02





「ごめーん急に。流太さんピアノやってたって聞いてさ。ちょっと両手で弾いてくれるだけでいいの、お願い」



 持ち運び用のキーボードを備品室から借りてきたという、隣のクラスの家島(いえじま)さんに「SNSに友達と歌ってみた動画あげたいの」と伴奏をお願いされたのは、翌日の昼休みだった。



 優里と机をくっつけて昼食を食べていた私は、内心激しく動揺した。



 家島さんはクラスでもとりわけ目立つ一軍女子だ。彼女の隣には、別クラスのこれまた一軍女子が「お願い」と私に向かって両手をあわせている。どっちも上履きに厚底のインソールを履いているから、短いスカートの裾が机にのってしまうほど背が高い。



「えっと……」


「ごめん陽」


 答えを濁していると、小声で優里に謝られた。



「学祭のときに陽がピアノやってたって言ったから。家ちゃん達とカラオケ行ったとき、教えちゃった。……もしかして内緒にしてた?」


「ダメではないけど……私ずっと弾いてないから」


「両手がダメなら右手だけでもいいの、お願い流太さんっ。周りにピアノやってる子いなくてさ。この曲なんだけど」



 家島さんがスマホで曲を流した。ノスタルジックでジャズテイストの曲が緩やかに流れた。初めて聞くけどいい曲だ。ナインスコードで進行していてシンプル。テンポは適度な速さで92ぐらいかな? アンダンテよりは速い、モデラート。




「楽譜は一応あるんだ。ピアノの動画あげてる人が無料で公開してて」



 はっきり断る前に、家島さんの隣にいる女生徒に楽譜を押し付けられる。『初級 弾き語り用』と書いてある文字に、背中を押されたのは事実だ。



 弾いたところで今さらとは思うけど、これぐらい簡単な楽譜なら今の私にも?



 初めて見るキーボードの鍵盤を見下ろす。



 これまでの人生でハーモニカ、電子ピアノ、アップライト、グランドピアノには触れてきたけど、キーボードの鍵盤には一度も触れたことがない。見る限りかなり軽そうな押し心地だ。


 昨日は結局グランドピアノに触れはしなかったけど、いけそうな予感はあった。




「お願い流太さん。ピアノ弾ける子、周りにマジでいなくてさ」


「……うん」


「え、OK?」


「弾けるかわかんないけど……最初だけ、ちょっと弾いてみてもいい?」


「もちろん、なんでも弾いて!」



 成功する自分を想像しながら、電子キーボードに楽譜をセットした。優里がピーチ炭酸水のペットボトルの蓋を開ける。



 プシュッと小気味いい音を合図に、いざゆかん、と鍵盤に指を置いた瞬間、ビーッ! と頭に警報が鳴った。びっくりして、弾かれるように鍵盤から指を放す。 



 机に両手をついた家島さんが首を傾げた。




「どうしたの?」


「この鍵盤……今触ったらべたっとしてて」


「あー。さっきヘアオイルこぼしちゃったからそれかも。ごめんごめん。はい、綺麗になった」



 家島さんは下着が見えそうになるのも構わず、スカートの裾で鍵盤をゴシゴシ拭った。



「さ、弾いて弾いて」


 家島さんが鍵盤を手差しする。

 でも、私の指は動かなかった。

 長過ぎる沈黙がおちる。



 家島さんと女生徒からの視線が痛い。おまけにこっちの様子をうかがってたクラスメイトの「流太さん、ピアノ弾けるの?」「なら卒業式の合唱伴奏候補じゃん」なんて無邪気な声を聞いて、指はどんどん固くなる。



 優里がピーチ炭酸水を、ごくっと嚥下する音がした。


 やっぱり私、全然ダメだ。



 指がかたまって、鍵盤を押せない。顔を思い切りしかめていると、私と同じくらい家島さんの表情が不機嫌になっていくのが見えた。家島さんが、電子キーボードを黒いナイロンケースに押し込む。



「……嫌ならいいよ。ごめんね無理言って」



 電子キーボードを黒いナイロンケースに押し込む家島さんの表情が、除々に不機嫌になる。私は慌てて頭を下げた。



「ごめん、違うの。弾けると思ったんだけど指の調子が」


「いいよいいよー、謝んないで。ていうか流太さんって結構神経質なんだね。人が触ったもの、触るの苦手なんだ」



 全然そんな風に見えないのにね、と家島さんと女生徒が教室から去っていく。私はおそるおそる優里を見た。彼女は明らかに困惑していた。



「陽、神経質なの? 人が触ったもの苦手なの?」


「違う、違うの。そういうんじゃなくて指の調子が本当に悪くて」


「でも弾けると思ったから、弾いていい? って家ちゃんに言ったんだよね」


「言ったけど、緊張が抜けなくて……」



 言えば言うほど言い訳に聞こえる。優里は「そっかぁ。楽器って、いつでも弾けるわけじゃないんだね」と頷いてくれたけど、違和感をおぼえてるのは明らかだった。



 優里は『この桃の炭酸水おいしいよ。一口飲んでみて陽』とスタンバイしていただろうペットボトルの蓋をきつく閉めて、私にお裾分けすることなく、カバンに押し込んだ。


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