お前を、あの世に送り還す」


 淡々と告げる。


「死霊術は、また最初から研究すればいい。失敗には、もう慣れている」


「送り還す……」


 その復唱は、やけに静かだった。


「三つ数えるまでに答えろ」


 僕は魔力を、確実に、指先へと集める。


「それでなければ、次は即死魔術だ。お前は誰だ」


 大きく息を吸う。

 肺が軋むほどに。


 数える。


「三……」


 躊躇はない。


「二……」


 情は切り捨てた。


「一……!」


 ――殺す。


 もう、決めた。



「死ね――」


「殺せませんよ」


 言葉が、空中で凍りついた。


 沈黙が降りる。

 重く、薄く、逃げ場のない静けさだった。


 ――今、こいつは何と言った?


 いや——

 気に留める必要はない。意味を考えるだけ時間の無駄だ。

 僕には目的がある。アーイシャを召喚する。それだけの人生だった。


 再び、左手を掲げる。


 次は焼かない。

 一瞬だ。


 死霊術師。

 命を呼び、命を縛り、命を終わらせる者。

 生かすも殺すも、すべてはこの手のひら一つで決まる――それが、僕の真理だった。


 左手の甲に、魔術紋が浮かび上がる。

 即死魔術特有の、冴え冴えとした柴色。

 冷たく、情のない光が広がり、魔法陣を形作る。


 その瞬間だった。


 パチン――。


 指を弾く、あまりにも軽い音。


「……は?」


「残念ですけど」


 彼女は微笑んだ。

 勝者の笑みでも、嘲りでもない。

 ただ、結果を知っている者の表情で。


「おしまいです」


 次の瞬間、僕の魔法陣は――


 崩れた。


 破壊された、というより、

 最初から成立していなかったかのように。


 鏡に石を投げた時のように。

 いや、それよりもずっと容易く。


 指先一つ、鳴らしただけで。


 ――理解が、遅れて追いつく。


「お前……何をした」


 声が、思ったより掠れていた。


「あり得ないだろう? 僕の作った魔術だぞ」


「わあ」


 少女は楽しそうに目を細める。


「カイス様が動揺してる。すごく貴重です。可愛い」


「戯言を言うな!」


 怒鳴り返したつもりだったが、喉が震えた。


「僕がお前を召喚した。僕が主だ。召喚者と被召喚者の力関係を忘れるな!」


「……本当に、忘れてるのはどっちでしょう」


 少女は首を傾げる。


「カイス様。私を蘇らせた時、あなたは何を差し出しました?」


「は……?」


「持ちうる魔力。命。その、すべてです」


 淡々とした声だった。

 事実を読み上げるだけの、感情のない口調。


「今のカイス様に残っている魔力は、死霊術を使う前の……せいぜい一割。いえ、それも甘く見積もって、ですけど」


 背筋を、冷たいものが這い上がる。


 僕は確かに、投げ打った。

 アーイシャと再会するためなら、全てを差し出す覚悟だった。


 そして――術は、成功した。


 誰を呼び出したのかは分からない。

 だが、対価は正しく支払われている。


 少女が指先で、ゆっくりと僕の鼻筋をなぞる。

 ひやりとした感触。

 そして、軽く唇で弾いた。


「カイス様が失った九割の力は、今……私の中にあります」


 囁くような声。


「たぶん、一秒もかかりません。今のあなたを殺すくらいなら」


 言葉と同時に、胸が強く脈打った。


「あなたの心臓は今、私の手の中にあるんですよ?」


 ――理解した。


 僕は、召喚に成功したのではない。

 譲渡したのだ。


 力を。

 命を。

 そして、立場を。


 ああ。


 僕はきっと、

 この世に存在させてはいけないものを、

 自分の手で生み落としてしまったのだろう。


 この時、初めて――

 僕は、他人を恐れた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る