雪女が立つ港――町が忘れた恐怖

霧原零時

第1話

津軽の北端に近いその港町は、

冬になると、断末魔のように海が唸る。


荒れ狂う日本海は黒い腹を見せ、

白く濁った波が防波堤を越えて砕け散る。

飛沫は氷の粒となり、町の道路標識を白く覆っていた。


吹雪が吹き荒れると、

町と海の境目は消えてしまう。


地図で見れば、そこは確かに「町」だった。

だが実際に立ってみると、見渡す限り無人。


道には足跡のない雪が積もり、

人の形をした気配だけが、

取り残されたように点在している。



役場は、

平日の昼過ぎでも静まり返っていた。


暖房の効いた窓口にいたのは、

肌の色の薄い、年老いた男女が二人。

机の上で、昼でもない時間に、

おやつの餅を食べている。


「あのだろ。

 二年めえに、東京さ出て行ったわ」


老婆のしわがれた声が、無機質な部屋に響く。

餅を咀嚼しながら、彼女はどこか遠くを見つめていた。

もう何十回、何百回と同じ話を繰り返しているのだろうか。


壁掛け時計は止まったまま。

書類の山よりも、

その二人の影の方が薄かった。


「観光ですかね?」


窓口の――

歯の抜けた老人の言葉は、

人に話しかけるというより、

独り言に近かった。



町の駐在所には、

さらに年を重ねた老人が一人いるだけだった。


石炭ストーブのそばで、

逆さに吊るされた黒いゴム長靴から、

雪解けの水が、ぽつり、ぽつりと落ちている。


制服を着た老人は椅子に沈み、

湯気の立つ湯呑を、

茶色く染みのある手で抱え、

震える体温を誤魔化すように啜っている。


無線機の電源は切られ、

壁のカレンダーは去年のまま止まっていた。


事件ずけん?」


老人は一拍遅れて首を振った。


「いや……特にねぇな」


窓の外では、

吹雪が港を呑み込んでいた。


――ここでは、

何かが起きても、事件にならない。



『月刊 怪異霊界探訪』――

その雑誌記者の俺がここに来たのは、

町役場のホームページの片隅に、

小さく載っていた古い一文を見たからだ。


「ツアヌバの呪いか? 

 冬の海で、原因不明の怪異が起きている」


夜になると、

港に、女――ツアヌバが立つという。


ツアヌバ――。

地元の古老に言わせれば、

それは

「強い吹雪の夜に、

 海と陸の境界きわが消える場所」

を指す、古い方言だと言う。


白い着物。

濡れた長い白髪。

吹雪の中でも足跡を残さず、

呼びかけると――

声だけが、背後から返ってくる。


記録としては、

どこにでもある雪女の話だった。


だが、

この町の人間は誰も怯えていなかった。



古い民宿の老婆は、

こたつに潜りながら、首だけ出して言った。


「また立ってらべさ」


その瞬間――

座敷童子のために置かれた、

床の間のぬいぐるみがひとつ、

何も触れられずに倒れた。



港でも同じだった。


「寒ぐなると、ああいうの、出るんだ。

 人じゃねぇから、放っとげ」


耳元で囁く声。

背中にまとわりつく冷気。

振り向けば、

確かに“それ”は立っている。


なのに、


「なんも見ねぇな」


「誰か、いたが?」


老人たちは、

女の横を、普通に通り過ぎる。


視界が歪む。

冷気が、肺の奥まで入り込む。


――これは、

見えているのに、存在していない。



夜更け、

俺は一人で港に立った。


吹雪の向こうに、

背の高い女がいた。


白い顔。

底の見えない、黒い眼。


目が合った瞬間、

全身の血が凍りつく。


(逃げろ)


本能が命の警鐘を鳴らす。

だが、雪に埋もれた足は鉛のように重く、

命令を拒んだ。


女が、音もなく近づいてくる。


吐く息が白くならない。

体温が、皮膚の内側から

ごっそり削り取られていく。


喉が鳴らず、

声が出ない。


女の細い指が、

ダウンジャケットをすり抜け、

直接、俺の胸に触れた。


――痛い。


冷たいのではない。

熱した鉄を押し当てられたような、

あるいは、

存在そのものを削ぎ落とされるような

絶対的な喪失。


「あ……ぁ……」


視界が急速に暗転し、

膝から崩れ落ちる。

雪の上に倒れ込んだ俺を、

女は、静かに見下ろしていた。


その唇が、わずかに動く。


「……昔はね」


声は鼓膜を震わせない。

脳髄に、氷水を直接流し込まれるように、

内側から響いた。


「ここに来れば、人がいた。

 叫んで、逃げて、

 ちゃんと……怖がってくれた」


冷たい指が、

さらに深く食い込む。


命を奪っているのではない。

俺が発する「恐怖」そのものを、

飢えた獣のように

貪っている。


視界が潰れ、

意識が遠のく。


「今は、

 何をしても、誰も気づかない」


――ああ、そうか。


この町では、

恐怖そのものが、もう通じない。


人が減り、

記憶が薄れ、

意味が消えた。


幽霊ですら、

役目を失っている。


「わたしは……

 それが、一番怖い」


その言葉と同時に、

女の手が、離れた。


吹雪の中、

彼女は初めて、

歪んだ笑みを浮かべる。


<https://kakuyomu.jp/users/shin-freedomxx/news/16817330663845117637>


「……昔を思い出させてくれて、ありがとう」



翌朝、

俺は港の雪の中で目を覚ました。


体温は、

完全には戻っていない。


だが町は、

いつも通りだった。


吹雪。

うねる海。

動かない家々。


ふらつく足で宿に戻り、

町のホームページを確認すると、

あの一文は、消えていた。


夜、

女が立っているかどうかを、

この町では、もう誰も気にしない。



――そしてそれは、


幽霊にとっても、


人にとっても、


静かに終わっていくだけの世界だった。


終わり














――◇―― ――◇―― ――◇―― ――◇――

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この作品は、

小説家になろうのある企画「冬のホラー」向けに執筆した短編で、

投稿当時はホラージャンルの日間ランキング2位をいただくことができました。


物語の途中に挿入している画像は、

その際に読者の方からいただいたファンアートです。


微笑んでいるのに、

どこか切なさを湛えた雪女の表情はもちろん、

背景の港町まで丁寧に描かれていて、

まさに「この物語の舞台は、確かにここだ」と、

感じさせてくれる一枚でした。


恐怖が役目を失った世界で、

それでも立ち続ける存在がいる。


そんな余韻を、

少しでも感じて頂ければ幸いです。

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雪女が立つ港――町が忘れた恐怖 霧原零時 @shin-freedomxx

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