第7話 痛みの理由 前編

「痛……くない?」


 顔面を思いっきり殴られて全身を強張らせた加恋だが、来ると思っていた痛みが全く感じられなかった。いつの間にか右腕の制御も戻っていた。


「ちょっと何するのよ! 女子の顔を殴るとか信じらんない!」


 男に殴られるなど恐怖でしかない。

 泣き叫びながら逃げ出すか、その場に蹲って震えて縮こまるか。


 だがそうしようにも敵は己の身体の中に居て、永遠に危険なまま。

 加恋が選択したのは、大声をあげてどうにか恐怖を振り払おうとすること。


「(…………)」


 しかし心の中の一哲は返事をしない。


「ちょっとなんとか言いなさいよ! 都合が悪くなったらだんまりなの! この卑怯者!」

「(…………)」


 もう一度激しく問いかけてみるが、やはり答えは来ない。


「何よ……私の不安を煽って脅かす……あれ、もしかして」


 先ほどからずっと違和感があった。

 どうして殴られたはずなのに全く痛くないのか。


 よくよく思い返してみれば、殴られる直前、言葉を発していたのは自分では無く一哲だった。ということは、一哲の顔になっていたのではないか。殴られたのは一哲だから、自分は痛くなかったのではないだろうか。


「痛みは共有しない? でも視線は共有してるし……??」


 やはり冬星保険医にもう少し詳しく聞いておくべきだったのだろう。


「そういえば腕があいつに奪われた時、感覚が無かった気がする。じゃあやっぱり、表に出て制御している方だけが身体の感覚があるのかな」


 その仮説が正しいとすると、何が判明するのか。


「くすくす、あいつ馬鹿ね。自分の顔殴って気絶してるんだわ。だから返事が無いのね」


 もちろん気絶して無くて無言なだけの可能性はある。

 だが少なくとも顔を殴られたダメージはあるはずだ。


 このまま顔の制御を加恋に渡したままだとしても、朝になれば分離して激痛に呻くことになるに違いない。その姿を想像するだけで多少は溜飲が下がるものだ。


「ざまあみろ、よ。これでゆっくり考えられるわ」


 気絶して無くて逆上した一哲が再び腕の制御を奪いエロいことをやろうとする可能性があるので油断はしないが、あれほど激昂していた一哲が突然何も反応しなくなったということは加恋に何かする精神的な余裕が無い可能性が高い。ゆえに加恋は少しだけ心を落ち着かせることが出来たのだった。


「今のうちにやるべきことをやってしまいましょう」


 着替えにご飯に風呂にトイレ。


 この中で着替えと風呂は途中で一哲に見られるかもしれないのでNG。

 ご飯は問題ないけれど、食べるとトイレに行きたくなってしまうだろう。どうにか我慢して朝を待つか、最悪一哲の意識が無いことを期待し、視線をデリケートな部分に向けないようにしてさっと済ますかだ。 


「本当は明日の準備とか部屋の片づけとかしたいけど、それどころじゃないし……」


 今は一刻も早く一哲と分離して、再度バディ変更の抗議をすることで頭が一杯だった。


「相手が性犯罪者だって言えば、流石に変わるわよね……」


 一哲に胸を揉まれたことは最悪だが、それが一哲を学園から追い出す理由になるかもしれない。今の状況を変えられるかもしれないと、微かな期待を見出していた。


「ああ、早く明日にならないかしら」


 まだ外は明るく、夕方だ。

 悶々とした気持ちで夜まで時間を潰さなければならない。


 こんな時、加恋ならどうするか。


 テレビを見るのか。

 スマホでネットサーフィンするのか。

 ゲームをするのか。


 否、彼女がやるべきことなど一つしかない。


「数学の問題集でも解いて気分転換しましょ」


 なんと加恋はこの状況で勉強を始めたのだった。

 普通なら勉強が手に着かないはずなのに、むしろ勉強に集中することで嫌なことを忘れようとしている。


 一哲でなくともドン引きする人がいるかもしれない。


--------


 結局、何事もなくその日は終わった。

 一哲の反応は相変わらず無いままだ。


「後は寝るだけね。制服に皴がついちゃうけど、このままソファーで寝ましょう」


 自分の部屋に行けば着替えもベッドもあるが、万が一にでも着替えを見られたくないし、自分の部屋に一哲を入れさせたくない。ゆえにリビングのソファーで寝ることを選択したようだ。


「はぁ……疲れた……」


 電気を消して横になると、すぐに眠気が襲ってくる。


「(あいつ私が寝ちゃったら手を出して来るのかな。うう……寝たくないよぅ……)」


 意識を手放すことがあまりにも恐ろしい。

 その瞬間に一哲にやられたい放題になってしまうから。


「(あれ、でも私が寝ちゃったら体の制御が欲しいって思わなくなるわけだし、全身があいつのものになっちゃうのかな。だったら私は変なことされないか)」


 もし二人とも制御を手放そうとしたらどうなるのだろうか。

 やはりその辺りのことは聞いておくべきだった。


「(もしも朝、私よりあいつが先に目覚めたらまずいかも。でも目覚まし何時にかければ良いか分からないし、早く起きすぎて分離しなかったら最悪だし。うう、どうしよう)」


 何もされなかったという証拠が欲しい。

 最悪されてしまったら、それを証明して学園から追放させたい。


「(スマホで録画しておきましょう)」


 加恋はリビングの隅にスマホをセットして、自分の全身が映るようにした。

 寝ている間の様子を録画しておくことで、自分の身に何が起きたのかを記録しておくためだ。


「(これでよし、と)」


 再び加恋はソファーに横になり目を閉じる。


「(散々な一日だった)」


 入学式までは良かった。

 自分のスピーチを一哲が全く聞いていなかったことに気付いて腹立たしかったが、そんなの今思えばどうでも良い。


 その一哲とバディを組むことになってしまい、口論の末に階段から落ちて全身を殴打し、世界一嫌いな男子と体が合体し、同棲させられ、胸を揉まれ、史上最悪の二択を叩きつけられた。


 心を病んで病院送りになってもおかしくない程の試練だ。


「(幸いなのは、あれほど激しく階段から落ちたのに、足首が少し痛む程度で済んだことね)」


 捻挫や骨折。それどころか、背中や頭を打って重大な後遺症が残る怪我を負ってしまっていた可能性もあった。まだしっかりと調べて貰ってないため完全に安心はできないが、軽傷で済んだのであれば不幸中の幸いだろう。


「(…………え?)」


 だが果たして本当にそんなことがあり得るのだろうか。


「(いくらなんでもおかしくない? 普通はもっと怪我するよね?)」


 階段から落ちてからの自分の身体のことを思い出そうとする。


「(ううん、違う。そんなことしなくても良い。あいつが表に出ている時は、私は身体の感触が無いから痛みも感じてない。私が痛みを感じるのは私の身体が表に出ている時だけ。つまり、単純に痛みを感じたかどうかだけを思い出せば良いんだ)」


 落ちた直後は痛みに顔をしかめて起き上がろうとした。


 本当に痛かったのか?

 階段から落ちて痛いと思い込んでいたから、反射的にそう反応してしまったのではないか?


「(あれ……おかしい……どうして……どうして私、痛くないの?)」


 体を打った覚えはある。

 それなのに、足首以外ではっきりとした痛みを感じた覚えが全く無い。


「(ダメ……考えちゃダメ……寝よう、寝ましょう)」


 とてつもなく嫌な予感がして現実逃避しようと試みる。

 しかし不思議なもので、考えまいとすると逆に考えてしまうもの。


 階段を落ちたあの時の風景を思い出そうとしてしまう。

 封印していた記憶が蘇ろうとしていた。


『きゃあ!』

『うお!』


 あの時、窓から飛び込んで来た鳥に驚き、加恋は足を踏み外して階段に身体が投げ出された。


 その直後、何かが加恋にぶつかり、回転しながら階下へと落下する。


 段差に身体がぶつかるたびに、猛烈な痛みが発生するはずだった。


 しかし加恋にはそんな記憶が全く無かった。


「(痛く……無かった……階段じゃなくて……これ以上はダメっ……!)」


 一体何が起きたのか。

 加恋にぶつかったのは何なのか。


 ぼやけていた記憶が、開かれようとしていた。


「(嘘……そんなの嘘……ありえない!)」


 脳裏に蘇るのは、加恋に向けて伸ばされた手。

 その先にあるものが加恋の身体をしっかりと包み込み、落下のクッションとなってくれていた。


 加恋はそれをしっかりと目撃していた。


 しかしどうしても認められず脳が自動的に忘れようとしていた、考えないようにしていた。


 その封印が、今解かれた。

 あの時の記憶が完全に蘇ってしまった。


「(違う……!違う違う違う違う!)」


 何故一哲は、合体後に全身の制御を加恋に渡したのか。

 油断させてエロいことを仕掛けようとしていたからと言っていたが、それは本当なのだろうか。


 自分の身体が傷だらけであまりにも痛くて、歩くことすらままならないからではないのだろうか。


「(あいつが……あいつが私を助けてくれたなんてありえない!)」


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